『クリュセの魚』を読む④ 天皇(制)の明日に
クリュセの魚を天皇小説概念の現代的フェーズを示す小説として読む。恋愛といい、家族という小説の主題は、それを図として、地としての天皇制が存在している。大衆を扇動しテロ行為をおこなう栖花は、尊皇攘夷を完遂した「天皇」である。象徴天皇制の危機に応じて現れたこのような天皇像は、三島由紀夫が提起した「文化概念としての天皇」と同期している。しかし天皇制の主題と重ね合わされる形で、栖花は母である麻理沙とダブルバインド状況におかれていた。栖花は「母殺し」としてテロを実行したのである。このテクストにおいて、天皇制は母娘関係と重ね合わされて描かれている。だが、栖花にそうした「呪い」をかける麻理沙もまた、時間ループのなかで母としての孤独を感じていた。
③ 名前の物語
†天皇がいた国
一読すれば容易に見てとれるように、『クリュセの魚』は天皇小説である。麻理沙と栖花の母娘が受け継いでいるのは「旧日本国」の「王」の血統であり、小説の最後では栖花を「終身主権者」とした新たな王政が火星に成立している。はるかな時空を隔て、日本の天皇制が火星に移入され実現したのである。もちろんこの小説はSFであり、時代や小説世界の設定は現実をそのまま反映したリアリズム小説のものではない。小説のなかでも、「失われた王朝の末裔」や「祭祀王」といった迂遠な言葉が周到に選ばれ、「天皇」という語は一度も使われてはいない。しかし、日本の歴史のコンテクストを共有する読者にとって、それらの言葉が意味することがらはいうまでもなく明らかである。というよりも、そのように読まなくては面白くない。
テクストは、進展するグローバリゼーションによって政治経済が世界的に統合され、既存の国民国家は解消、SAACのようないくつかの広域国家体制に組み込まれ、新たな秩序が編成された地球を想像的に描く。そのなかで、日本もまた二世紀前に国民国家としては消滅し、皇居が存在した場所は「中東系の投資家に買われ悪趣味なテーマリゾートとして生まれ変わっ」ている。天皇家は王権を失い離散し、麻理沙の親も「大陸東北部の小さな行政体に勤める貧しい公務員」でしかない。そして麻理沙に流れる血統を独立勢力の「象徴」として利用しようとするヨーロッパ人と利害が一致し、麻理沙は高額の報酬で売買される。
不可逆的に進行したグローバル資本の発展は世界のあらゆる制度やシステムを怪物的に飲み込み、辺境の国家や王権すらその例外ではない。テクストが想像する現実は、このように天皇制が日本という国民国家もろとも崩壊し、グローバリゼーションが新たな帝国の秩序として覆う未来の地球である。そのような資本によるただ唯物的な現実は、たとえばこれまでに天皇小説(とその批評)の課題であった、王権と一体化した国民国家の外部はどう想像できるのか(注1)、否定神学的に作動する王権に対する小説の不敬的記述の機制は何かといった問題(注2)をなしくずしにすべてスキップした時代である。このテクストは、天皇小説がもつそうした従来の関心からは否応なしに離れてしまった地点からの、天皇小説の現代的フェーズを示している。
だがそれだけではない。テクストは天皇制について、崩壊した廃墟を記すだけではなく、それが未来の火星において復活するビジョンも同時に書いているのである。そのような出来事はいかに引き起こされるのだろうか。
二つの契機を見逃してはならない。天皇制の崩壊と、その復活。いったい、SF世界が描くこの死と再生という一連の物語的シーケンスからは現代の天皇制についてどのような含意を引き出すことができるのか。すなわち、『クリュセの魚』は天皇制の運命に対してどのような想像力を発揮しているテクストなのだろうか。『クリュセの魚』が現実の生と結びつく最大の可能性は天皇制にあるのではないだろうか、そのことを確かめておきたいのである。
いうまでもなく、左右の政治的イデオロギーが共通して提起する「大きな物語」として、人々の対話の俎上に載せることのできる数少ない論点として、天皇制の問題は存在する。そしてそのことへの関心と熱狂が高まっている現在においては、『クリュセの魚』を天皇小説として読みなおす価値は小さくない。その意味を考えることにしよう。
(注1)柄谷行人ほか「共同討議 天皇と文学」『批評空間2期』第24号、2000。
(注2)渡部直己『不敬文学論序説』ちくま学芸文庫、2006。
†歌と「祭り」のナショナリズム
未来の火星で建国された新たな国家の王、「終身主権者」に据えられたのは栖花だった。ではどのような出来事を通して栖花はその地位に納まったのだろうか。
自身の出生に関する情報を世間に公開しようと決断した栖花は、かつての日本の皇居跡をその舞台に選んだ。そこでは毎年夏に「巨大な祭典」が開かれていた。栖花が提案したのは、拡張知覚を介したAR空間で歌やダンスを披露するバーチャルキャラクターである「ミュジカロイド」のコンサートを自身で開催することであり、その終了の際に生身で出自や身分を公開するという計画だった。拡張知覚ネットワークに幼いころから慣れ親しんでいた栖花は、その才能を利用して「チーホア」という自らの名前を模したミュジカロイドを生み出し、いくつもの音楽をすでに発表していた。チーホアの歌にはこのような感情が込められていた。
Lは栖花の創作には口を挟まなかった。栖花のミュジカロイドも政治について歌わなかった。けれどもそれは恋愛の歌でもなかった。実際のところ、当時栖花はまだ十三歳で恋を歌うには若すぎ、だから彼女がコードする歌はすべて故郷や家族への素朴な愛を詠んだにすぎなかった。それらは、ぼくが聞けばすぐに麻理沙に向けられた祈りなのだとわかる、そのような歌にすぎなかったけれど、そのいささか抽象的で、そしてどことなく古風で舌足らずな歌詞が、ネットワークでは火星独立への呼びかけとして解釈されるようになっていたのだった。
そして「栖花の歌は独立運動の象徴になった」。栖花はまさに歌によって「象徴」に立つことを選ぼうとしたのである。
栖花のミュジカロイドは直接政治観念を歌うキャラクターではない。だからそれは国家や軍歌のように特定の政治制度や国家権力への翼賛を意図するわけではない。栖花の歌はすべて「故郷や家族」という地縁や周囲のあいだで完結するはずのものである。しかし、実際にはそのような自身の偶然生まれ持つところにある所与の環境への愛が、大衆の下からの動員によって、ナショナリズムが画策するような特定の共同体の肯定に転用されやすい点は見やすいところである。テクストの現実もまたそのような論理を共有し記述している。単一で必然的な現実を感情的に肯定するために歌というメディアが機能するのである。
