『クリュセの魚』を読む③ 名前の物語

『クリュセの魚』を名前についての物語として解釈する。テクストの固有名の性質には無名性と単独性を見ることができるが、それらはまた偶然性と必然性という様相概念に連接している。名前はメディアとして機能し、それぞれの固有名の性質は、人物のあいだで欲望や生を結ぶ根拠として働いている。固有名こそが恋愛や家族を結びつけるのである。よってこの小説は名前をめぐる物語なのである。
② ズレの方法

†アレゴリーとしての名前

クリュセの魚には名前らしい名前、すなわちそれが棲む場所を由来とし名付けられた換喩的な名前があるだけで、特定の存在を指示する名前としての固有名はなかった。魚は自身がどのような血統や出自を抱えているのかは知るはずもないし、またいかなる物語や歴史の中心としての主人公にも担がれることはない。しかしそれは彰人と麻理沙の恋愛を生む象徴として存在している。

ここで魚に見ることができるのは、血統的同一性の起源や物語論的同一性が消去されることによって生まれる、存在のフラグメントと化した無名としての固有名が(注1)、しかし欲望の生まれる根拠として人物を結合させる生の様式である。魚は人物のあいだにおいて欲望の起源として指し示される。個体的で特定的なルーツを欠いた、固有名の無名性が起源となり、新たな結束のルートを人物間に生むのである。この小説において、名前とは欲望や生をつなげる重要なメディアであるのだ。

そこでテクストの人物の名前に具体的に注目するならば、それぞれが各々の名前に関して記号的で病とも呼べる生を送っていたことに気づかされる(注2)。それはたぶんに、名前自体が社会の歴史や生誕の出来事といったルーツを抱え込んだ文字に関して隠喩的意味をもつからだが(注3)、それ以上に名前が名付けという儀式を伴う、存在の起源において他者の生の念が込められた記号であるからだ。名前が生をつなげるということは、その代償として意味をもつことの病を引き受けるということである。テクストにおいて人物のもつ名前は、クリュセの魚がもつ無名性にはない、隠喩的で必然的な意味が刻印されている。

具体的に見てみる。まず葦船彰人。他の日本系が「公的な認証ではたいてい東アジアの統一音で漢字名を表示している」移住者なのに対して、ひとり地方音を残すなかば貴種的存在である彰人は、しかしSAACの信託統治領になったクリュセでは名前の音に対応する象形文字の登録を拒み、公的には「象形文字がないアシフネ・アキトでしかな」い。一意的な統一音による固有名の流通という、文字からのグローバリズムが進む世界で、彰人は固有名においてローカルであることのみにおいて存在しているが、しかしそれは象徴的意味の基底たる漢字との対応を欠いたちぐはぐな存在である。

このように音と意味における名前の存在論的分裂を抱えている彰人は、だが彼を親密性の表現であり本来の表記である名前で彰人と呼ぶ麻理沙と、ただそっけなく個人的ではなく類的であるイエの役割を強調する苗字でアシフネと呼ぶLのあいだで、本来は繋ぎとめられるはずではなかった栖花の生命を「船」というメディアとして未来につなげる存在でもある。

娘の栖花。「麻理沙だったらつけたはずの名前」を想像し、Lが用意した偽名である「チーホア」の音から対応する訓を当てはめ彰人が名付けたその名は、日本語で家を意味する「まさに麻理沙の娘に適切な名のよう」である。生を結合させるミニマムな存在論的形態である家族に期待される役割を引き受け、父と母の関係を取り持つ彼女は、しかし父である彰人が望んだ名ではなく、母である「麻理沙だったらつけたはずの」ような名として名付けられることで、母や集約儀から「呪い」を受ける存在でもある(注4)。

「恋敵」でありながら彰人に協力を申し出るL。「ローウェル・パージヴァル・カンゲルルスアーク=ダフィトスタイン」という、有名な火星研究者を織り交ぜた名をもつ彼は、彰人によってLという短絡的な通称に暴力的な形で縮約されている。Lというアルファベットはそれ自体に意味をもつ漢字文字と異なり、他の文字との差異によってのみ意味をもつ表音文字として識別される記号である。よって、Lは意味のある実体を欠いた「声」として彰人に「憑り付き続けている」聴覚的存在である。

たとえば栖花の正体が披露される地球に向かう場面や、麻理沙に会うために宇宙艇でオールト雲に向かう場面が示すように、Lは彰人にガイドを与えるナビゲーションキャラクターとして存在している。自身に関する意味を捨象した音のような存在でしかないLは、しかしナビゲーションキャラクターのような対他的存在であることによって彰人をバックアップする人物として意味をもつ。

