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キリスト者の立ち位置

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詩編・聖書日課・特祷

2023年10月29日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 出エジプト記22章20~26節
 詩 編 1編
 使徒書 テサロニケの信徒への手紙一2章1~8節
 福音書 マタイによる福音書22章34~46節
特祷(聖霊降臨後第22主日/特定25)
全能の神よ、み子イエス・キリストは、小さい者のために行うことはわたしのために行うことになる、と教えられました。すべての人の僕となり、わたしたちのために命を捨て、死なれたみ子のように、わたしたちにも隣り人の僕となる心をお与えください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」
 さて、本日は、今朝(聖霊降臨後第22主日)の「特祷」に関するお話をさせていただこうと思います。僕は結構、こんな風に、聖書日課のテクストだけじゃなくて、特祷とか詩編も扱ったりしながらお話させていただきますのでね。ぜひ皆さん、その都度『祈祷書』などを開きながらお聞きいただければと思います。
 というわけで早速、今日の特祷をあらためて確認してみましょう。祈祷書の238頁です。「全能の神よ、み子イエス・キリストは、小さい者のために行うことはわたしのために行うことになる、と教えられました。すべての人の僕となり、わたしたちのために命を捨て、死なれたみ子のように、わたしたちにも隣り人の僕となる心をお与えください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
 この中に、「小さい者のために行うことはわたしのために行うことになる」というイエスの言葉が引用されていました。正確には、こちらですね、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(聖書協会共同訳)というのが、実際に聖書に書かれている言葉となっています。

小さい者のために行うことは

 これは、マタイによる福音書25章40節というところに記されている言葉なんですけれども、その箇所には、イエス・キリストが人々に語ったとされる、次のような話が収められているんですね。天の国に集められた「正しい人たち」のお話です。
 正しい人たちは、天の国の王様(神 or キリスト?)から、こんなことを告げられます。「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた。」(35〜36節)
 ところが、その人たちは、「えっ?何それ、どういうこと?」といった感じで動揺します。そして、彼らは次のように答えるんですね。「いつ私たちは、[王様が]飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」(37〜39節)
 ……この「正しい人たち」、正直ですよねぇ。王様の前に集められて「あなたたち、私が困っている時に助けてくれたよねぇ」って言われたらですよ。たとえ身に覚えが無くても、「え?あ、あぁ。そ、そう言えば、そんなこともありましたっけねぇ。ハ、ハハハハハ〜(汗)」って言っておけば良いのに、って思いません? 王様が仰ってるんだから、それで良いじゃないって、ねぇ。でも彼らは、そんなふうに一切誤魔化さず、「王様、私たちがいつ、そんなことしたのでしょうか」って返事するんですよね。正直者やなぁって思います。まぁ、だからこそ「正しい人たち」と呼ばれているんでしょうけどね。
 すると、そんな彼らに対して、王様は一言、このように告げます。それが、このセリフです。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(40節)
 正しい人たちは、相手がいかにも「王様」の姿をしているから助けたわけではありません。むしろ、その“真逆のイメージ”をまとっている人たち……、つまり、飢えている人、渇いている人、病気の人など、社会的に弱い立場に置かれている人々に対して、正しい人たちは手を差し伸べたというのです。そして、そのことが実は、気づかぬ内に「天に富を積む」ことになっていたのだ……というお話を、イエスはこの箇所で語っているわけなんですね。

善意は必ず報われるわけではないが

 ちょっと話は変わりますけれども、先日、インターネットのニュースサイトを見ていた時に、興味深い内容の記事を見つけたんですね。「財布の落とし物」に関する記事だったんですけれども、拾った財布の中に(お金だけではなく)「キャッシュカード」とか「クレジットカード」が入っていた場合、財布を交番に届けた人は、そのキャッシュカードやクレジットカードの分のお礼も受け取ることができるかどうか、というような内容だったんですね。
 ……まぁねぇ。落とし物を拾った時の「報労金」というのは、ちゃんと法律で定められている権利ですからね。別に、お礼を要求しようが要求しまいが、それはその人の自由かなぁとは思うのですけれども。しかし、う〜ん、キャッシュカードやクレジットカードのお礼かぁ……。まぁ確かに大事なものではあるけどなぁ……。なんか凄く……複雑な気持ちになってしまいました。皆さんはどう思われるでしょうか。財布を拾って(中身には一切手を付けずに)ちゃんと交番に届ける、っていう素晴らしい行いをしたんやから、そのまま「拙者、これにて失礼」ってな感じで、クールに去ったほうが格好良かったんちゃうか?って、僕はね、思ってしまったんです。
 でもですね、一方で、そういう議論が起きるということは、裏を返せば、この世界は“人の善意というものがなかなか報われない世界”なのだということを物語っているのではないかとも思ったんですね。
 もしもこの世界が、理想的な“完璧な世界”であって、倫理的・道徳的に善いとされる行動をとった人には必ず、思いがけない時に、思いもよらぬところから“幸せ”が舞い込んでくる、というような、そういう秩序が確立された世の中であるならば……、みんな、目の前の“見返り”なんか求めないだろうと思います。“愛”や“幸せ”というものが、人々の間でグルグルと循環して、人の善意は必ず報われるような仕組みになっている、そのような世界であったら良いんですよね。ですが残念ながら、そんなふうに上手いこと出来ていないのが、この世界であるわけです。
 親切な人、優しい心を持った人が幸せになる……とは限らない。そのような世の中において、このイエス・キリストの言葉は、それでも(!)、この世で報われないとしても、我々人間が正しさを見失うことのないようにさせてくれる、まさに“真っ暗闇の中の光”のような御言葉なのではないかと僕は思うんですね。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」たとえ、その善意が地上では報われなかったとしても……、周りに幸せを配ってばっかりで、自分のもとには幸せが巡ってこないと感じることが多かったとしても……、しかし唯一、神様だけは、その善意をしっかりと受け止めてくださっているのだよと励ましてくれている。そんな御言葉なんですよね。

