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お人好しのすすめ2(あいさつを惜しまない)

 あなたは「あいさつとお人好しとは関係ないだろ」と思うかも知れない。しかし、大ありなのである。損ばかりしているのがお人好しである。あいさつにも損得の要素はある。だから、あいさつとお人好しとは無関係ではない。
 あいさつをするのが支出で、あいさつを返してもらうのが収入だとすれば、あいさつはギブとテイクのやり取りである。ギブとテイクが等しいならば、損得は生じない。ところが、往々にして、ギブが多くてテイクが少ない人や、ギブが少なくてテイクの多い人が、生じてしまう。それが世の中というものだ。
 お人好しなあなたは、ギブが多くてテイクが少ない人だろう。あなたは、誰かからあいさつをされれば、必ずあいさつを返す人だ。そして、相手があいさつをしてこなくても、自分からはあいさつをする。こっちがあいさつをしても、相手があいさつを返してくれないこともある。ギブとテイクを合わせると、全体としては、差し引きマイナスの収支になってしまうだろう。だからこそ、あなたはお人好しなのだ。
 それでいいのである。あいさつのやり取りでのマイナスはとても小さい。ないと言っていいほどのマイナスだ。そうしたマイナスをなくそうなどと、思わない方がいい。むしろ、そうしたマイナスを引き受けてしまうつもりになる方が、心おだやかに過ごせるのである。

 もっと具体的に考えてみよう。
 あなたが、いわゆるタワーマンションの住人であり、そこには三百戸ほどが暮らしているとしよう。同じフロアの住人であれば、しばしば顔が合うので(職業や人となりなどについて知らないにしても)まあ顔見知りと言ってもよい。しかし、それ以外の人たちの多くは、言わば「赤の他人」である。あなたが、エレベーターに乗れば、あるいは新聞や郵便物を取りにロビー辺りに行けば、これらの「赤の他人」と出会う。そうしたとき、あなたは積極的にあいさつするだろう。
 「お早うございます」、「こんにちは」、「こんばんは」、「失礼します」この四語でたいてい事足りる。こうしたあいさつに対して、大部分の人はお返しのあいさつをしてくれる。あなたのあいさつに対して間髪を入れずにあいさつを返してくれる人もいれば、あなたのあいさつを聞いた後で遅れてあいさつを返してくれる人もいる。ところが、まったくあいさつを返してくれない人も、結構の割合でいるだろう。
 自分から積極的にあいさつをしにいっても、お返しのあいさつがないと、ちょっとさみしい気分がする。このさみしい気分こそ、あいさつのやり取りでのマイナスなのである。あなたがあいさつをするのに、相手があいさつを返さないという事態は、あなたがギブするのに相手からのテイクがないという事態であり、差し引きあなたは「損」したことになる。この「損」があなたにさみしい気分を与えるのだが、この「損」は仕方がないものだとあきらめた方がよい。
 あえて、こうした「損」を避けようとするなら、どうだろう。その場合、あいさつなどしないに越したことはない。だから、自分から積極的にあいさつしにはいかない、と決めるとしよう。しかし、誰か積極的にあいさつしてくる人と遭遇した場合、あいさつを返すことにやぶさかでないとするなら、あいさつを聞いた後であいさつを返せばよい。こうして、あいさつを聞いた後で遅れてあいさつを返す人が出来上がる。
 だから、あいさつを最後まで聞かないで間髪を入れずにあいさつを返す人は、たぶん相手があいさつをしてくる人かあいさつを返してくれる人かに関わらず、あいさつをする人だろう。つまり、お人好しであることを引き受け積極的にあいさつをしにいく人である。
 あいさつをまったく返してくれない人は、相手があいさつをしてくる人かあいさつを返してくれる人かの判断をあきらめた人たちなのであろう。相手があいさつをしてくる人かあいさつを返してくれる人かは、相手がよほど近づいて来ないと分からない。こっちが先にあいさつをしにいっても、相手が返してくれなければ「損」になる。相手が先にあいさつをしにきたとき、とっさにあいさつを返せるかどうかには自信がない。こうして、それならば、あいさつのやり取りなどしなければいい、という立場が出来上がるように推察されるのである。
 確かに、タワーマンションのように、おおぜいの「赤の他人」が行き交う場所は、都会の街角のようなものなので、いちいちあいさつなどしなくてもよい、という考え方はありうる。街角で出会うおびただしい数の「赤の他人」にいちいちあいさつをしていたら切りがない。だから、街角で「赤の他人」同士があいさつを交わすことはない。
 一方、たまに山登りに出掛けたりすると、山道ですれ違う「赤の他人」同士が、ほぼ例外なく「こんにちは」とあいさつを交わす光景をよく見かける。山は街角のように人が多くないし、同じ山に入っているという一種の仲間意識が働くために、あいさつが密に交わされるのかも知れない。
 いずれにせよ、山道では、街角以上にあいさつが密に交わされる。その密度は、タワーマンションより明らかに高い。
 しかし、タワーマンションの住民同士は、タワーマンションが山だとすれば、山道ですれ違う人たちと少なくとも同程度の関係であろう。いや、そうではなく、多くの利害を同じくするという点に思いをいたすなら、山道ですれ違う人たち以上に親密な関係のはずである。それなのに、あいさつを避けるのは、上述来の「損」がいやだからだろう。