もっとも厳密にいえば、現実のナショナリズムは、国や郷土への愛がそれを共有しない他者への排他的な感情にそのまま直結するわけではないということが社会調査によって明らかになっているようだ(注3)。ナショナリズムは、その言葉によって想像される特定のイメージ以上の、一つに割り切れない複雑な側面をもつ。しかし、そのような繊細な差異をも飲み込むのが、感情のフローの高揚と持続だけが自己目的化した「祭り」という空間のメカニズムであることもまたまちがいのないところではないだろうか(注4)。「祭り」は一定方向の感情以外のすべての差異を飲み込んでしまうのである。だからそこでは、ただ熱狂以外のものはない。そこに栖花の歌が「巨大な祭典」で披露される意味があった。
楽曲が終わりに近づき、サビのリフレインが始まった。舞台の上手から下手へ、そして観客席の後方から舞台へ、球状に加工された火星戦争の報道映像が流れる。観客と中継視聴者のメッセージがリアルタイムで投影され。賞賛の声が網膜を埋め尽くす。
栖花がプロデュースするのは自身の顔を模したミュジカロイドである。バーチャルキャラクターのインターフェイスを介して、「失われた母への郷愁を刻んだはずの詩が、言葉だけはそのままに、アルゴリズムの力で扇情的なものに変えられている」歌を大衆の前で披露する。栖花の歌はナショナリズムが示す享楽的な一体感や排他性を鼓舞する扇動として扱われてしまったのである。まだこの場面では栖花の本当の顔と正体は明かされてはいない。しかし、キャラクターの不可視の背後は権力者の顔をしている。
いうまでもなく、天皇とウタの関係は深くて強いものである。天皇の歴史は彼自身が詠んだり編むウタを抜きにしては成立しない(注5)。ならばここで、王家の血統を継ぐ栖花がボーカロイドを擬したミュジカロイドというバーチャルモデルをまとい、楽曲を作成し上演することの作劇性は明らかだろう。「祭り」のような場でのウタはレトリックや文学ジャンルといった形式面よりも、それが披露される空間で同期される現在時を共有し、ウタに理想や理念として詠まれた感情でつながるという儀礼的側面が強く発現する(注6)。そこで詠まれた理想や理念は、まさに文化の頂点である天皇自身が願ったものの形として儀礼の場に強く働きかけるのである。
「祭り」の場で瞬間的に消費される栖花の歌は、火星のナショナリズムを扇動する。それは束の間の一体感を繕いはするが、しかしそこで歌うのは日本の王家の血筋を継ぐ天皇自身のキャラクターなのである。その意図はどうであろうと、栖花の歌は「祭り」の場に適する形で消費される。それは匿名のはずの天皇の顔が、可視化されたキャラクターとして大衆に承認される過程だった。天皇のウタは下からのナショナリズムの鼓舞として行き渡る。それは天皇がもっとも国民と「共にある」形といえるだろう。
ウタを歌うキャラクターとしての天皇。カントーロヴィチは王の身体を、可視的であり死を迎える「自然的身体」と、不可視でありそれゆえ象徴的で不死である「政治的身体」の二つのフェーズが存在するものとして捉えた(注7)。この説明に従うならば、政治的統合のためのウタを歌い、技術によって作られたミュジカロイドというバーチャルキャラクターは、それゆえ王の政治的身体が可視化された状態のものといえる。現実の身体がなく不死であるキャラクターには、ただ時代によって不変の同一性のみが存在するからである。このことは大衆に愛されるキャラクターこそが、「象徴」としてふさわしいことを何より物語っている。
キャラクターが天皇の不死の身体として国民の感情の期待に応え、それを代理表象する。その意味で、栖花のミュジカロイドが天皇のウタを表現し大衆に承認されるこの場面は、ナショナリズムや天皇自身のキャラクターまでもが流通しアイコンとして機能する、大衆消費社会下の「象徴天皇制」の高度な完成形だといえる(注8)。消費社会のイデオロギーの論理を抽出し、天皇小説の現代的形態として提出することを、テクストはその関心にもっている。
このような感情の表出としての、大衆の下からのナショナリズムの期待が実現され、感情のフローによって人々が「統合」されるようになった社会を、批評家の大塚英志はいくぶんか皮肉な口調で「感情化された社会」と呼んでいる(注9)。大塚の発言は、2016年に現行天皇がいわゆる「お気持ち」を大衆に向けて直接発したことを受けて、天皇と大衆が社会制度的な審級を飛び超え共感による感情で結びつく社会が到来した現代は戦後象徴天皇制の完成形であり、それは「感情天皇制」と称されるべきフェーズであると続く。
『クリュセの魚』が予想し描くこの世界の未来は、つまり大塚が現代に対して診断したビジョンを、それ以前から忠実にシミュレートし先取したものだとひとまずいえる。発達したネット社会で「天皇」の「お気持ち」が表明されるとするならば、このような現実が訪れるだろうという予測である。不死のキャラクターが「天皇」の意志を表象するアイコンとしてふるまい、その背後の「天皇」自らが感情のフローの守護神として大衆の象徴になること。大衆はそれに共感し熱狂する。これこそが「感情天皇制」の論理を抽出し具象化したシーンであると。『クリュセの魚』と大塚のビジョンは、テクストの書かれた時代こそ異なれど天皇制の主題のもとで奇妙に同期している。
(注3)NHK放送文化研究所の社会調査「現代日本人の意識構造」ではナショナリズムを析出する質問群が二系統あり、そのうち日本への愛着を問う質問群に肯定的な答えを示したものは海外との交流にも積極的な態度を示し、日本人としての自信を問う質問群に肯定的な答えを示したものは逆に海外との交流に消極的な態度を示すという。大澤真幸『近代日本のナショナリズム』講談社選書メチエ、2011を参照。
(注4)社会学者の鈴木健介はジークムント・バウマンを援用し、人々の社会や判断が流動化し一貫性を欠いた後期近代では、それらをつなぎ合わせるための共同性が、構造を維持する契機が喪失した瞬発的な盛り上がりでしかない「カーニヴァル」と呼べるものであることを日本のゼロ年代のネット社会の「祭り」と照らし合わせて論じている。『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005。
