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ぼくらのエゴー・エイミ

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詩編・聖書日課

2023年11月12日(日)の詩編・聖書日課
 詩編:105編7~15節
 旧約:創世記12章1~9節
 新約:ヨハネによる福音書8章51~59節

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」
 さて、今日ははじめに、一つ“謎かけ”を披露させていただきたいと思います。今日の聖書箇所に関する謎かけです。こちらですね。

「99歳になるまでのアブラハムと掛けまして、
産まれて間もない赤ちゃんと解きます。
その心は……どちらも『ハ(歯)』が無いでしょう。」


 そうなんです。まぁ皆さんご存知かと思いますけれども、今回の旧約聖書の箇所に出てきておりました「アブラム」という人物は、アブラハムの昔の名前なんですね。彼は99歳のときに、神様によって名前がアブラムからアブラハムへと変えられました(創17:5)。「人生100年時代」とか言われておりますけれども、99歳で名前が変わるって、どんな気分なんでしょうね。裁判所の人も、役所の人も、びっくりしちゃいますよね。「えー!いま変えるんですか!?」って。

アブラハムの召命と神の約束

 というわけでですね、今回はこの「アブラハム」という人のお話から始めていきたいと思うんですけれども……。今日の旧約聖書の箇所として選ばれておりました創世記12章のところで、アブラハムは、神様から次のような託宣を受けています。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(2〜3節)
 アブラハムは、この神の言葉を受けて、神が示す地へと旅立っていきました。その「神が示す地」というのは、かつて「カナンの地」と呼ばれていた地域のことを指しています。現在のパレスチナやイスラエル、レバノン、そしてヨルダンとシリアの一部を含む地域のことですね。いま、世界中が注目しているパレスチナの「ガザ地区」も、その地域に含まれています。もうね、本当に、「いい加減にせぇよ!」と叫びたくなるくらい残酷なことが、イスラエル政府、イスラエル軍によって公然と続けられているわけですけれども……。まさにそのガザ地区も含めた、いわゆる「カナンの地」へ行くようにと、神はアブラハムに命じたんですね。
 どうして、神はアブラハムに「カナンの地」に行くよう指示したのか。それは、アブラハムとの間に“ある約束”を交わすためだったと今日の箇所は伝えています。12章7節には次のように書かれていました。「主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』」
 こうして、アブラハムの子孫であるイスラエル民族は、後に、その地域に根を下ろして、そしてそこを領土として国を築いていくことになった――というのが、このアブラハムという人物から始まる「族長物語」の“結末”であるわけなんですね。

ユダヤ人というアイデンティティ

 その後、時は流れて西暦135年、イスラエル民族の子孫である「ユダヤ人」たちは、ローマ帝国に氾濫を起こした結果、惨敗し、彼らはその土地を追われて、世界中に離散して生活するようになります。それはまさしく、民族や宗教の消滅の危機とも言える出来事だったわけですけれども、しかし彼らの存在が失われることはありませんでした。彼らは、移住したそれぞれの土地で、週ごとの安息日や、毎年の「過越祭」などの祭りを守り続けることで、その危機を乗り越えたんですね。
 彼らにとって、ユダヤ教の習慣を守り続けることは、過去の出来事を想い起こすだけでなく、アブラハムやイサク、ヤコブといった古の祖先たちを召し出した神との契約が、今もなお継続しているのだということを互いに確認し合う目的があったのだろうと思います。そして、それによって彼らは、「自分たちは何者なのか。そうだ、自分たちはユダヤ人である」という自己認識を強くしていき、そのアイデンティティを、過去から現在へ、そして未来へと、何世代にもわたって受け継いできたわけなんですね。
 人類の辿ってきた歴史全体を見てみましても、おそらくユダヤ人以上に数奇な歴史を紡いできた民族集団は他に存在しないと思うわけですが、そんな偉大な人々が、20世紀以降、イスラエル建国から今に至るまで、パレスチナの地で数々の蛮行を繰り返しているのは本当に残念でなりません。イスラエル政府、そしてイスラエル軍がパレスチナの二つの地区に対して行なっていることを支持している人々、あるいは黙認している人々には、どうか「自分たちはユダヤ人だ」と言う前に、「自分は一人の理性を持った人間である」ということを思い出してほしいと、僕は強く願っています。