このように、この小説の登場人物は表象される名前についての記号的な病を背負っている。それは小説における人物の固有名が、魚のようにルーツをもたないことによって欲望の起源となる無名性を抱えた名前ではなく、文字自体が象徴する運命を集約してルーツとして引き受けることによって、固有名が必然的なアレゴリーとして存在していることを意味する。単独的な生を生きる人物はしかし、このような固有の運命を背負っている。

ここで、たったひとつの単独性をもつ固有名を引き受けつつひとつところに生きるしかない、人生についての困難を伴った名前は、大文字の歴史や物語といった意味の不在を引き受けているというより、言語行為論的な区別でいえば、それぞれの名前が必然的な意味をもつことによる行為遂行の過剰さを引き受けているといったほうがよい。小説の人物の名前は文字自体の運命を抱えることで、意味が意味として過剰に供給され続けてしまうことによる意味のゲームに成功し続ける。アレゴリーとしての固有名はつねに名前のもつ意味を実現させてしまうことによる不幸をもっているのである。なぜならそこにはふつう行為がはらむアクシデントや不確定要素といった偶然性がないからだ。

しかし、その不幸をもたらす名前によって、バラバラな家族の生が媒介されつなぎ止められているのである。それが「孤独」で不幸を抱えた生が独我論的な臆断から脱出し他者へ向かうことの意味である。孤独をもった彰人が恋愛し、家族をもつまでに至るのは、すなわち固有名の威力によっているといえる。

アレゴリーとしての固有名は家族を結びつける。バラバラであるはずの家族は名前によってつながれることができる。この小説においては必然的な意味のある名前をもつことが、家族としてつながる条件となっているのである。それが、名前がメディアとして働くことの意味である。

注1 大杉重雄は固有名がいくつかの「アンチノミー」を示し、その一つとしてふつう固有名が喚起する人物の単独性と、しかし自然主義文学が描くようななにものでもない個人の無名性があることを指摘している(『アンチ漱石』講談社、2004)。大杉はカントに依拠して矛盾しあうそれらの性質が解決不能なアンチノミーの形式であると論じているのだが、ややリゴリズムが残る論である。実際にはアンチノミーの形式に固持するのではなく、固有名にはそのような二面性が相補的に見て取れるという理解が必要ではないか。本稿でのちに見るように、このテクストの固有名にはその固有性と無名性が単独で存在しているわけではなく、それらはひとつの名に両義的な形で示されるものとして解釈しうる。本稿は大杉の図式に依拠しつつも、そのようなテクストの事態を見ている。

注2 飛浩隆はテクストの人物の名前について、それがいくつものイメージや象徴をはらんだ存在であることを指摘し、彰人や麻理沙の名前の比喩性を論じている。前掲「解説」。

注3 出口顕『名前のアルケオロジー』(紀伊国屋書店、1995)は固有名のもつ単独性といった形而上学的議論に必ずしも還元されない、固有名が共同体で名付けられ機能する際の社会的で物質的なルートを論じている。純粋な形而上学的議論のみならず歴史的な議論に踏み込まざるを得ない、たとえば小説のようなジャンルにおいて固有名に言及するときは、そのような固有名のハイブリッド性に目を向けなくてはならないだろう。

注4 母の「呪い」は、テクストで集約儀が「母に対して同一化の欲望を抱くとともに拒絶する、そんな矛盾に満ちた反応」と語るように、母と娘の関係におけるダブルバインドを示している。母と娘のこの関係については、斎藤環『母は娘の人生を支配する』NHKブックス、2008。

†無名性と単独性

整理してまとめよう。このテクストにおける固有名の性質は二つに大別される。

ひとつは、クリュセの魚に象徴される、特定のルーツをもたない換喩的であるような無名性。魚は名前をもたないことによって空白としての名前をもつ。それは無名であるがゆえに大文字の歴史や物語といった意味を備給する位相から切断されることによって、彰人と麻理沙がもった恋愛のような欲望の起源となっている。

もうひとつは、人物の名前に象徴される、その文字自体がルーツとなり隠喩的であるような生をもたらす単独性(注5)。単独性とは偶有的なこの生を示すためにふつう使用される概念である。ただしこのテクストにおいて、それはアレゴリーが体現するように、この名前が指し示すものでしかない不幸な生を人物が生きるほかないことを意味している。しかし、それは必然的な名前をもつことの位相において、バラバラで孤独な家族の生をつなぎとめている。その点において、名前はメディアとして機能している。