(注5)天皇とウタの歴史については、和歌史を中心として記述したものに、渡部泰明『天皇の歴史10 天皇と芸能』講談社学術文庫、2018。鈴木健一『天皇と和歌』講談社選書メチエ、2017。
(注6)和歌のもつ儀礼性については、渡部泰明『和歌とは何か』岩波新書、2009。
(注7)エルンスト・H・カントーロヴィチ『王の二つの身体』上下巻、ちくま学芸文庫、2003。
(注8)おそらく、テクストのこのようなシーンこそが、ゼロ年代の大衆消費社会とネット社会の興隆のもとで高まっていたナショナリズムの隠れた夢の象徴ではないだろうか。ゼロ年代ではキャラクター論や情報環境社会論などの個人の夢を体現する匿名性に関する論議は成熟していたが、その一方でそれに与りうる具体的な社会の権力者に関する論点は奇妙にオミットされていた、もしくは忌避されていた。『クリュセの魚』は、その意味で、ゼロ年代の光に影をもって与えるようなテクストとなっている。
(注9)大塚英志『感情化する社会』太田出版、2016。
†尊皇攘夷小説
だがそれだけではない。テクストは「感情天皇制」の成立のその先を書く。栖花の目的はもう一つあった。そこで栖花の歌は、ナショナリズムの発露と感情の連帯という次元よりも、それを突き詰めたさらに高度の次元のもののために作動している。それは新たな「象徴」になるためのもう一つの帰結として、栖花が「天皇」として現れることの計画のうちにあるものだった。
栖花の計画にあるもうひとつの目的とはこうだ。すなわち、ワームホールゲートの「真実」を明かすこととそれの破壊である。では栖花の語るワームホールゲートの「真実」とは何なのか。
地球から入り火星に出る、あるいは火星から入り地球に出る、そのときわたしたちはじつは時空を移動を移動するのではない、いちど量子レベルで完全に破壊され、超弦空間を自在に操る未知の力によって複製され、目的地の時空で再生されているのです。それは移動機械よりも――かつて地球で使われた古い技術で喩えれば――ファックスに似ている。それでは、なぜ異星人はそんな装置を太陽系近傍空間にばらまいたのか。
それはハッキングのためです。あるいは感染。それとも侵略と呼ぶべきでしょうか。ゲートを通過し目的地で再生するたびに、わたしたちの脳には異星のプログラムが書き込まれる。皮質と海場の配線そのものが書き換えられる。魂が少しずつ異星のものになっていく。地球火星間ゲートが開いて一三年、延べ五〇〇〇万、ユニークユーザーで二〇〇〇万人近くが、すでに魂の改変を受けている。改変はきわめて微量です。個人単位の解析では発見できない。意味論の揺らぎで十分に吸収できる。しかし二〇〇〇万のサンプルを追跡調査すれば、統計的に必ず有意な変化が抽出できるはずです。介入はすぐに影響を及ぼすものではありません。けれどいつの日か文明そのものの方向をねじ曲げてしまう。いや、それどころか、その影響は、すでにこの一〇年、太陽系社会が長い平和と安定を放棄し、ふたたび騒乱の時代に入ったことに現れているのかもしれない。
栖花はワームホールゲートは単なる「移動機械」ではなく「侵略」のための装置であると主張する。「未知の力」といい「異星人」というその主張には、かなり陰謀論的な語彙が散りばめられている。そして「わたしたち」は「異星人」が作ったワームホールゲートによって「侵略」されているのだと語る。栖花は陰謀論の言説のセットに乗っ取って、「わたしたち」を脅かす対外的な恐怖を主張しているのである。ワームホールゲートの「真実」とはこうした「侵略」装置であると。こうした外部にある恐怖を立ち上がらせる扇動の先にあるのが、排除の論理でしかないことは火を見るように明らかだろう。
よって、栖花の最終的な計画はこうなる。
わたしは、失われた王国の最後の後継者、第一四六代皇帝、トモノミヤ・スミカ。わたしはここに、火星で生まれ、人類の文化を愛するもののひとりとして、ワームホールゲートの破壊を宣言します。
そしてワームホールゲートは「祭り」に参加した大衆のDDoS攻撃によって破壊された。栖花によればワームホールゲートは人類を脅かす「侵略」装置だった。ならばそれは「天皇」の名の下に破壊されなくてはならない。栖花は「失われた王国の最後の継承者」、つまり旧日本国の「天皇」としてワームホールゲートの破壊を宣言する。
そもそもワームホールゲートは、瞬間移動を可能にすることで世界経済や国家制度を大規模に再編するグローバリゼーションを推し進めた装置として当初は機能していたのだった。それを栖花は日本の「天皇」として、大衆のナショナリズムを扇動しながら破壊してみせるのである。もとより栖花には日本国を復興させようという意図はない。しかし、その行為が結果としてナショナリズムからグローバリズムへの挑戦を含む攻撃であること、それが大衆のテロルを煽り陰謀論を含む排外的な主張によって裏付けられていたことの政治性は明らかだろう。
すなわちこのような主張と行為はテロリズムそのものである。栖花はテロリズムを扇動し承認する「天皇」となったのである。そして天皇の意志と直接つながった大衆がおこなう、このような方法での体制の転覆はふつう革命と呼ばれる。栖花は未来の地球で尊皇攘夷革命を完遂したのである。これこそが「感情天皇制」の論理の展開の帰結であるといえる。
その意味で、『クリュセの魚』は「もうすぐやってくる尊皇攘夷」(注10)小説と呼べるだろう。「天皇小説」の現代的関心の完成形は、「尊皇攘夷小説」にある。このテクストはそうした現実の予測の論理のもとに成り立っているのである。
(注10)加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』幻戯書房、2017。加藤は明治維新の際に、明治政府が尊皇攘夷思想の革命性を尊皇開国思想の必要性へ問題をすり替えることで、攘夷の危険性と論理が理解されないまま社会全体で抑圧されてしまった「集団転向」が起きたと論じている。その攘夷の危機が、いわば無意識が回帰するように起きたのが80年前の2・26事件であり、またその新たな兆候としてヘイトスピーチなど排外主義と天皇主義回帰が起こっているのが現代だという。加藤のこのような通史的な見取りには学問的厳密さの見地から見ると危うさが確かにある。しかし、加藤の分析はそれを超えて啓発的であり、『クリュセの魚』もまた奇妙にそのようなビジョンを共有している。
†文化概念としての天皇