隣人を愛することは神を愛すること

 このイエスの言葉は、本日の福音書の内容とも深く関係しています。今日の福音書の箇所には、律法の中で「最も重要な二つの掟」が挙げられていました。一つは「神である主を愛すること」、そしてもう一つは「隣人を自分のように愛すること」ですね。
 隣人を愛する……というのは、比較的イメージしやすいのではないかと思います。もちろん、愛し方にはいろいろあるわけですけれども、総じて言えることは「相手を大切に思う」、そして「大切に思っていることを行動に表す」というのが、「愛する」という言葉の根本にある意味だと言えます。自分を思いやるように、隣人を思いやり、自分を大切にするように、隣人のことを大切にする――。これは、相手が同じ人間だからこそできることですね。
 しかし、もう一つの重要な掟である「神である主を愛する」というのは、具体的にどういうことなのか、いまいち想像しづらいのではないでしょうか。神を愛する……? 神様を思いやるとか、神様を助ける、神様のために何かをしてあげる、なんていうのは可怪しな話ですよね。神様は“完全”なお方なので、人間から何かをしてもらう必要は一切ないはずです。
 では、「神である主を愛する」というこの掟を、我々はどう理解すれば良いのか……というところで、一つ“鍵”となるのが、この御言葉(マタ25:40)なのではないかと僕は思うんですね。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
 最も小さな者の一人を愛することは、神を愛することになる――。人間を愛すること、特に、その中でも“誰かの助けを必要としている人”を愛し、大切に思い、手を差し伸べることが、実は、神様を愛し、大切に思い、手を差し伸べることでもあるのだ、とイエスは人々に教えたわけなんですよね。この御言葉を、このように二つの掟の間に置いてみますと……、最も重要な掟である「神である主を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」との関係がはっきりと見えてきます。つまり「神様を愛する」というのは、この世で社会的に小さくされている人たちを「隣人」として自分のように愛するということでもある。そのように考えることができるのではないかと僕は思うわけです。

おわりに

 このマタイ25章40節の御言葉(「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」)は、先日、日本聖公会から出された、イスラエルとハマスの即時停戦を求める声明文の中でも引用されていました。

 首座主教の武藤謙一主教様と、正義と平和委員長の上原榮正(えいしょう)主教様のお名前で出された声明文ですけれども、その中に、次のような文章が記されていました。

「戦争で犠牲となるのは、力のない女性、子ども、老人、障碍者など弱く小さくされている人たちです。イエスさまは、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)と仰っておられます。私たちの立ち位置は明らかです。小さく弱くされている人々の所、そこにイエスさまがおられます。その所に、私たちも心を寄せていくのです。」

 この後半の部分は、特に重要だと思います。「私たちの立ち位置は明らかです。小さく弱くされている人々の所、そこにイエスさまがおられます。その所に、私たちも心を寄せていくのです。」……そうなんです、キリスト者の立ち位置ははっきりしているのです。ハマスを支持するのか、イスラエルを支持するのかではなく、また、西側諸国につくのか、東側諸国につくのかでもなく、この争いの絶えない世界において犠牲となっている“最も小さくされた人たち”の味方であり続けること――。神様の側につくということは、強い方につくことではなく、小さく弱くされている人たちの側につくこと――。そのことを、我々キリスト者は忘れてはならないだろうと思います。そこではもはや、「見返り」とか「報い」といったような“この世的な言葉”が介入する余地はありません。只々、愛する人々が幸せを取り戻し、平和を手に入れるという結果のみを願い求める、そんなキリスト者でありたいと願います。 
 一刻も早く、パレスチナ・ガザ地区をめぐる争いに終止符が打たれる日が訪れますように。そして何より、我々キリスト教会、キリスト者一人ひとりが、世界の人々と連帯しつつ、責任をもってこの世に平和を創り出していくことができますように。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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