エゴー・エイミ(私は〜〜である)

 さて、ここで、今日の説教題の中にあった“謎の言葉”についてお話したいと思います。「ぼくらのエゴー・エイミ」というのが今日の説教のタイトルでしたけれども、皆さん「『エゴー・エイミ』って何だろう?」と思われたのではないでしょうか。
エゴー・エイミ(γ εμというのは、ギリシア語の言葉なんですが、英語にすると“I am”、つまり「私は〜〜である」という意味の言葉なんですね。この「エゴー・エイミ」という表現は、本日のヨハネ福音書の箇所に使われています。8章の58節のところなんですけれども、そこには次のように書かれています。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
 この中でイエスが最後に言っている「わたしはある」という部分が、ギリシア語では「エゴー・エイミ」と書かれているんですね。ヨハネ福音書では、この「エゴー・エイミ」という言葉が全部で“24回”出てきます。ただし、24回のうち、多くの場合は、この「エゴー・エイミ」の後にいわゆる「補語」というものが続いているんですね。つまり、“I am 〜〜.”の“〜〜”の部分が付いているということです。たとえば、「わたしが命のパンである」(6:35)とか「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)というような感じで、「わたしは何なのか」をはっきりと述べる際に「エゴー・エイミ」という言葉が使われているんですね。
 しかし、今回の場合は違うのです。「エゴー・エイミ」の後には、何も書かれていないんですね。つまり、「わたしは〜〜である」の「〜〜」の部分が無いということです。
 実は、一応、この「エゴー・エイミ」だけでも意味は通じます。その場合、一言「エゴー・エイミ」と言えば、「わたしです」という意味になるんですね(「あなたは誰?」→「わたしです/エゴー・エイミ」という感じ)。では、今回の箇所の場合も「アブラハムが生まれる前から『わたしだ』」という感じになるのかと言うと、さすがにそれでは文章として可怪しいでしょうということで、たとえば、僕らがいま使っている新共同訳聖書では、(苦し紛れの訳ではあるんですけれども)「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」というように訳されているわけなんですね。

アブラハムが生まれる前から『わたしだ』

 ただ、僕は個人的には、むしろ、何も余計な言葉を補わないで「アブラハムが生まれる前から『わたしだ』」というように訳したほうが、(たしかに意味は分かりづらいのだけれども)文脈的には適切なのではないかと思っています。
 と言いますのも、今回の箇所でイエスは、エルサレムのユダヤ人たちと対話をしているんですが、その中で彼らは「自分が何に属しているか」ということをテーマに議論をしています。ユダヤ人たちは、自分たちのことを「アブラハムの子孫」であるとイエスに告げます。先ほども少しお話したように、「ユダヤ人」と呼ばれる人々は、旧約聖書に登場する「アブラハム」という人物が自分たちの父祖である(先祖である)と信じて、そのアブラハムと神との間で交わされた救いの契約の“相続人”であると自認していました。つまり、彼らは「アブラハムの子孫」である「ユダヤ人」という民族集団に属していると考えることで、自らのアイデンティティを形成していたわけです。
 イエス自身も、ガリラヤ生まれのユダヤ人でした。多少“ぶっ飛んでいる”ところはあったけれども、しかし割礼を受け、安息日を守り、モーセの律法に従って生きてきた、正真正銘ユダヤ人の一人だったわけです。ですが彼は、他のユダヤ人たちとは違って、「アブラハムの子孫」であることに特別なこだわりは持っていなかったようです。「アブラハムの子孫が何だって言うんだ。そんなことを誇って何の価値があるんだ」と言わんばかりに、彼は、民族的・宗教的なアイデンティティだけに固執するユダヤ人たちと対峙します。そして、そんな彼らと話をする中で、イエスは最後にこう告げたわけです。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしだ』。」