栖花は尊皇攘夷革命の成功者であり、まさにテロリストとしての天皇である。グローバリズムを斥け、それをもたらした異星人の装置を破壊し、火星の統一戦争に勝利し新たな王政を作り上げる。
文化の頂点に君臨しそれを愛するはずの天皇自身が、テロリスト。このようなテクストの展開は、現代の読者にとってはかなり意想外で単なる政治的イデオロギーとして片づけられてしまうようなものとして映るかもしれない。しかしそれがテクストの「現実」なのである。ならばそれがどのような意味を含んでいるのだろうかと問いかけることは、テクストの理解にとって無駄ではない。テクストにある栖花のような「天皇」像は、どのような思想から生み出されるものなのだろうか。
その疑問に答えるためにテクストをいったん離れて、ひとつ文学史的通路の見通しを開いておきたい。単純化の誹りを承知でいうならば、栖花が宣言するような「文化を愛するもの」としての「天皇」とは、三島由紀夫が『文化防衛論』で提唱した「文化概念」を守護し表象する「文化概念としての天皇」であるといっておく(注11)。『クリュセの魚』が描くような、テロリズムの思想である尊皇攘夷を実現させる「天皇」の先蹤は、三島の書いた天皇論に残されている。
では三島は『文化防衛論』で何を書いたのだろうか。三島のこの論の主題は日本文化と天皇である(注12)。三島はこのテクストで、日本の文化の特質を定義しそれを全体的に包括するような役割概念として天皇を捉えた。『文化防衛論』は横道も多くひどく込み入った筆致で読みにくいテクストだが、主題としては日本文化の保持や天皇の統治が必要であることを訴えたパンフレットであるとひとまずいえる。
論を具体的に見ておく。三島によれば、文化の特質とはそれぞれ「再帰性」「全体性」「主体性」の三つの概念のことと定義することができるという。「再帰性」とは、伝統としての過去の文化が同一性を保持し新しく現代に帰ってくること、「全体性」とは、文化には改良も進歩もありえずつねに全体をまるごと認めなくてはならないこと、「主体性」とは、文化の型の伝承が主体の自由な創造性を喚起することである。
そうした文化は、それが母胎とする何らかの共同体概念に拠らなくてはならないという。そこで持ち出されるのが、その共同体を保持し「絶対的倫理価値」と「文化の無差別包括性」を兼ね備える「文化概念としての天皇」である。
その天皇概念は、文化の全体性を保証する。そのために天皇が担っているのは時間的連続性と空間的連続性の二つである。
時間的連続性とは、たとえば伊勢神宮の造営が、建て替えられるたびにそれがつねにオリジナルであるとみなされるように、コピーがつねにオリジナルとしてよみがえることを意味している。つまり、同じように現行の天皇はつねに原初の天皇の伝統精神を同一的に保持していると考えることができる。三島はこれを、日本文化にはコピーとオリジナルの弁別を持たないということばで表現している。
一方、空間的連続性とは、言論の自由のことを指し、それが保証する生の多様性のことを意味している。
三島の論旨はひどく難解だが、要点は以上のようなものだ。
しかし、そもそもなぜこうした文化概念や、それを表象する天皇概念が求められたのだろうか。三島は、戦後の左の共産主義や右のファシズムという政治的イデオロギーが押し付ける全体主義に対抗するために、「文化の全体性」や、「文化概念としての天皇」という概念を立てなくてはならなかった。三島にとって左右の全体主義は、文化の全体主義として対抗しなければならないと考えられたためである。
左右の全体主義に対抗するために、では天皇は何を容認すると三島は考えたのか。
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの形態をさえとった。すなわち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側にあるのみではなく、無秩序の側へも手をさしのべていたのである。
このように、三島の思考する天皇制概念は、ときにテロリズムを容認することもいとわないのである(注13)。それは本当に文化の味方なのかどうかは解釈次第だが、文化全体を容認する文化概念としての天皇といったとき、それは最大限広義の意味として、テロリズムも定義に包括されるのである。天皇とはすなわち「菊と刀」である、という意味でテロリズムも容認されるのである。
テロリズムを容認する天皇。このような論の展開を見るとき、三島は戦後の平和的な象徴天皇制を否定するために『文化防衛論』を論じたのではないかと疑問におもえてくる。しかし、文化の全体性を弁護するために天皇から政治的権力概念を排除し「象徴」を導入した点において、戦後憲法を認めていたよう映るのである(注14)。事実、三島は和辻哲郎や津田左右吉を援用するかたちで、天皇は古代から象徴だったのだと説いてみせる。「三島が志向するのは、「象徴天皇制」の否定ではなく、むしろその完成と言うべきものである」(注15)のだ。
しかしこうした三島の筆致は、ときにレトリックに過ぎているという批判もある。たとえば野口武彦は、『文化防衛論』について、「文化概念としての天皇」という論の中心概念が、事実によるものではなく、事実にすりかえられたフィクションに立脚して構築されたものであり、このテクストは「虚構」とみなされると論じている(注16)。
確かに三島の論は、その多くの概念について、日本文化についての、事実ではなく当為に立脚し概念が組み立てられている。三島の論が事実から見れば虚構であることは、たとえば「真の異民族問題はありえず」「単一民族単一言語の国」という細部からもうかがえることである。
こうした三島の論は端的にいえば偽史を含む虚構であり、天皇制のもとですべてを同一視するユートピア的妄想とみなすこともできる。しかし、もし三島の書くような天皇制についてのユートピア的虚構が実際に導入され実現されたとき、これをどのように解釈すればよいのだろうか。
『クリュセの魚』に戻って考えてみよう。集約儀の麻理沙が「そういう意味じゃなかったんだけど」と語るように、テロをおこなう栖花は集約儀が語った真実を誤解している。集約儀が後に語るように、それは栖花が「ハッキング」や「感染」や「侵略」とする目的では動いていない。栖花の理解するゲートの「本質」は「この半世紀のあいだばらまかれてきた陰謀論のつぎはぎにすぎず、なんら新しい情報を含まない」のである。
