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神の子に受け継がれし聖なる母のアイ 〜マリアの歌(マニフィカト)より〜

音声データ

礼拝終了後までお待ちください。

詩編・聖書日課・特祷

2024年12月22日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 ミカ書 5章1〜4節a
 詩 編 マリアの歌(ルカ 1章46〜55節)
 使徒書 ヘブライ人への手紙 10章5〜10節
 福音書 ルカによる福音書 1章39〜45節
特祷(降臨節第4主日)
全能の神よ、あなたの光を日毎に私たちに注ぎ、心の闇を照らしてください。そして御子イエス・キリストが来られるとき、ふさわしい御住まいを私たちのうちに備えさせてください。主は父とともにおられ、聖霊の交わりのうちに一体の神であって、世々に生きすべてを治めておられます。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 降臨節(アドヴェント)第4週目の日曜日を迎えまして、いよいよ明後日、24日の日暮れとともに、今年も「クリスマス」がやってきます。イエス・キリストのお誕生をお祝いする「クリスマス」。その喜びと幸せのひと時を、今年も世界中の多くの人々が、平和のうちに過ごすことができるよう祈りつつ、この御言葉に聴く時をご一緒に過ごしてまいりたいと思います。

アドヴェントと「カンティクム」

 さて、普段、マタイの礼拝に出席しておられる方々はご存知のことと思いますけれども、今年(2024年)、この「名古屋聖マタイ教会」では、“新しい聖書日課”を使って礼拝をささげてきました。“新しい”と言いましても、正確には、まだ未完成のものなんですけどね。正式版がリリースされるのは、まだ、もう少し先の話。今は、いわゆる“ベータ版”が公開されている段階です。それで、我々マタイ教会では、他の教会に先立つ形で、その「ベータ版(試用版)」の「新しい聖書日課」を、試験的に、毎週の礼拝で使ってきたわけですね。

 「今の(現行の)聖書日課」と、「新しい聖書日課」。この二つがどう違うのか。それに関しては、実際に、“今のやつ”と“新しいやつ”を横に並べて見比べてみないと、基本的には、まず分からないと思うのですけれども、でも、実際に比較してみますと、「へぇ!こんなふうに変わってるんだ!」と、驚かされることが多いですね。
 たとえば、このアドヴェントの期間なんか、特にそうですね。アドヴェントから新しい年度が始まっているので、今は「2025年度(C年)」の聖書日課を使っているということになるのですけれども、このC年のアドヴェント……、今までだったら、「これとこれ、二つの聖書箇所の内、どちらか一つを選んでね」というように、選択の余地が与えられていたところがあったのですが、「新しい聖書日課」では、何と、一つしか選べなくなっている――、そのように変更が加えられている部分があるのですね。具体的には「詩編」に関する部分です。
 先ほど、「詩編答唱」のところで、詩編ではなく、「マリアの歌」というのを唱えましたよね。あれは、「カンティクム」と呼ばれるものです。ラテン語で「歌」という意味ですね。聖書の中の(詩編以外の)詩・歌のことを「カンティクム」と呼んでいるわけなのですけれども、実は、世界の多くの聖公会では、アドヴェントの期間中に、そうやって、詩編ではなく「カンティクム」を歌う(or 唱える)というのが伝統とされているのですね。
 先週・先々週の主日礼拝に出席された方々は覚えていらっしゃると思いますが、先週は「主の救いの歌」、その前は「ザカリヤの歌」というのを、それぞれ詩編の代わりに唱えましたよね。その二つも、今回の「マリアの歌」と同じく、カンティクムと呼ばれるものです。
 これまでだったら、つまり、「今の(現行の)聖書日課」では、「詩編」と「カンティクム」、この二つある内のどちらかを選ぶ、という決まりになっていました。しかし、「新しい聖書日課」のほうでは、何と、「カンティクムしか選べない」ということになったのですね。詩編は選べなくなっちゃった、というわけです。まぁ、あくまでこれは、まだ「試用版」の話ですので、「正式版でもそうなります」とは断言できないのですけれども、でも、おそらくはこのまま、「カンティクムだけしか選べなくなる」ということで落ち着くのではないかと予想されます。
 選択の余地が無くなった……という言い方をすると、なんとなくネガティヴな印象を受けてしまうかもしれません。ですが、逆に言えば、これまで日本聖公会の礼拝の中であまり意識されてこなかった「カンティクム」というものを、今後しっかりと学び味わい、そして自分たちのものにしていく機会が与えられたんだ、とポジティヴに受け止めても良いんじゃないかと、僕は思うのですね。ちなみに、僕自身も勉強するチャンスだと思いまして、先週と先々週の礼拝では、「ザカリヤのの歌」と「主の救いの歌(イザヤ第1の歌)」に関するお話をさせていただきました。インターネットに原稿を載せていますので、もしよろしければお読みいただければと思います。

