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続・ゴキブリ教授のエプロン20(男女平等が少子化を止める)

 すいぶん昔から意識されてはきたが、まともに対策が取られてこなかったのが、少子化問題である。出生率さえ向上するなら、特に対策を取らなくても、自然に解決に向かう問題と、楽観的に捉えられてきた嫌いがある。
 ところが、出生率が減少の一途をたどり、将来人口の減少がほぼ確実になると、問題は楽観を許さなくなってきた。そこで、近年にいたり、様々な施策が行なわれるようになり、さらにそれらの施策が強化されようとしている。
 それらの施策の中心は、保育施設の拡充と、子育て世帯への経済的支援。これらが、二本柱であるようだ。
 それらの施策自体は間違っていないし、必要なものだと、筆者も認める。
 だが、保育施設や経済的支援だけで、出生率が向上するかと問うなら、その答えは否定的にならざるを得ないだろう。
 出生率というのは、子供を預けることができ、子供を養育する費用が確保されるだけで、上昇するはずのないものだからである。
 子供を預かり、養育費もやるから、子供を産め、と言われて、その気になる女性(そのパートナー)がいるだろうか。費用さえ払えば、何かをやってくれるだろうと考えるのは、その費用で利潤が得られる企業を相手にした場合にのみ成立する考え方である。
 相手は生身の人間であることを忘れてはならない。女性たちが子供を持ちたいと思うには、もっと根本的な社会の変革がなされる必要がある。
 そうした社会の変革にとって、決して欠かせないのが、男女差別のない、男女平等な社会の実現である、というのが筆者の主張である。

 男女差別というと、真っ先にイメージされるのは、職場での賃銀差別(賃金と書くのは歴史的には正しくない)と昇進差別であろう。ひとことで言うなら、女たちが損をしている、という受け止め方になる。
 女たちが一種の損をしていることに間違いはない。だが、職場での男女差別体制の中で、男たちが得をしているのかと言えば、必ずしもそうではないのである。
 職場における男女差別の根拠は、女たちは、結婚すれば、あるいは出産すれば、職場を去るだろう、という予想である。このような予想は、昨今では成り立たなくなりつつあるが、かつては確度の高い予想であった。「寿退社」という言葉があり、大企業の中には、結婚したら職場を去るという不文律を確立していたところもあったほどだ。
 そのように、女たちが、やがて職場を去るものであるなら、重要な仕事は任せられないし、昇進のための訓練も必要ない、ということになる。かつて女の仕事の代表格は、お茶くみとコピー、と言われた時代もあったのだ。
 女たちの働き方がそうであるなら、重要な仕事はもっぱら男たちの双肩にかからざるを得ない。昇進のための訓練も、もっぱら男たちを対象にしたものになる。
 そういう男女差別体制は、男たちにとって、果たして得なのか。
 定時に退社してゆく女たちを眺めながら、いつ終わるとも知れない残業に従事する。出張も、もっぱら男の役割である。(短期間会社勤めをした筆者の経験から言うと、出張は、楽しいこともないではないが、体も疲れるし神経にもこたえる。週に二回も出張すると、へとへとになる。)男たちにとって、休日出勤は当たり前。下手をすると休日ゴルフなどの付き合いさえある。
 そういう働き方を是としないのであれば、昇進レースからは脱落し、妻(あるいは将来きてくれるはずの妻)からは愛想をつかされるだろう。普通の男たちの働き方を否とするには、なかなかの勇気がいるのである。職場での男女差別は、男たちにとっても、得とは言い切れないだろう。

 以上のような職場での男女差別と対になっているのが、家庭での男女差別である。こちらは、家庭内のことなので、法や、施策に関わりがなく、したがって、議論されることも少ない。
 だが、こちらも、職場での男女差別と、同様の問題点をはらんでいるのだ。
 職場で男が主、女が従、という関係を、逆転したものが、家庭での主従関係になる。つまり、家庭では女が主、男が従なのだ。
 ここで、主従と言っているのは、身分的な意味合いでの上下のことではない。家庭で女が主と言っても、女が上に立っているわけではない。
 女が主というのは、家事や育児の担当者が、ほぼ女に限定されている、という事態を指している。職場では、主たる仕事が男に担われ、従たる仕事しか女に与えられない。家庭では、主たる仕事が女に担われ、従たる仕事しか男には与えられない。もっと端的に言うなら、家庭での男は、家事無能者なのである。
 昔は、男子厨房に入らず〔「君子は庖(ほう)厨(ちゅう)を遠ざくるなり」(小林勝人訳注『孟子』岩波文庫、上、五四頁)から派生した言葉〕などと言い、男は台所に入らないのをよしとした。台所に入ってゴソゴソするのは、ゴキブリ亭主と呼ばれ、男らしくないとして、軽蔑の対象となったのである。(ちなみに、著者のエッセイ集のタイトルが『ゴキブリ教授のエプロン』鳥影社、二〇一九年、となっているのは、共働きゆえ著者が頻繁に台所に入りびたっていたことに由来する。)
 つまり、かつて、男は家事無能力であることが当たり前であり、むしろ奨励されていたのである。だから、昨今でも、家事の駄目な男はごまんといて、本人はそのことを何とも思っていなかったりするのだ。