このような「陰謀論」とはいうまでもなく偽史カルト的な想像力の発露によって成立している。つまり栖花は偽史を語ることによって人類の文化を守る新たな「天皇」としてふるまおうとしたのである。偽史的想像力の発露による排外的な主張の扇動を通して天皇制の様式を正統化し復活させようとする「天皇」。栖花の行為とはまさにそうしたものに陥ってしまっている。
三島もまた、偽史カルト的想像力のつぎはぎで、自身に望まれるような天皇制概念を構築した。それは、虚構の存在として価値をもつものである。しかしそれはなぜテクストとして書かれたのか。それは、天皇制が戦後ばらばらになってしまった共同性や存在を繕うためのカバーとして三島に発見され導入されたためである。三島にとっては、そのような「重し」がないと戦後の現実が瓦解してしまうと考えられていた。
三島の焦がれた文化を防衛するような「天皇」は、カルト的な想像力で塗り固められた言説の上でのみ存在する虚構の存在である。しかし、それがテクスト上で起こった革命として実際に現れてしまったら。『クリュセの魚』が召喚する「天皇」は、こうしたカルト的な偽史的想像力によってのシミュレーションという側面を含む。言い換えれば、『クリュセの魚』の描く「天皇」は三島の天皇が転生した姿なのである。その一点の交錯に、『クリュセの魚』に三島の『文化防衛論』を導入させて読む価値がある。
(注11)三島由紀夫『文化防衛論』新潮社、1969。テクストの引用は、同『文化防衛論』ちくま文庫、2006を使用した。
(注12)『文化防衛論』の全体的なテクスト解釈として、川上陽子『三島由紀夫〈表面〉の思想』水声社、2013を参照。
(注13)現代のテロリズムにおいても、三島文学にその祖を見る論がある。鈴村和成『テロの文学史』太田出版、2016を参照。
(注14)大杉重男「「文化防衛論」と「人質」の論理」『論樹』第26号、2014。
(注15)同上、大杉論文。
(注16)野口武彦「作品論 文学作品としての文化防衛論」『国文学』第15号7巻、1970。
†母殺しの物語
栖花は大衆を扇動し尊皇攘夷革命を成し遂げた「天皇」であり、そうした存在の論理の純粋形は文学史的には三島の「文化概念としての天皇」に結実していると述べた。栖花の意図がいかに人類の文化を守るためといった善意のものであれど、その行為は排外主義の容認であり、テロそのものである。栖花の行為は暴力的な結末を引き起こしてしまった。いったいその行為をどう考えればよいのか。
ここでの論述の目的は、もちろん栖花の糾弾にあるわけでも、テロは許されざるものだと正義の主張にあるわけでもなく、ましてこれから先の現実に実際に革命が起きるのだと扇動するものではない。小説の解釈がおこなうのは、そこにある概念と出来事の系列の特定とその理由の探求という遡行の運動の記述である。ただその行為が、小説と現実の生が切り結ぶ想像力の可能性に資することができる。ならば、栖花がテロを誘発させてしまう「天皇」になってしまったとして、では栖花のそうした暴力的な行為は何が理由であるのか。次にそれを考えなくてはならない。
「祭典」の場での栖花の演説は、ワームホールゲートの「真実」と破壊という陰謀論の類を語るだけのものではなかった。そもそも栖花はなぜそのようなことを知っていたのか。それはこのような母との交流によるものだった。
わたしの母、麻理沙は生きています。彼女の身体は核融合の熱で溶けた。しかしその魂は異星の技術によりネットワークのなかで生かされている。わたしはそのことを半年前に知りました。彼女がずっと無数のアバターを通してわたしを見守っていたことを知りました。母がわたしに歌を教えてくれた。詩を教えてくれた。そして異星の知性の存在を教えてくれた。みなさんがチーホアと呼ぶ作曲者は、母とわたしの融合体なのです。
チーホアは「母とわたしの融合体」だと栖花は語る。先に、ミュジカロイドのチーホアのようなバーチャルキャラクターがもつ不死の身体こそが象徴天皇制が掲げる「象徴」の論理にふさわしいアイコンだといった。ならば、「異星の技術によりネットワークのなかで生かされている」麻理沙もまた、その資格を兼ね備えているのだといえないだろうか。もちろん、自然的身体としての麻理沙は、自爆テロによってすでに命を失っている。だがしかしそれゆえに、政治的身体としての麻理沙は永遠に保存されることになった。栖花の母である麻理沙もまた、「天皇」として存在していたからである。麻理沙はネットワークのなかで不死の身体をもつキャラクターとして、大量の「ヴィド」や「インタラクティブ」、チーホアのなかで永遠に生きる。それがキャラクターの論理である。それを、麻理沙は同一のキャラクターとして永遠に転生され続けるのだといってよいかもしれない。
そのような同一的キャラクターとして生きる母の麻理沙は、栖花との「融合体」として、また「ずっと無数のアバターを通してわたしを見守っていた」存在として栖花自身に語られることで、「天皇」のまさに「母」たる、すべてを肯定するイメージで語られている。こうした比喩が許されるなら、麻理沙は栖花の演説行為により「国母」となったのである(注17)。
しかし、また葛藤も存在していた。栖花は、母の麻理沙からその血統によって「呪い」を受ける存在である。失われた王国の後継者として、またテロリストの娘として。そのようなマイナスの運命を生きる栖花には、麻理沙によって肯定的なメッセージと否定的なメッセージが同時に与えられていたといっていい。親子の間のこのような両義的な関係をどう見ればよいのだろうか。
精神科医の斎藤環は、母娘の間の保護や依存を含む関係を、「母は娘を支配する」と言い表した(注18)。斎藤によれば、母による娘の支配は、母が娘の幸福を望みながらも同時に嫉妬し妨害する矛盾した形をとるという。そうした支配は、メッセージとして送られる。それは肯定的なメタ・メッセージと否定的なメッセージとが同時に現れる、ダブルバインド状況として娘に受け取られるのだという。斎藤はそれを「否定の言葉とともに抱きしめる行為」とまとめている。
そうした矛盾した関係が行き着く先は、究極的には「母殺し」という形である。もちろんそれは象徴的なレベルのものをいう。斎藤によれば、単純な関係にある父と子の間での父殺しは容易なのに比べて、複雑な関係にある母娘の間での母殺しは、不可能性をどうしてもはらむことになるという。それはなぜか。娘は母に育てられることによって、母を否定するための言葉や論理も母から学び深く内面化することになるために、母殺しをおこなうことは自己否定に等しくなるからだという。