マリアの歌(マニフィカト)

 さて、少し話が脱線してしまいましたけれども、先ほども少し触れましたように、今日の礼拝では、「新しい聖書日課」が強調しようとしている「カンティクム」……、そのカンティクムの一つである「マリアの歌」をご一緒にお唱えしました。ルカによる福音書1章46〜55節に記されている歌ですね。ルカ1章46節からということは、つまり、今日の福音書テクスト(39〜45節)の直後に、本来は置かれているものということになります。
 天使のお告げによって自分が妊娠していることを知ったマリア。彼女は、その後、親戚のエリサベトという女性を訪ねます。すると実は、エリサベトも同じくお腹に子どもを宿していて、後に彼女は「洗礼者ヨハネ」を出産することになるのですけれども、つまり、ここでは、イエスと洗礼者ヨハネ、この二人の新しい宗教指導者のお母さんたちが、(子どもたちに先立って)対面を果たしている、ということになります。そして、そのような文脈において、マリアは、この「カンティクム」を歌った……ということになっているわけなのですね。

作者不明,マリア、エリサベトを訪問する,1350年

 ただし、この「マリアの歌」と呼ばれているカンティクム……、これは、実際には、マリア自身が歌ったものではない――というのが、今や、聖書学の世界では、ほぼ常識とされている意見です。すなわち、誰か別の人物によって作られた詩が、この物語の中では「マリアの歌」として置かれている、ということになります。まぁ……さすがにね、ミュージカルじゃないんですから、突然こんなふうに即興で自分の思いを歌うなんてこと、現実では普通考えられないかな、と僕も思います。多くの聖書学者たちが考えているように、このように“マリアの物語”が編集される中で創作、あるいは挿入されたものと考えるのが自然だと思うのですよね。
 じゃあ、もしそうだとしたら、この歌の内容は、現実の(歴史上の)マリアと全く関係ないものなのか。いや、決してそうではないと僕は思うのですね。むしろ、この歌は、現実のマリアの内心を見事に歌い上げてくれている……、そのように僕は感じます。
 この「マリアの歌」というカンティクムの中で、注目すべきは6〜8節の部分です。「主は御腕をもって力を振るい‖ 思い上がる者を追い散らし 権力ある者をその座から引き降ろし‖ 低い者を高く上げ 飢えた人を良い物で満たし‖ 富める者を何も持たせずに追い払い[……]」。
 非常にこれは、政治的な主張だと思います。もしこれが、途中に出てくる、「低い者を高く上げ 飢えた人を良い物で満たし」という表現だけだったならば、まぁ、「低い者」や「飢えた人」、つまり、「社会的に弱者とされるような人々が救われますように」という、極めて一般的な“ホスピタリティの精神”がうたわれているのだなぁというだけで終わるのですけれども、実際はそうではありません。「思い上がる者を追い散らし 権力ある者をその座から引き降ろし[……]富める者を何も持たせずに追い払い」というように、いわゆる「上級国民」、富裕層や特権階級に属するような人々に“天罰”が下りますように――と、マリアは歌っているのですね。
 弱い者を救い、強い者を挫く。これを、四字熟語では「抑強扶弱(よくきょうふじゃく)」と言うそうですけれども、まさに、そのような「抑強扶弱」のメッセージが込められた歌、それが、この「マリアのカンティクム」であるわけです。

聖なる母の“アイ”