固有名の無名性と単独性。この二つの性質はまた、テクストにおいてそれぞれ二つの様相概念と親和的である。無名である生は偶然的にそこで生きることによって、生を可能にする基盤である欲望の根拠を示している。単独である生は必然的な名前を抱えることで、生をつなげる連帯の根拠を示している。固有名の無名性は偶然性と連接しており、固有名の単独性は必然性と連接している。テクストの固有名の二つの性質は、またその名前が象徴するものに連接する出来事により、偶然性と必然性という二つの様相概念を引き寄せている。

偶然性と必然性という様相概念を名前に引き付けて解釈したとき、思い起こされるのは名前がはらむ本来性の概念である。名前は偶然的、恣意的に幾葉にも名付けることができる。しかし、名前はまた、その生まれた存在が位置する共同体の習慣や歴史、出来事によってなかば必然的であるような規則をもって名付けられる。つまり名前は偶然的であることと必然的であることの両義的な位相をもっている。ならば名前において、いったいどのようなものが正しい名前なのかといった問いにはどのように答えることができるだろうか。

もちろん、名前はただそのようにあり好きに名付ければよいだけで、それが指し示すただひとつの正しさなどはない。だからこれは現実においては意味のない問いである。だがこの問いをテクストにおいて抱えてしまった人物がいる。それはほかならない麻理沙である。

注5 単独性については、柄谷行人『探究Ⅱ』講談社学術文庫、1994。

†固有名と正しさ

テロの犯行声明で表明されたように麻理沙は異なる三つの言語を駆使する話者である。すなわち、太陽系の共通語としてグローバリズムを体現する「地球英語」、ローカルな場所で使用されることにおいてナショナリズムを体現する「火星英語」、失われた言語でありノスタルジアを体現する「日本の言葉」。使用される場所も時間も異なる三つの言語の話者であることにおいて、言語の分裂がまたアイデンティティの喪失を引き起こしているだろうことは見やすいところである。事実、中継基地での麻理沙と彰人の会話に表出されているように、彰人の「あなたは、だれ」という問いに麻理沙は答えることはできない。また、麻理沙の人格の再構成である集約儀も彰人の問いを引きずるかのように、その独白は「わたしはだれだろう」という内省で始まっていた。

アイデンティティや人格についてテクストで分裂を見せる麻理沙は、ではなぜそうした分裂を抱えてしまったのだろうか。

視点の角度を変えて答えに迫ってみよう。彼女がそもそも誰なのかという問いは、その出自によって一応は答えられる。失われた王朝の子孫であり、テロリストとして秩序の変革を目的とする麻理沙は、自身のほんとうの名前を隠して過ごしていた。代わりに「大島麻理沙」や「エンマ・ジェショフ」といったにせものの名前を使用して生きている。過去の日本の王権の座の歴史に連なる彼女のほんとうの名前は、テクストにおいて一度だけ彰人からの言及によって「明宮麻理沙」と明かされる。

個人を指す名前としての固有名が反復されるによってふつう意味をもつこととは対称的に、日本の天皇は、その在位中は固有名を公の語りにおいて発することを抑制することで権威と逆説的にも個体性をもつ(注6)。全体性を象徴するシステムである天皇制が天皇家であることによって成立する以上、名前の語りにはイエとしての役割のみが期待される。よってそのために個人名の語りは必要とされないからである。天皇はイエとしての「天皇」と呼ばれる語りによってしか存在しないのである。

麻理沙もまたほんとうの名前を隠すことで天皇のようにふるまっている。しかし、すでにグローバル化の進展によって日本の王朝が滅びた25世紀の火星においては、麻理沙を天皇と呼ぶものは誰も存在しない。麻理沙はただの麻理沙として生きるしかない。麻理沙は人々にそう呼ばれることで保証されるふつうの個人としての名前と、血統的な正しさが保証する王家に連なるものとしての名前とのあいだで引き裂かれている。それでは、いったいどちらが彼女の正しい名前なのだろうか。

岡真理はサバルタンを呼ぶことの表象の暴力についてふれ、名前とそれが指す個体とのあいだには翻訳不可能性や出会い損ねがつねにある以上、正しい名前を問うことではなくその名を語ることにおいて何が差し出され交渉されているかを問うことが重要だという。

人と人が出会う、ということ。出会い、という出来事において生起する、名を交わすという行為。私は、私の名を差し出す、私の固有名、私だけの名を、あなたに、あなたがその名を口にするために、私に向かって呼びかけるために。/「名」とは、誰のものなのだろう。私の名、私に固有の、その大切な名をあなたに無条件で差し出すという行為、それは、あなたに、あなたのものとして、私の名を贈るということなのではないだろうか。あなたが、私に呼びかけるために、そして、私が、あなたのその呼びかけに応えるために。固有名、それは、翻訳不可能なことば。ナショナルな言語の枠組みの外部にあることば。名とは、私のものであり、しかし、それと同時に、私に向かって私の名を呼びかける他者のもの、でもある。(注7)

