野球人として

ここまでの歩みの振り返り。
最後は野球人として振り返ります。

現役時代

これといって特徴のない普通の選手でした。
強豪校に進学するとか、プロを目指すとかそんなレベルではなく。
強いていうなら、中学時代は脚が速かった方だけど、
高校入学までにガクンと遅くなってしまった。
(この原因はいまだ不明)

特に投げることは不得手であり、
イップスとまではいかないが「狙ったところに投げる」
ということが、本当に難しかった。
だから、今でも中高のチームメートには、
「投げることを指導できるのか?」と言われます(笑)

部活動としての野球は高校生まで。
大学でも野球部に入れば良かったと、今でも後悔しています。

長崎での指導

監督だった高校の先輩をお手伝いすることから始動をスタートしました。
はじめは、本当に「お手伝い」のつもり。
授業をする日に、少しだけアドバイスできれば良いと思っていましたが、
そんなことは1カ月も持たず(笑)、授業のない日も指導を始めます。

この期間、自分が現役時代にお世話になって先生方に、
同じ指導者としてお話を伺えたことが貴重な経験でした。
特に、長崎・九州は甲子園出場経験や、
公立・私学などに関わらず、指導者の結束力が強かった気がします。
だからこそ、コーチの立場の若造でも同じ場所で、
沢山の経験を伺うことができました。

監督を務めた最後の1年。
勤務校を掛け持ちしていたため、週2日は監督不在でした。
さらに、夏の初戦前日に、神奈川の採用試験を受けに行くという状況の中、
サヨナラ負けしたのは申し訳なかったです。
何とか勝たせてあげたかったな。

伊勢原高校での5年

着任当初の野球部は、選手は2年生のみ。
助っ人含めて何とか春の大会に出場。
週休二日、日曜定休と部活動ガイドラインを先取りした状況でした。

新入生を加えて、初めて迎えた対外試合。

0-46
7回コールド
ノーヒットノーラン

相手は普通の公立校です。たぶん一生忘れません。
初めて迎えた夏の大会も、
当時流行していた新型インフルエンザが校内で流行。
開会式は不参加。試合前日まで休校。
試合当日の朝に病院を受診し、試合に臨みました。

それでも1・2年経てば、部員が少しずつ集まり始めるのですが、
あるとき、ふとしたことで気づいた事実。

「夏の大会で全然勝っていない」

気づいた当時で18年連続初戦敗退。
「夏一勝」を目標に臨んだ4年目。
19年ぶりの校歌を、地元伊勢原球場で歌えたことは良い思い出です。

ただ、それよりも春秋の地区予選で2勝をあげ、
県大会に出るということが本当に遠かったです。

また、この5年間で、野球王国神奈川の高校野球熱を思い知りました。

現任校での指導

初めての部長(責任教師)職、4年目からは県高野連理事就任と
前任校と立場が変わりました。
また、投球数制限やタイブレーク制の導入など、
高校野球を取り巻く環境も大きく変化したときです。
それとともに自分の野球観・指導観も大きく変わりました。

一つは自分ひとりの力には限界があるということ。

積極的に外に学びに行くようになったのもこの頃から。
普段顔を合わせる高校野球の指導者とは違う、
沢山のスペシャリストがいることを知りました。
その結果、自分が知っている・分かっていることなんて大したことはなく、
「餅は餅屋」だと感じるようになりました。
監督となった現在でも、
監督の主な仕事はマネジメントでないのかと思っています。

もう一つ大きかったのがボトムアップとの出会い。
3年目の夏が終わったあと、監督と話をし、
山梨県立都留高校の柏木先生に学び、
ボトムアップを取り入れたチーム作りが始まりました。

生徒に任せる範囲を徐々に大きくしながら、
昨夏までは練習メニュー、メンバー選考、選手起用、サインなど
多くの部分を選手主体で行いました。
ただ、この部分については生徒の移り変わりや、
コロナの影響により、そのスタンスを見直しつつあります。
その辺りは、後日改めて。

振返ってみて

高校野球の指導を始めて15年目。
1年目の頃よりも知識・経験は増えたはずなのに、
勉強しなければいけないと感じることは、
あの頃よりも一層増えた気がします。

また、高校野球に限らず、
野球を取り囲む状況が大きく変わったことも間違いないと感じます。

周囲の指導者の中でも上から数えることの方が多くなりましたが、
若手に負けず、時代に飲み込まれず、
指導者としてまだまだ知識・経験を積み重ねていこうと感じました。

そして、未熟な頃に指導していた選手たち。
本当に申し訳ない。
彼らへの罪滅ぼしのつもりで、
これからも野球の指導を頑張っていこうと思います。

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