栖花もまた、ネットワークのなかの麻理沙によって幸福を「見守」られながらも、血統や立場によって運命を呪われている両義的な状況にある。麻理沙が栖花を見守る態度は肯定的なメタ・メッセージといえるし、麻理沙によってマイナスの血の刻印を与えられていることは、人生について否定的なメッセージを送られ続けているといえる。ならば栖花も麻理沙によってダブルバインド状況に囚われてしまっているのだといっていい。これが栖花の葛藤なのである。
栖花は自身のそうした境遇をどう考えているのだろうか。栖花が演説をおこなう前日、彰人とおこなったワームホールゲートについての会話を見ておこう。
「わたしは、怖い」
「怖い?」
「ゲートに込められた想いが怖い」
「想い?」
「オカルトじゃないよ」
栖花は身を離して笑って続けた。
「だれがなんのために作ったかわからないじゃない。そういう意味」
(略)
「人間とワームホールの関係は、森のなかに打ち棄てられた自動車を発見して、乗り物だとわからずにタイヤだけを外し、ぐるぐる回して遊んでいるサルみたいなものかもしれない。だとしたらいつか怒られる」
ぼくは栖花の横顔をそっと窺った。
一六歳の娘は、麻理沙そっくりの眉を寄せ、麻理沙そっくりの唇を突き出し、頬を染めて宙空を無言で見つめていた。
栖花の恐怖の対象は、ことばの表面上ではワームホールゲートを作った異星人に向けられている。しかしまさに、そのワームホールゲート、すなわち後に語られることになる集約儀こそ、麻理沙をネットワークのなかに生かし続ける装置なのである。ならばここで栖花が恐れているのは、「ゲートの想い」ということばの裏面にある、自身から離れようとしない麻理沙の存在そのものではないだろうか。栖花は麻理沙の感情をこそ恐れている。栖花と麻理沙のダブルバインド状況を考慮に入れれば、こう推測することはあながち的のはずれた解釈ではないだろう。
とするならば、栖花が本当に攻撃の対象としたのは、人類の文化を「侵略」するワームホールゲートではなく、それに生かされながらキャラクターとして永遠に栖花に憑り付き続ける麻理沙なのである。そう解釈するとこういうことがいえる。すなわち、栖花が大衆を扇動しテロの実行にまで至ったその排他的な攻撃性は、異星人に直接牙を向けたものではなく、不死の母として自身を呪う麻理沙に向けられた恐怖の投影ではないだろうかと。つまり栖花の革命は象徴的な母殺しの目的に向けられていたといえるのである。
しかしことはそう単純ではない。母からの逃走のほかに、栖花の母殺しにはもうひとつ別の意味合いもあったのではないだろうか。おそらくそれは栖花と麻理沙の血統によりかかわっているだろう。
どういうことか。栖花は先の引用の会話の前に、彰人に「わたしは母さんみたいにはならないよ」と語った。このことばが示す対象は、母への恐怖や感情に向いてはいないようにおもえる。それでは、それはどのような意味をもつことばなのだろうか。
栖花のその台詞の後はこういう会話が続いていた。
「わたしは母さんみたいにはならないよ」
栖花が背後で呟いた。
「知ってるさ」
ぼくは振り向かずに答えた。
「麻理沙は愚かだった」
栖花のエスプレッソにミルクを注ぎ入れる。
ふたたび沈黙が襲った。
「母さんみたいには」という栖花の語りを受けるのは、彰人の「麻理沙は愚かだった」という語りである。「愚かだった」麻理沙の行為とはいうまでもなく、無益なテロ行為で自死を遂げたことを指すだろう。ならば麻理沙はテロに失敗し、王国を復興させることも叶わなかった、いわば「天皇のなりそこない」である。とすれば、栖花の母殺しのテロには、母が失敗した革命の代理反復としての意味があるといえるだろう。栖花は、母を超えて正統な「天皇」になるための母殺しをおこなったのである。これが、栖花の母殺しのもう一つの意味ではなかっただろうか。それを、王殺しのための母殺しといってよいかもしれない。
そして栖花は「我々の管轄下にない麻理沙になった」。これが栖花の母殺しの物語である。
つまり、母殺しの二つの象徴的な目的がある。一つ目は、母の支配からの逃走としての母殺し。二つ目は、母を超え真の王、すなわち「天皇」になるための母殺しである。このテクストは、母と娘の両義的な関係を隠喩として、天皇制の主題が深く絡み合っているのである。母と娘の運命が天皇制の呪縛に重ね合わされたテクスト。その意味を読み取らなくてはならない。
(注17)原武史は、近代以降に皇后が天皇とともに宮中祭祀に出席するようになったことで「祈る主体」として登場するようになったと論じている。皇后は権力からは排除されていたが、祈りによって神に近づくことで、天皇よりも上位の主体としてふるまう可能性が現れてきたのだと。そして戦後、祭祀や慰霊活動を通して「国母」のような存在として現れるようになり、国民もまた皇后に慈愛を注ぐような母としての女性像を見るようになったという。麻理沙は皇后ではないが、栖花を見守りネットワークに不死のアイコンとして偏在することで、神に近づく「国母」のような存在であるといえる。『〈女帝〉の日本史』NHK出版新書、2017を参照。
(注18)斎藤環『母は娘の人生を支配する』NHKブックス、2008。
†象徴天皇制の比喩
栖花の暴力的な攻撃性を示したテロ行為には、栖花の母殺しのモチーフを重ね合わせて読み取ることができるのではないかといった。ならば、そうまでして殺されなくてはならなかった麻理沙の人生とはいったい何だったのだろうか。
ワームホールゲート、すなわち集約儀がインターフェイススキンとして利用した麻理沙はどのような存在だったのか。その意味をまず考えよう。テクストでは集約儀自身の難解な説明があるが、それよりも、論理をあやまたずより簡潔にかみ砕いた形の栖花の語りを引いておこう。その方が栖花から見た母のイメージがはっきりするからである。それはこのようなものだった。
わたしの母、麻理沙もまた本来の彼女ではありません。ネットワークで生かされているのは彼女の複製。コピーのコピー。二四五一年のテロ以降、太陽系中で大量に生産され流通した、大島麻理沙のヴィドとインタラクティブの集合から、異星人が試験的に再構成した疑似人格。ゲートが海王星軌道を超え、太陽系文明へのリアルタイム接続を始めたとき、異星人が発見したのは母のイメージの奔流でした。だから彼らは母に関心を抱いた。わたしが出会った母は、その奔流と、テロリストが定期的に採取していたニューロスナップショットをもとに作られた、インターフェイス・プログラムにすぎない。