 歴史上存在した「イエスの母マリア」という女性が、一体どんな思想の持ち主だったかは、残念ながら詳しく知ることはできません。福音書を読んでみますと、しばしば、大人になったイエスとのやりとりが描かれていますけれども(マルコ3:31-35ほか)、どうもそれらを見る限りでは、イエスとマリアの間には、イエスの活動に対する“理解の不一致”があったように感じられることがあります。そりゃ、そうですよね。親子とは言えど、それぞれに考え方が違うのは当たり前だと思います。
 いま、僕は柳城で働いていますけれども、大学生たちの話を聞くと……ですね、やっぱり、「お母さんと馬が合わないから、家にいると苦痛だ」とか、「親の考え方が、自分とは全然違っていて困っている」とか、そういう愚痴を言ってくる学生たちが多いです。本当に、複雑な家庭環境の中で生きてきたんだなと思わせられることも結構あります。ただ、そんな話を聞きながら、僕はむしろ、「順調に成長していっている証拠だよね」と思ってもいるのですね。もちろん、当人たちにはそんなこと言いませんけどね。ちゃんと、(親とは違う)一人の独立した人格を持つ人間になっていく――、その途上にあるからこその“しんどさ”を、今、18歳、19歳の時期に味わっているのだろうと思います。
 しかし、その一方で、よくよく話を聞いてみると、「あぁ、そうは言っても、やっぱり親子は似てるんだな。この子の中には、ちゃんと親から受け継いでいるものがあるな」と感じるところもいっぱい見えてくるのですね。良いところも、良いとは言えないところも、それぞれに親から子へ受け継がれている……、そのように感じます。
 話を元に戻しますと、イエスの母であるマリアが、どのような思想を持っていたのかは分からない。だからこそ、ある意味で僕らは、「イエス」という人物の中に、母マリアの面影は見出せないと勘違いし、そこには、「父なる神」の意志しか無いのだと思い込んでしまっているような気がします。
 でも、今日の物語の中で、この「カンティクム」を歌っているマリア……、その実際の姿を想像してみるときに、「あれ?実は、僕らって、『マリアはこんなこと考えない』、『こんな言葉言わない』って、勝手に思い込んでしまっているんじゃないだろうか(思い込まされてしまっているんじゃないだろうか)」と感じたのですね。
 もしかすると、そこには、「幼い女性」、「無学の貧しい女性」などに対する、一種の偏見が影響しているかもしれません。
若い女の子が、政治を語るのはおかしいことだろうか。学ぶ機会が与えられていない女性が、貧富の差が著しい不平等な社会に対して不満を言い募るのは、変なことだろうか。良く考えれば、そんなこと無いですよね。
 日頃から彼女が目にしているもの……、すなわち、多くの人々が貧しい生活を強いられている中で、一部の裕福な者たちが(困窮者に手を差し伸べるわけでもなく)悠々自適な生活を送っている、そのような社会の有り様を見て、「あんな奴らはこの世界からいなくなったら良い!そして、いま苦しい人生を過ごしている人が、もっと報われる世の中になったら良いんだ!」という、そんな思いを、10代半ばの女性が心に抱いていたとしても、別に何にも不思議なことではないはずなのです、本当はね。でも、僕らはおそらく、「マリアはそんな“おっかない”こと思うわけがない」と、勝手に思い込んでしまっている……。そのようなバイアスから自分を解き放ったとき、初めて、マリアからイエスへと繋がる一本の線が見えてくるように思います。

ヴェロネーゼ,『カナの婚礼』,1563年

 「主は御腕をもって力を振るい‖ 思い上がる者を追い散らし 権力ある者をその座から引き降ろし‖ 低い者を高く上げ 飢えた人を良い物で満たし‖ 富める者を何も持たせずに追い払い[……]」。この「抑強扶弱」の思想は、確かに、マリアからイエスへと受け継がれている――、そのように僕は感じます。もちろん、何度も言いますように、この「カンティクム」自体は、実在のマリアのものではありません。それでも、きっと、この「カンティクム」の詞藻(しそう)は、現実のマリアの内心を、見事に代弁してくれている……。そして、彼女の思いは、確実に、彼女の子どもであるイエスへと継承されることになった……。そう思うのですね。

おわりに

 神がマリアを選ばれたからこそ、イエスが生まれた。そして、彼女の強い心があったからこそ、イエスもまた、世にあって力強く希望の光を輝かせることができた、そのように言っても過言ではないと思います。いよいよ、明後日に迫った「クリスマス」。どうか、世間の“きらびやかな明るい”雰囲気とは真逆の、むごたらしい人間たちの営みと、しかしそれでも、その中に“僅かな希望”が存在し続けているのだということを覚えつつ、その希望の光によって、母マリア、そしてイエスの望んだ正義と平和が、一日も早くこの世界に実現することを心から祈りながら、今年もご一緒にクリスマスをお祝いすることができればと思います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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