 こうした、職場での男女の役割分担と、家庭での男女の役割分担と、両者が相補的な関係にあることは、賢明な読者には、すでにお分かりのはずである。
 職場で主たる役割を果たす男は、職場で労力を使い果たして夜遅く帰宅する。家庭で家事に従事できるはずがないので、家事無能者となる。一方、職場で従たる役割しか与えられない女は、定時退社して家庭で家事の主担当者となる。
 家庭で家事に従事しないことを前提に、男は職場で全力を仕事に注ぎ込み、高い給与と高い地位を目指す。家庭で家事を主担当しなければならない女は、職場で全力を投入できない。それゆえ、女は二流の労働力扱いされ、入社したとき男と同じだった賃銀も地位もやがて伸び悩み、男に手が届かなくなる。
 だから、たとえ共働きであっても、ある年齢になると、収入の合計は、ひとり働きの二倍にはならない。男性を一馬力とすると女性は0・六馬力ぐらいにしかならず、合計一・六馬力ぐらいにしかならないのが普通なのだ。(女性が特殊技能を持つ場合はこの限りではない。)

 筆者の述べていることが、時代遅れの、年寄りの世(よ)迷(まい)言(ごと)のように感じる読者がいるかも知れない。マスコミなどの伝えるところでは、家事をかなりの程度分担し、育児も積極的に行なう男(イクメンと言うそうだ)が、当たり前になりつつあるというからだ。しかし、筆者の見るところ、それらは限られた一部の現象を、マスコミ特有の無責任さで、一般化して提示したものに過ぎない。(街頭のインタビューで、不都合な回答もあったはずなのにカットして、都合のいいところだけを放映する手法を、思い出してもらいたい。)
 実際、育児休暇の男性の取得率が上がっているという統計があるにはあるが、育児休暇を取ったはずなのに、育児に参加せず、ごろごろ遊んでいる男たちも多いらしい(「取るだけ育休」という言葉さえある)。

 このような男女の二重の(職場と家庭での)役割分担(という名の差別)が一向になくならないのは、ひとつには、それが社会学で言う、ソーシャル・コンストラクションとして、長きにわたって人々を支配し続けてきたからである。
 しかし、男女差別がソーシャル・コンストラクションであるのなら、それは、差別が社会的な構成物なので、改変可能である、ということを意味する。
 だが、実際上は、なかなかむずかしい。
 上述のような、職場の風土とも言うべき、慣例があって、これを変えるのは、簡単ではない。みんなが支えている慣例を、ひとりで変えるのはきわめて困難である。だから、ほとんどの女性は(ときに男性も)あきらめてしまう。
 しかも、職場には「配偶者手当」などという、専業主婦を優遇する仕組み、すなわち、男女差別を助長する仕組みがある。ばかりでない。国の税制にも、「配偶者控除」などという、専業主婦を優遇する仕組みがある。国民年金の「第3号被保険者」など、掛け金を払わないで年金がもらえるという、専業主婦がまるもうけの仕組みさえあるのだ。
 だからこそ、パートタイマーの女性たちが、配偶者手当や配偶者控除を受けられる額を越えないように働くという、「年収の壁」という問題も、派生してくるわけである。
(ちなみに、女性の労働力率が向上して、いまや共働き所帯の方が多い、などとよく言われるが、女性の労働力率を向上させているのは、既婚女性のパートタイマーたちがほとんどである。これら、パートタイマーの女性たちは、典型的には、朝の家事を片付けてから、職場におもむき、職場をあとにしてから、夕方の家事に従事する。つまり、パートで家計を補助するだけで、その実は専業主婦とあまり変わらない、相変わらずの主たる家事担当者なのである。これらのパートタイマーの女性たちの配偶者は、ほぼ家事から免除されていて、たぶん家事無能者である。)
 さらに、未婚の母には母子年金を支給しないという、差別的な年金制度すらある。未婚の母を支援すると、性風俗が紊乱(びんらん)すると主張する、与党の年寄が多いせいである。未婚の母を作ったのは、母自身だけではない。言うまでもなく、その母を受胎させた男がいるはずである。そうであるのに、母のみに対して母子年金を支給しないという、懲罰的な制度がまかり通っているのである。(ちなみに、未婚の母への支援を導入したフランスでは、その後劇的に出生率が向上したと聞く。)

