放下著と「赦し」の教え
音声データ
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詩編・聖書日課・特祷
2023年9月17日(日)の詩編・聖書日課
旧 約:シラ書27章30節~28章7節
詩 編:103編8~13節
使徒書:ローマの信徒への手紙14章5~12節
福音書:マタイによる福音書18章21~35節
特祷
神よ、あなたに寄らなければわたしたちはみ心にかなうことができません。どうか何事をするにも、聖霊によってわたしたちの心を治め、導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。
はじめに
どうも皆さん「いつくしみ!」本日もよろしくお願いいたします。
本日のお話は、“超短縮バージョン”でお送りしたいと思います[拍手]。この後、急いで名古屋に帰って、マタイ教会の皆さんと一緒に上田まで行かないといけませんのでね(※)。まぁコレを機に、今後も、短くて分かりやすいお話を心がけていこうとは思っているんですけれども、特に今回は、バシッと、シンプルに、福音を語ってまいりたいと思います。
(※「教区研修会」会場:上田聖ミカエル及諸天使教会)
放下著と「赦し」
さて皆さん、この言葉をご存知でしょうか。「放下著」。これは“ほうげじゃく”と読みます。これは、仏教の禅語(禅の教えの言葉)なんですね。「福音を語る」と言った直後に「仏教」の話かよ!と思われるかもしれませんけれども、大丈夫です。ちゃんとこの後、聖書の教えに繋がっていきますのでご安心ください。この「放下著」という言葉には、手放せ、捨ててしまえ、という意味があるそうです。以前お話したことがあると思うんですが、僕の義理の父(妻のお父さん)はお坊さんなんですね。曹洞宗のお寺の住職をしておられます。この言葉は、以前、お義父さんから教えていただいたんですけれども、それ以来、何かにつけてこの言葉を思い出すようにしています。
この言葉の本来の意味は、「持っているものを全て手放してみよ。更には、その『全てを手放した』という達成感すら捨ててみよ」というような厳しい言葉なのだそうですけれども、まぁさすがに、そんなこと普通の人間にはできないですよね。ですので、それはそれで、まぁ“究極的な目標”であるとはしつつも、もう少し現実的に、実践可能なレベルまでハードルを下げた形で解釈しても良いんじゃないかと思います。すなわち「執着するのを止めなさい。頑なに握りしめているものを手放してみなさい。そうすれば、真実を見出せるはずだ」というような感じですね。執着――。“これが絶対に自分にとって大事なんだ”というような考えを試しに手放してみたら、心も身体も軽くなって、他に大事なことが見えてくるかもしれない。そのような、主観的ではなく“客観的”に物事を捉えることを説いた教えなのだと、そう理解しても良いのではないかと思うんですね。
この「放下著」という禅の教えは、我々キリスト教が大切にしている「赦し」というものに通じるところがあるように感じます。と言いますのも、今回の聖書日課でキーワードの一つになっておりました「赦し」という言葉。この「赦し」(ἀφίημι)というギリシア語の言葉は、確かに、基本的には「罪を赦す(罪ある者を赦す)」という意味で使われることの多い言葉ではあります。ですが、この言葉の語源(成り立ち)を調べてみましたところ、実は、この「ἀφίημι」というギリシア語は、本来、「解放する」とか「手放す」「自分のもとから去らせる」という意味を持っている言葉だということが分かったんですね。
おそらく、罪人の拘束を解いて(あるいは牢屋から出して)解放する、というところから、後に「赦し」という意味で使われるようになったのではないかと考えられるわけですけれども、そのように、自分の手の届く範囲にずっと留めておくのではなく、パッと手を開いて自由にさせる、というところに、今回僕はこの「放下著」という禅の教えとの親和性を感じたわけなんですね。
赦す=手放す
イエス・キリストは、今日の福音書の箇所で「七の七十倍までも赦しなさい」と語っていました(マタイ18:22)。これは、7×70の490回赦しなさい……ということではないんですよね。そうではなくて「無制限に赦し続けなさい」という意味で語られた言葉なのだろうと思われます。ただ、現実の世界を見渡してみますと、やはり「どんなことがあっても絶対に赦し続けなさい」というのは、あまりにも非現実的過ぎる命令なのではないかと感じてしまいます。
社会的に悪とされることをした人は、きちんと法律で裁かれるべきであるはずです。あるいは、もし誰かから身体や心を傷つけられるようなことがあったとするならば、場合によっては、相手のことを「赦さない」という、そういう強い意志が必要になることもあるのではないかと僕は思います。「赦す」ということと、悪に対して目をつぶったり、悪から目を逸らしたりすることというのは、全く違いますからね。憐れみをもって「赦してあげるべきか」、それとも「赦すべきではないとするのか」は、実際のところ、その状況ごとに変わってくるものだろうと思います。
ただし、そのような中で一つ、気をつけておかなければならないことがあります。それは、本当ならば、悪いことをしたその“誰か”が縛られるべきであるはずなのに、気づいたら、逆に自分のことを縛ってしまっていた、というような事態だけは何とかして避けたいということです。人は、ややもすれば、悪に対する怒りや憎しみなど、様々な感情を抱え込むことで、かえって自分で自分のことを不自由にしてしまうことがあります。それは「執着」のせいですね。
「執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる」という仏教の教えがあるそうですけれども、今回の「赦し」との関連で言えば、間違っている誰かを変えてやりたい(そうすれば赦してやるのに)という“欲望”が“怒り”を生み、その“怒り”の熱さが自分を苦しめることに繋がってしまうというように言えるのではないでしょうか。なので、そうならないように、まずは自分の心を「ἀφίημι」、解放してあげて、そして感情からではなく、事実そのものを冷静に客観的に見つめられる状態へと自分を整えていくことが必要なのだろうと思います。
おわりに
今回の特祷の言葉は、自分の心を解放(開放)する大切さを端的に言い表してくれています。「神よ、あなたに寄らなければわたしたちはみ心にかなうことができません。どうか何事をするにも、聖霊によってわたしたちの心を治め、導いてください。」自分の思いではなく、神の純粋さが自分の心を支配してくださるようにと願うこの祈りは、キリスト教版の「放下著」と言っても良いかもしれません。自分で自分を不自由にしてしまうような思いや考えへの執着に気付き、それらを勇気をもって手放してみて、そして心の中にできた空間に、神さまをお迎えする……。それによって、はじめて我々は、本当の「赦し」の道へと進んでいくことができるのではないでしょうか。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。
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