続・ゴキブリ教授のエプロン6(のび太のくせに生意気だ)
これは、漫画『ドラえもん』の中で、ガキ大将のジャイアン(たまにジャイアンの腰巾着であるスネ夫)が主人公であるのび太に対して発するセリフである。
強者であるガキ大将のジャイアンから見て、のび太は体力、気力など、どれを取っても劣等な弱者であり、漫画の構成上、この強弱の関係は揺るぎない。ところが、主にドラえもんの介在によって、のび太が優位に立つ(あるいはそう見える)ことがしばしばあり、そうした際に、のび太の優位に納得がゆかないジャイアンがこのセリフを発するわけである。
こうした関係は、「生意気」という言葉の成立要件を、如実に示しているように思われる。「生意気」という言葉は、言うまでもなく、非難・悪口であるが、どんな対象についても言える言葉ではない。試しに、上の関係を逆にして、のび太がジャイアンに対して、「ジャイアンのくせに生意気だ」と言えば、この言葉はナンセンスに響くであろう。
「生意気」という言葉を辞書で引くと、「一人前あるいはその地位でもないのに、偉そうなあるいはさし出がましい態度やふるまいをして、小憎らしいこと」(『岩波国語辞典』第四版)ということになる。一人前でもないのに、つまり資格に欠けるのに、さし出がましい、つまり資格を満たしているように、言動するのが、「生意気」なのである。
上で、「ジャイアンのくせに生意気だ」はナンセンスに響くと述べたが、「ジャイアンは生意気だ」は必ずしもナンセンスに響かない。「生意気」という言葉の本質は、本体である「生意気」にではなく、「くせに」という、ほぼ確実にくっ付いてくる付属語の方に隠されているようなのである。
「……のくせに生意気だ」という形で使用されるとき、「生意気」という言葉はその本領を発揮する。資格に欠けるのに資格を満たしているように言動する「生意気」に対する非難の矛先は、資格を満たしているように言動する、その言動の突出性ではなく、資格に欠けるという言動の背後に向かう。「生意気」という悪口が突き刺さるのは、でしゃばること自体ではなく、でしゃばる当人の置かれている地位や身分なのである。
つまり、「……のくせに生意気だ」という言い方は、地位や身分の違いを前提としている。この言い方は、地位や身分が高い(と思っている)側が、地位や身分が低い(と話者が思っている)側へ、一方的に投げつけるためのものなのである。
「生意気」だけを切り離して、「ジャイアンは生意気だ」としても、ナンセンスではないように、「くせに」だけ切り離して、「ジャイアンのくせに」としても、ナンセンスには響かない。ところが、「ジャイアンのくせに生意気だ」とすると、途端にナンセンスに陥る。これは、ジャイアンが、漫画の世界の中で、高いポジションを持つからに他ならない。
一方、「のび太のくせに生意気だ」がナンセンスでないのは、のび太が、当該世界の中で、低いポジションしか持たないからである。
「……のくせに生意気だ」という言い方は、したがって、言葉の背景にある地位や身分の差、あるいは差別をあぶり出す性格を持つと言ってよい。
「朝鮮人のくせに生意気だ」という発言は、「生意気」とされる言動を責めつつ、その責めを上回る強度で、朝鮮人であるという出自を鋭くえぐるのである。こうした発言を平気で放つ人は、自らが朝鮮人に対する差別主義者であることを、表明してはばからない人である。
「女のくせに生意気だ」という発言はどうだろう。この発言を、往々にして自然なものと聞いてしまう私たちの社会は、差別を内蔵する社会なのではないだろうか。
言葉の向きを逆転して「男のくせに生意気だ」としてみよう。この発言に、強い違和感を覚える私たちの心の中には、差別が住みついているではないだろうか。
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