「にすぎない」という否定形の語句が、栖花が麻理沙に対して抱いた複雑な感情を何より物語っている。いくら麻理沙が集約儀によってよく計算されシミュレートされた存在であろうと、そしてそれが栖花を「見守っていた」としても、当然その麻理沙は身体をもたないにせものの存在でしかない。集約儀の麻理沙はネットワーク上で栖花の面倒を見ることによって肯定的なメッセージを発していた。しかし栖花にとって集約儀の麻理沙は、否定的なメッセージを発する存在でしかないと感じられてしまったのである。栖花が麻理沙に対して抱えるダブルバインド状況は、こういうところにも表現されている。
こうした集約儀が計算によって再構成する麻理沙の存在は、AIとしての存在だと捉えることができる。事実、集約儀自身が「自律型人工知性体」だと語っている。現代の最新のAI研究では、AIは完全に自律系プログラムとして作動することはできず、人間の操作によって行動が制御される他律系プログラムでしかないことが常識になっているようだ。だからいわゆる人間の心をもった強いAIは現代の科学では存在しない。しかし、AI内部のあまりにも複雑な計算と出力が人間の認知能力を超えるとき、人間にとってはAIがまるで不可知の心をもつ、「疑似的自律性」のある存在のように錯覚を感じることはあるという(注19)。『クリュセの魚』の集約儀は現代よりも未来の完全な自律型AIとして設計されているが、それはAIが人間の前では意志をもつように見えることを意味する。栖花もまた、この意志に反応しているといえる。
AIは複雑な計算と出力により、まるで意志をもった存在として扱われる。では、実のところAIとしての集約儀は何を計算することができるのだろうか。集約儀の麻理沙による回答はいたってシンプルなものだ。
「わたしは、みなが麻理沙と見なしたものの集合体。王族の末裔としては悪くない。だって、地球では王ってそういうものだったんでしょう。国民統合の象徴」
「国民統合の象徴」とはいうまでもなく日本国憲法第一条の語句を踏まえたものだろう。そしてAIが計算で扱うのは、確率と統計のデータの集合をもとにした、高い蓋然性でのある事象の再現である。つまり、日本国憲法の「象徴」とは確率と統計の計算によってシミュレート可能なのだと集約儀の麻理沙は語っているのである。
先に、ワームホールゲートすなわち集約儀は、グローバリゼーションの比喩として機能していると述べた。ここでは、集約儀にもうひとつの比喩が重ねられているのを読み取ることができる。つまり、象徴天皇制の比喩としての集約儀の存在である。象徴天皇制を純粋に論理的に突き詰めるならば、国民の一般意思を集約するものとしての「象徴」とは、AIのような計算機によって代替できる。集約儀はそのような象徴天皇制の驚くような未来のビジョンの可能性を示しているのである。
(注19)西垣通『AI原論』講談社選書メチエ、2018。
†母の孤独
純粋に確率と統計の計算で象徴が表せるなら、象徴自身の個人の自由意志や心は不要であることになる。たとえば象徴天皇制の論理を文化概念として突き詰めた三島もまた、天皇の倫理的根拠を「没我」であることに求めていたために、天皇の個別性や特殊性、意志を認めていなかった。
しかし、集約儀の麻理沙はちがった。意志をもつ集約儀の麻理沙は悩みを抱えてしまったのである。それは、このような形で表現されていた。
このわたしには中心がない。
魂がない。
わたしはいま、中心がないために、魂がないために、逆に集約儀たちの寂しさに引き摺り込まれている。
(強調原文)
そもそもなぜ集約儀は麻理沙という人格のインターフェイスを用意したのか。それは「魂」、すなわち人間の「観測選択機能」を採取するためだった。集約儀の設計者たちには人間がもつ「現実を現実として観測し固定する機能」が欠落していた。それを人間が利用するワームホールゲートのワープ機能を通して、集約儀は採取しようと考えた。麻理沙とは、「収集対象となる個性知性体を効率よく走査空間に呼び寄せるため」の「疑似餌」の機能を果たしていた。
集約儀が認識していたのはその「魂」の欠落である。現実をひとつに決定することのできない集約儀は「寂しさ」、つまり孤独を感じている。意志をもった「象徴」としての集約儀は、ほぼそれをもつことが人間の条件とでも呼べる、実存に関する悩みを抱えてしまったのである。繰り返すが、本来象徴天皇制の論理としては、こうした実存的悩みを抱える必要はない。いや、「象徴」の「務め」を果たすためにはもってはいけないような悩みである。それに、計算機にとっても無駄な悩みであるだろう。しかし、集約儀の麻理沙はそれを抱えてしまった。ならば、こうした実存の悩みは「象徴」になることの位相において、いくぶんか普遍的なものであることを意味するといえる。
実存の孤独とは、どのようなタイプのものなのだろうか。テクストにおいて集約儀の一人称が、「このわたし」ということばで強調されていたことに注意しよう。これは日本の思想史的には、明らかに柄谷行人『探究Ⅱ』(注20)の記述を踏まえたものだといえる。
柄谷が論じたのは、「この私」や「この犬」というときの「この性」のことである。柄谷はそれを「単独性」と呼んで「特殊性」とは区別する。特殊性とはたんに「私」といったときの、一般的で誰の発話にとっても交換可能な個人のことを指し、単独性とはそれとは区別される、いま・ここの地点にいて発話する主体である、他ならぬ「この私」でしかありえない出来事のことを指す。いわば単独性とは実存の悩みのことだといっていい。集約儀の悩みも、このような単独性に関する問題を抱えている。
柄谷によれば、単独性を示す「この私」は固有名によって表象されるという。固有名によって名指された他ならぬ「この私」は、他でもないこの世界において、つまり可能世界からの想像力を通して、この世界の「この私」が析出されることを、分析哲学者のクリプキを援用して柄谷は述べる。
だがしかし、ここで、前回麻理沙が抱えた名前についての困難を論じたことを思い起こしておこう。その悩みは、麻理沙は「天皇」としてではない、にせものの名前を抱えていきるほかなかったことから、アイデンティティのトラブルとして持ち込まれていた。つまり、麻理沙には「このわたし」が誰であるかを明かすような固有名の欠落があったのである。いま柄谷の単独性の論と照らし合わせれば、それは麻理沙が可能世界、すなわちどこの世界からも遊離されているような存在であることを意味するだろう。麻理沙はそうした孤独を抱えていたのである。