何よりも先行する「わたし」という存在

 このイエスの発言をどう解釈するかは、議論が分かれるところです。従来の理解では、「アブラハムが生まれる前から『わたしはこの世界に存在していた』」というようにこの言葉を読んできました。もちろん、それでも全く問題ありません。キリスト教の教義においては、イエス・キリストは「世々の先に父から生まれた独り子」であり、「造られず、生まれ、父と一体」の存在であるわけですからね(日本聖公会訳「ニケヤ信経」より)。イエスの話を聞いていたユダヤ人たちも、イエスがそのように言ったと思ったから、彼のことを石で打ち殺そうとしたのです。
 しかし、ここまでお話してきたことを踏まえますと、どうもイエスは、そういう突拍子もないことを言おうとしたわけではないんじゃないかと、僕には思えてならないんですね。そうではなくて、彼は、エルサレムのユダヤ人たちが「オレたちはアブラハムの子孫だ」というように言いながら、自分自身ではなく、大昔のご先祖様のことを誇っている様子を見て、「それならわたしは、アブラハムの子孫である以前に『わたし自身である』」と言い返したのではないかと思うわけです。
 「私とは一体何者なのか。」これは、非常に哲学的な問題ですね。我々人間は、様々な属性を身にまといながら、「自分」という存在を形作っています。「エゴー・エイミ・〜〜」の「〜〜」の部分を、人は皆、自分の存在に色々とくっつけて生きているわけです。僕の場合であれば、「僕はクリスチャンです」「僕は日本人です」というように、その“くっつけている”ものを誰かに対して説明することができます。
 ですが、それらはあくまで、その人の属性に過ぎないのだということを忘れてはならないと思うんですね。もしも、私はクリスチャンだから……とか、私は日本人だから……というような、そういう、自分が身にまとっている“属性”のほうを主体にして生きるのであれば、それは実は、「主客(しゅかく)転倒」とも言うべき、重大な逆転現象を起こしてしまっていることになるのではないかと思うわけです。我々は、クリスチャンである前に、また日本人である前に、一人の人間である――。他のどんな属性を持っていたとしても、「私」は、他の誰でもない「私」という個人である――。そのことをいついかなる時でも肝に銘じておく必要があると僕は思います。

おわりに

 今回のイエスが口にした謎めいた発言「エゴー・エイミ」。この言葉は、つい“属性”というものにとらわれてしまいがちな僕らにとって、「わたしはわたしだ」という“人間にとっての大前提”をあらためて気づかせてくれる言葉だと言えます。
 自分以外の何者かに、自分のことを支配させてはいけません。自分と属性とを逆転させてはいけないのです。すべての鎧を脱ぎ捨てた、裸の「わたし」の中に、神様の霊が宿ってくださっているわけですから、そのように、僕ら一人ひとりをかけがえのない存在として造ってくださった神様に信頼して、「わたし」が「わたし」として、「わたし」の頭で考え、「わたし」の心で思い、そして「わたし」の身体が「わたし」の意志を行動に移す――、そんな生き方を、またこの時からご一緒に始めていければと願っております。……それではお祈りいたしましょう。

お祈り

 天地万物の創造者なる神様、私たち命あるものを皆、尊い器(うつわ)として愛し、見守ってくださることを感謝いたします。何も持たずに生まれた私たちが、この世にあって、自分自身の存在に正直に向き合い、他の多くの「わたし」を隣人として愛し、ともに平和を築いていくことができますように、どうか、何も持たずにあなたのもとに還るその時まで、私たちをお守りください。
 主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

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