Day1-暗闇へ

「Ha,Ha,Ha…!」
 その医師は長電話と同じテンションで私に近づく。「Hello!」だったか「Ciao!」だったか、私にでも分かるフランクな挨拶をして、
「Yoichi Yoshinaga… Yoichi! Oh! Yoichi! Ha,Ha,Ha!」
 私の名前を反芻すると、いきなり大笑いした。この名前はイタリアでウケるのか? あまりにも笑うので、ちょっとムッとする。
 そして、いきなりぶってきた。「!?」たしか顔だったと思う。この人怒っている? でも顔は笑ってる。ガサツそうなおじさんだ。何もぶつことはないだろうに。ビンタかグーか忘れたが、弱り果てた体でぶたれると、軽くてもそこそこ痛い。しかも執刀医。めげる… 
 これも後からふと気がついたのだが、この医師は挨拶代わりのスキンシップだったのではなかろうか。ぶったというより、励ますように頬を叩いた。だが彼の力が強くて、殴られたと勘違いするほどの衝撃だった。そう思っていたい。イタリアの手術は他の場所でもこのような感じなのか定かではないが、20年前のヴェネツィアで、私の手術の時はこうだった。

 彼はイタリア語で何か伝えている。「俺が来たから安心しろ」みたいなニュアンスに聞こえた。かたや、目元がキリッと美しい若い女性看護師が私の左隣にいる。
「体のどこか痛むか?」と、流暢な英語で聞いてくる。(ああ、痛いよ。このおっさんがぶつから余計に痛いよ。)と伝えたかったが、私の語彙力では単語が浮かばずに喋れない。そのかわり咄嗟に出た英語は、
「All body is Ouch!」
 朦朧としながらも、我ながら最高の英語だったと感心している。意味は通じたようだ。彼女は優しく私の左肩と腕を擦ってくれた。目の前の医師とは全然違って優しいマリア様に見えてきた。彼女の名は存じないから、ここでは"左隣のマリア様"としよう。

 手術室のドアが開かれた。手術台が見え、私の腹を切り開き、切断し、縫合するであろう銀色の器具が見える。一気に緊張が高まる。盲腸手術は日本だと部分麻酔らしいが、イタリアではどうなのだろう。
 真上には煌々と輝く手術台の照明がある。(おお…いよいよ初手術だ。)緊張感はますます高まる。あの医師は看護師に何か言いながら、先ほどのテンションではなく、押し黙っていることが多くなった。電話の時と全然違う。余計に緊張するではないか。
 "左隣のマリア様"は私の手を握ってくれ、緊張感を和らげてくれる。ありがたい。
「これから麻酔をします」
 たしか、彼女はそのようなことを言ったと思う。何だろう。次の瞬間…
「!!」
 激痛が手の甲に走る。神経が集中している箇所に注射されたのだ。
「んぐっっ!!」
 激痛に顔をしかめる。"左隣のマリア様"は優しく「Ok.Ok.」囁いてくれ、ややすると痛みが和らいできた。
 次は酸素マスクが装着された。注射を刺されてからだんだんと体がぼーっとしてきて、何かフワフワした気分になってきた。
「これから眠くなるおまじないをするよ」
 "左隣のマリア様"はそんなことを言う。私は英語も弱いが、ニュアンスは伝わってくる。やがて彼女はこう言った。
「Three…Two…One…」パチン!
 "左隣のマリア様"によるカウントダウンと指パッチンによって、私の視界は暗闇へと消えた。テレビがぷつっと消えるみたいな感覚。施されたのは全身麻酔であった。
 この時の記憶は、彼女の指パッチンが最後である。パチンと鳴った音と指が残像となって暗闇とミックスされ、ほどなくシャットダウンした。この感覚は、意識のある状態から全身麻酔で昏睡した者にしか分からない。

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