そしてその孤独は、集約儀にも通底している。集約儀は人間のもつ「観測選択機能」が欠落していたのだった。それはつまりどのような事柄をいうのだろうか。集約儀の語りを聞こう。
太陽系の人間は、つねにすでに、さまざまな可能性のなかから「この現実」を選び、生を営んでいる。それは人間にとってはじつにあたりまえのことだが、集約儀はその能力こそを必要としている。ワームホールゲートを潜ると、人間の大脳の下前頭回三角部と海馬傍回のクリプキ=ペンローズ器官にかすかな傷がつく。現実ではない現実を想像する「もし」が、可能世界への通路が、虚構を生み出す力がほんの少しだけ失われる。だれもが自覚できないくらい、統計の誤差に紛れてしまうぐらい、かすかに。
つまり集約儀には、「この現実」を選ぶことができない。それは、集約儀にとって「この現実」がないということ、すべてが選択するよすがのない可能世界として映ることを意味しているだろう。ここで可能世界、すなわち異なる現実を想像することを、歴史性をもつことへの想像力と捉えるなら、集約儀にとっては「この歴史」が存在しないことを意味する。つまり集約儀にとって歴史とは規定できないものであるのだ。ならばそれは集約儀の認識する歴史はすべていわば「コピーのコピー」なのだといえる。歴史のたがが外れているのである。
ここで、三島が『文化防衛論』において、文化概念としての天皇が永遠の自己同一性を保つような時間的連続性のもとで捉えられていたことを再び思い出しておこう。これは、伊勢神宮の造営の例のような、文化が再帰性という特質を与えられていたことと対応している。それはつまり、オリジナルとコピーの弁別を認めずつねに現在の天皇が原初の天皇であるという三島の天皇制についての主張には、永劫回帰のような歴史に対する無底性が認められるということである(注21)。三島の認める文化概念としての天皇とは、すなわち象徴天皇制の論理の純粋形態を意味しているから、象徴天皇制が掲げる「象徴」とはつまり、概念的にいえば「この歴史」という現実への問いを欠落させた存在でありうるということを示しているのである(注22)。
象徴天皇制の比喩であった集約儀が「この歴史」を選べないということは、三島の議論と突き合わせて述べるなら、「象徴」になるということは、つまりどの現実にもかかわらない同一の歴史だけが存在する時間を生きることにほかならないだろう。それは言い換えるなら、「象徴」の時間とは時間がループすることそのものなのだということである(注23)。
果たして、インターフェイスである集約儀の麻理沙も歴史についての悩みを同じように抱えていた。超光速航法を可能にする集約儀は、つまりタイムトラベルを可能にする技術で成り立っていた。タイムトラベルの欲望とは、つまり時間ループの欲望にほかならない。集約儀の麻理沙もまた、後悔からある時間をやり直したいと考えていた。それは彰人と関係をもち栖花を産んだこと、栖花を彰人とLに託してテロで自死したことだった。「わたしは幼かった。責任を放棄した。厄介な運命をLと彰人と娘に押し付けた」。
もちろん、集約儀が語るようにタイムトラベルをおこなった先の世界とは、世界線が異なる世界のことである。そこでは栖花は最初から存在しないし、彰人と麻理沙は「なんの罪の意識もないままに」、新しい子供を作ることができる。
しかし、ここで栖花を産んだ母としての麻理沙が苦しんだタイムトラベルの問題とは、ほぼ自己否定に関する問いである。麻理沙は時間をやり直すことで栖花を産まないことができる。もしくは、自らの「母」の支配により、それからの逃亡で暴力的な革命を起こしてしまった栖花の運命を変えることもできる。しかしその選択をおこなうことは、母がいまの子供、すなわち栖花を文字通り殺してしまうことにほかならない。麻理沙は痛烈な状況を突き付けられてしまった。これほど強力でもの悲しいダブルバインド状況があるだろうか。
先に、栖花は麻理沙からダブルバインドのメッセージを受け取ってしまったことを述べた。そのような形で栖花は麻理沙から「呪い」を受けてしまった。そして栖花は母殺しを試みようとしたのだと。しかしここにあるのは、母も娘と同じようにダブルバインド的状況で苦しむ状況である。娘の孤独が存在するならば、同じように母の孤独もまた存在するのだ。そしてそれは、時間ループの悲劇に根差している。
娘の孤独と母の孤独。それこそが、天皇制をめぐる物語に重ねられる形で描かれた、テクストにおける真の危機的な状況だったのではないだろうか。では、この抜き差しならない状況に対して、どのような選択をおこなえばよいのだろうか?(続)
(注20)『探究Ⅱ』講談社学術文庫、1994。
(注21)これは、象徴天皇制のいう「象徴」を、戦後の日本政府は当初あいまいに規定しようとすることで、戦前との連続を保とうとした事実と対応する。もちろん、そこで念頭に置かれていたのは「国体」概念である。「象徴」とはつまり「国体」の言い換えでしかなかったのである。川西秀哉『近代天皇制から象徴天皇制へ』吉田書店、2018を参照。もちろん国体とは国の永遠の自己同一性のことを指し示している。つまり「象徴」には国体に対応するような無時間性の意味が最初からあったことが認められるだろう、ということである。
(注22)たとえば現実の現行天皇は外交や慰霊などの祭祀活動を通して他者に向かう歴史性に開かれているではないか、という反論があるかもしれない。しかしそれは天皇がカントーロヴィチのいう「自然身体」をもつから可能なことである。つまり、実際に死ぬ身体をもっているから歴史性をもつことも可能になるのである。ここでは、象徴天皇制の「象徴」論理を概念的に根本まで突き詰めるなら、そこでは歴史に関する問いが抜け落ちてしまうだろうということを問題にしている。
(注23)時間ループ物語はゼロ年代のセカイ系文学との関わりで論じられることが多いジャンルである。しかしゼロ年代以前にもそうした物語は存在したのであり、それは直接的には近代文学に系譜の元をもつといえる。いうまでもなく天皇制もまた「一世万系」という歴史の「ループ」を主張し近代以降の問題として浮上した。時間ループと天皇制は遠からぬ関係性があるということができる。浅羽通明『時間ループ物語論』洋泉社、2012を参照。
⑤ 否定形の正史