繰り返すが、岡もいうように、正しい名前とは何かを問うことは現実においては意味のない問いである。唯一の正しい名前などどこにもないのだから。しかし、その問いを抱えてしまうことはありうる。前に述べたことに引き付けるなら、それは名前を引き受けることがつねにはらむ不幸といってよいだろう。麻理沙はその不幸をアイデンティティの喪失という形で抱え込んでいる。しかし、麻理沙にも彼女の名が他者に呼ばれる瞬間は確かに訪れていた。彼女の名はどう呼ばれ、どのような形で誰に差し出されていたのだろうか。

麻理沙の名は、まず大島麻理沙として語られる。それはこう留められていた。

Marisa Oshima:voluntary guide @ Martian Memorial
earthian english available/Amartya Sen s.a.c.,EL,b.2429

大島麻理沙。
開星記念堂ボランティアガイド。
地球英語可能。エリシウム州アマルティア・セン二級自治市。
二四二九年生まれ。

この名が刻まれたネームプレートは、テクストにおいて象徴的な形で三度反復されて記述される。一度目は彰人と麻理沙が開星記念堂で初めて出会う場面。二度目はLから栖花と共にプレートを託された彰人が、それを崖下に投げ捨てる場面。そして三度目はLによって回収されたプレートが再び彰人に託され、麻理沙の家の扉を開ける鍵となる場面である。

この反復されるプレートの記述は、同じように三度記述される彰人が崖を昇降する場面と隣接しているため、テクストにおけるその象徴性が強調されて語られていることは見やすいところだろう。これらの場面はテクストの始めと中間と終わりとにちょうど均等するように配置されているので、それが読者にとって枠の役割を果たしていることもまたはっきりしている。つまりこのテクストが繰り返し語るのは、まず何よりも名前が往還して戻ってくる物語だったのである。だから、小説に書かれた恋愛や家族に関する出来事は、この名前の物語に集約されるといっていい。恋愛や家族の起源は固有名の役割によっているのである。

固有名が果たす役割は、前に述べた通り無名性と単独性に分けられる。では大島麻理沙の名が記されたプレートはどのように機能しているのだろうか。

まず、そこに記されたのが大島麻理沙という、王朝にまつわるものではないにせものの名前であることによって、麻理沙の無名性を示している。だがそれは、最後に彰人が「王国の起源」と語るように、26世紀の火星に新しく成立した栖花を中心とする王国の起源、すなわち物語の根源である麻理沙との恋愛や家族への欲望が生まれる起源としての意味をもっている。プレートの所持者、麻理沙との出会いからすべてが始まったからだ。

また、それはプレートの投棄と帰還という一連のシーケンスが反復されること、すなわちそこに記されたにせものとしての名前、ふつうの個人名としての麻理沙が最終的に承認されることによって、麻理沙の獲得された単独性を示している。記号としての固有名は、反復されることによって他者から承認され固有の意味をもつようになるからだ。贈与されたプレートは麻理沙の名が彰人によって承認され、継承されたことを意味している。

この二つの事実から言えることは、つまりこういうことだ。プレートはこのテクストに書かれた固有名の性質である無名性と単独性という、対称的で両義的な意味を保持している。それはプレートが家族や恋愛の欲望を動かす起源であり、麻理沙の名を彰人が承認することによる生の連帯の根拠であることを同時に示している。このような両義的な意味が象徴されたプレートは、つまりにせものとしての麻理沙の名が反復されることによって認められた事実を意味している。麻理沙の名はそのようにして彰人に贈られ、託されたのだ。だから大島麻理沙の名は、にせものの名から、麻理沙が麻理沙であることを示すほんものの名として反転したのである。それは麻理沙がアイデンティティの悩みや正しい名前とは何かという問いから象徴的に解放されたことを意味する。名を語り、贈るとは、つまりこのような名前の承認についての出来事なのである。

『クリュセの魚』が名前をめぐる物語だということはこのような出来事においてである。固有名こそが恋愛や家族への欲望を動かし、バラバラの家族をつなげる。それは名がただ記号としての存在としてあるだけでなく、実質的な重みのある時間をもっているからだ。プレートが捨てられ返ってくる時間、それがこの小説の物語なのである。(続)

注6 船曳建夫「天皇の名」『國語と國文学』第70号11巻、1993。

注7 『彼女の「正しい」名前とは何か』青土社、2000。
④ 天皇(制)の明日に

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