 ここで、改めて問いたい。こういう、職場や家庭での男女差別を放置したままで、保育施設や経済的な支援だけで、女性たちが子供を持ちたいと、思うだろうか。
 思うはずがないではないか。
 男女差別がそのままで、子供を持てば、施設に子供を預けられたとしても、子供を持つ以前のようには働けまい。ある時刻になれば、子供を迎えに行かなければならないからである。当然、彼女たちの職業的なパフォーマンスは低下せざるを得ない。彼女たちが主観的にがんばっても、職場での評価は下がり、キャリアアップの道は閉ざされるだろう。
 家庭では裏返しの困難が生ずる。いつ帰ってくるのか分からない夫を待ちながら、際限のない育児と家事に追われまくるのだ。仮に夫が早く帰れても、彼が家事無能者であれば、事態は変わらない。家事に協力しない夫の姿が目の当たりな分だけ、事態は悪化する可能性すらある。

 だから、繰り返し強調したい。男女差別のない、男女平等な社会の実現こそが、少子化を止めるための、決定的な重要課題なのだ。
 職場で女性を見下したりせず、家庭では妻と一緒に家事や育児に尽力する。そういう男性とともにあるなら、子育ても、共働きも苦にならない。そういうことが当たり前の社会こそ、女性が子供を持ちたいと思う社会なのである。そういう社会が構築されるとき、少子化問題は解決に向けて動き出すはずである。

 職場では、男性たちが子供を持つ女性に配慮し、彼女たちのキャリアの形成に協力すること。家庭では、夫たちが家事や育児に参加することはもとより、家事や育児の勉強や訓練を積んで、少なくとも、妻と同等の家事能力を持つこと。そうでなければ、これからの父親は、父親失格と言われる風潮が醸成されることが望ましい。
 それらの条件が満たされないならば、女性たちは子供を持ちたいと思わず、わが国の少子化はとどまるところを知らず、悪化するであろう。

 そうならないためには、職場や家庭も変わらならければならないが、行政にもやるべきことはある。保育施設や経済的支援よりも、重要なことがあるのだ。
 まずは、職場や国が温存している、専業主婦優遇、男女差別助長の制度を全廃せねばならない。そうでなければ、わが国の社会は、真の男女同権社会にはならないと断言してよい。
 配偶者手当を廃止して浮いた資金は、従業員全員の基本給を増加する原資に充てたらよい。そうすれば、従業員全体の取り分は減少しない。配偶者控除をやめて減る控除額は、扶養控除の(あるいは基礎控除の)増額に充てたらよい。そうすれば、納税者全体にとって増税とはならない。

 以上で述べ足りないことがある。一般的な意味での、職場や家庭の変革、あるいは行政の変革。それらは本当の男女平等を実現するためには不可欠のものである。だが、それらとは別に、もっと個人的に、読者のあなたが働く女性であったとして、あなたに何ができるか、考えてみよう。
 あなた個人に直接できるのは何か。職場では、可能な限り、男女同権をめざす仲間と集い、機会があるごとに職場に影響力を及ぼすことだ。その場合、忘れてはならないのは、職場の男女差別の犠牲者が、自分たち女性だけではないこと、男性職員も差別の犠牲者であることだ。
 男性だって、早く帰宅して子供たちと遊びたいだろう。あるいは、家事のひとつも覚えて、妻と力を合わせる喜びを共有したい。それらを、職場の男女差別は、はばんでいる。そのことを、男性たちに自覚させねばならない。
 つまり、肝要なのは、犠牲者面して、男性を敵に回さないことだ。むしろ、男性と可能な限り、協力する方途を見つけ出したい。
 職場の同期生や後輩の男性たちを(もちろん先輩の男性でもかまわない)教育して、見方に付ける努力が必要なのだ。

 あなたが、男性であるなら、何ができるか、もはや言うまでもない。上記のような努力を惜しまない女性を、バックアップするだけでいいのだ。それで足りなければ、周りの男性たちとタッグを組んで、女性たちを応援しよう。

 筆者が望むような、真の男女平等社会が訪れるのはいつのことなのか。二〇年後か三〇年後か。いずれにせよ、筆者が生きているうちには、訪れそうもない。だが、望みを捨てるつもりはない。若い人たちによる改革を期待してやまない。

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