 やや分析が長くなり過ぎたようだ。

 問題は、あいさつのやり取りのプロセスで、「損」を引き受けようとするか、「損」を避けようとするか、という点にある。
「損」と言っても、きわめてわずかな損に過ぎない。だから、この「損」を引き受けるのは、たいした損ではない。せいぜいが、こっちが積極的にあいさつをしたのにどうやら無視されたみたいだ、と感じる程度の気持ちの「損」に過ぎない。その程度のことは我慢しよう。
 一方、この「損」を回避する「得」はあまりにも少ない。その「損」を回避するために、あいさつをやめても、ほとんど得にはならないのである。
 何せ、お人好しのあなたのことだ。あいさつにまつわる「損」など、あなたが普段こうむっているいる諸々の損とは、比較にならないぐらいの損であろう。ならば、気にする必要はないのである。
 そして、ここからが肝心なのだが、積極的にあいさつして返礼がない「損」の小ささに引き比べ、積極的にあいさつして返礼があることのわずかな幸福感。それ自体は小さくとも、毎日の繰り返しでのこの幸福感の累積は、必ずやあなたの心を豊かにするはずである。
 礼儀正しくしろ、と言っているわけではない。
 アンドレ・コント・スポンヴィルというフランスの哲学者は、「礼儀正しさとは、徳の見かけ」でしかないと言っている(中村昇他訳『ささやかながら徳について』紀伊国屋書店)。「礼儀正しい卑劣漢」(同上)もいないわけではないからである。
 だから、礼儀正しくすることは、何を措いても求めることでもないし、自分が礼儀正しいなどと誇ることでもない。
 大事なのは、あいさつにまつわる程度の「損」にこだわらないで、おおらかに生きることなのだ。

 個人的な損得を離れて考えてみよう。あいさつがちゃんと交わされないぎくしゃくした社会と、あいさつがにこやかに交わされる友好的な社会と、どちらが住みやすい社会であろう。
 友好的な方がより住みやすい社会であることは言うまでもない。では、ひるがえって、なぜ友好的な社会の方が住みやすいのか。
 友好的な社会では、危険におびえる必要が少ない。にこやかにあいさつを交わしながら、ナイフをかざしてくる人は、まずいないだろう。逆に、あいさつを交わさない同士では、相手に対して安心できない。
 実は、あいさつを交わす意味は、この点にこそある。あいさつを交わすことで、お互いに危害を加える意志のないことを、確認し合っているのである。
 だから、相手の返礼が100パーセントは期待できないとしても、あなたが積極的にあいさつをしにいく意味はある。それは、互いが安心して暮らせる住みやすい社会を作るための、ささやかな貢献なのだ。
 お人好しのあなたは、どうせ損ばかりしているのだから、あいさつにまつわるささいな「損」など気にせず、進んであいさつをしにいこう。それで少々「損」などしても、どうってことはない。その「損」を引き受けることで、友好的で住みやすい社会を作るという、ひとりだけではおよそ不可能な貢献の一助になりうるのだ。自信を持ってあいさつに励もう。

 以上は、たとえ話の一種に過ぎない。あいさつがどうしても苦手な人もいるだろう。そうした人たちに無理にあいさつを薦めるものでないことは言うまでもない。 

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