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お人好のすすめ3(約束を守ろう)

「あいさつの次には約束かよ、小学生じゃあるまいし」とあなたは思うかも知れない。小学生っぽくていいのである。
 不道徳な小学生というものは、たぶんいない。小学生ぐらいの年頃では、金銭欲や名誉欲など、人を不道徳に導くことどもに縁がないからである。
 だから、並みの小学生は、並みの大人より道徳的であるとみなしてよい。小学生として立派な子供は、道徳的には、そのままで立派な大人として通用すると考えてよいのだ。
 だから、小学生を馬鹿にしてはならない。
 あなたが小学生の頃、友達との約束を守るために、どれほどの労力をはらったか思い出してみよう。たとえその約束が、今のあなたの価値基準で、取るに足りない約束だったとしても、あなたはその約束を守るために、全力を費やしたであろう。とりわけ、その約束が、親や先生の顰蹙(ひんしゅく)を買うような類いのものであったなら、その約束を守るために費やした努力はいかほどだったか。
 そうなのだ。約束を守るためには、多かれ少なかれ、努力が必要になる。大人のあなたに即して言うなら、約束を守るためには、出費や労力が必要になるのだ。前項の「あいさつを惜しまない」を念頭に置くなら、ここでも「損」が求められる。
 友との待ち合わせの時間を守るためには、折角の休日に早起きする。あるいは、楽しく見ていたテレビのスイッチを切る。タクシー代を奮発する。といった「損」が発生する。
 これらの「損」を惜しむなら、あなたは約束を守れない。約束を守れないと、友はあなたを信頼しなくなる。もう、あなたとは約束をしなくなるかも知れない。あなたは、わずかな「損」を惜しんで、友との関係を損なってしまうのだ。ゆくゆくは友と呼ぶべき人を持たない、さみしい人生しか待っていないかも知れなくなる。
 だが、それは言わば「実利」の面での話に過ぎない。
「実利」の面を離れてみよう。約束を守ろうとする自分と、約束を守らない自分と、あなた自身はどちらが好きだろうか。
 後者を選んだ人は、つまり、約束を守らない自分を好む人は、これ以上読むことをおすすめしない。お代はお返ししよう。(冗談である、お代はいただいていない。)
 約束を守らない自分を好む人に聞きたい。あなたは約束を守らない他者を好むのか。あなたとの待ち合わせをすっぽかして、誰か他の人と遊びに行ったりする人を、あなたは友として信頼できるのか。
 そうなのだ。約束を守るか守らないか、ということは、自分ひとりだけのことではありえない。そこには他者との関係、やや大げさに言うなら、社会的関係の問題がある。
 つまり、約束を守らないということは、友人を失なうにとどまらず。社会全体を少しずつ傷付けるのだ。
 約束を守らない人ばかりの社会を想像してみよう。物の流通は滞り、商店や会社はいつ開くのか分からない。水道や電気など社会のインフラはストップする。ごみはあふれ、交通事故は頻発し、病気になっても頼るべき機関はない。およそ、社会は成立しないだろう。
 そう、約束を守るひとたちが社会の大部分を占めるからこそ、社会は円滑に動いてゆくのである。

 少し、話が広がり過ぎたかも知れない。
 身近な範囲に話を戻そう。
 約束をちゃんと守ろうとするなら、多少の「損」は避けられない。その「損」を引き受ける覚悟が必要ということだ。そこまでは同意していただけるだろう。
 だが、不覚にして、あるいは不幸にして、約束を守れなかったらどうしたらいいのか。下手な言い訳などせず、素直に謝るしかないのである。
 謝るということにもエネルギーが要る。それは相手にある程度へりくだることだからだ。誰しもへりくだりたくはない。それをあえてへりくだる度量を、あなたは持たねばならない。このへりくだるということも一種の「損」である。
 だが、約束を忠実に守ろうとするお人好しのあなたのことである。約束を守るためのやや大きな「損」を引き受けておきながら、約束を守れなかったとき、素直に謝ってへりくだることのちっぽけな「損」を引き受けないのは、はなはだ一貫性に欠ける。素直に謝ることが、あなたにとって自然で無理がないのだ。
 素直に謝るあなたに接して、あなたを罵倒したり、居丈高に振る舞うような相手であるなら、あなたはその友との交流をやめればよい。
 約束を守ろうとして、たとえばタクシーで駆け付けたあなたの努力を認めないで、いやその状況を利用して、あなたより優位に立とうとするような友は、真の友ではない。そのような友は、あなたとは逆に「得」ばかり求めようとする、お人好しを食い物にする社会の害虫に他ならない。害虫と付き合えば、いずれろくでもないことに巻き込まれるに決まっているのである。

 ひるがえって言うなら、約束を守る気持ちはあるにはあったが、のほほんと振る舞い、約束を守るための努力を怠っていたのなら、謝って許してもらえなくとも文句は言えないことになる。
 約束を守るためには、出費や労力を惜しまない。そして、それでもなお約束を守れなかったら、誠実に謝ろう。

 その前に大事なことがある。できない約束はしないということだ。約束を求められたとき、ついつい安請け合いしてしまうというのは、よく聞く話だ。しかし、それは、正しいお人好しではない。自分の判断を放棄して人の言いなりになるのは、自分の行動に責任を持とうとしない、無責任な態度である。
 そうやって、守れそうにない約束を安請け合いする人は、約束を守れないことを相手のせいにするに違いない。「だって、断りにくかったんだもん」などとほざくに違いない。
 あなたは、そういう手合いになってはならない。
 お人好しなあなたは、往々にして、人の言いなりになりやすい。そうであっても、守れない約束だけはしてはならない。なぜなら、守れない約束をすることは、相手に迷惑をかけ、ひいては自分の信用を失なう。双方のためにならない行為なのである。

 話を再び広げてみよう。守れない約束をする人たちばかりになったら、社会はどうなるだろうか。頼んだタクシーはいつまでたっても来ず、今日届かなければ困る荷物は届かない。仕事上の会見はすっぽかされ、契約は成立せず、会社は立ち行かなくなる。
 守れない約束をする人ばかりの社会は、約束を守らない人ばかりの社会と同様。混乱に満ちた社会にしかならないだろう。
 守れない約束をしないだけで、あなたはほんの少しだけではあるが、社会に貢献していることになるのだ。お安い御用ではないか。

 ついでだから、もっと話を広げてみよう。

 あなたは小学校の卒業文集に、「どんな苦しいときでもへこたれずにがんばり抜きます」とか「人のため社会のために役立つ大人になれるよう努力します」とか書いていないだろうか。小学校の卒業文集でなくとも、上に類する言葉をどこかで述べた記憶があるのが普通だろう。子供というものは、あるいは青少年というものは、そういうものであるはずだ。
 明確に言葉として表現しなくとも、苦しさに負けず、立派な大人になりたい。そんな風に思った記憶はあるだろう。
 そんな思いは、自分への約束だったはずだ。その約束をあなたは守れているだろうか。守れていないなら、これからでも遅くはない。かつての自分への約束を守るために、今あるいはこの先、何ができるか考えてみよう。そして、少しずつ、かつての約束にふさわしい自分に近づいていくのだ。
 かつての約束は、現在あなたがやっきになっているかも知れない、保身や出世ではない。もっと崇高な、この世の中を住みよい世の中に変えて行く、誰をも蹴落とさない、誰をも救う、気高い約束なのだ。
 その気高い約束を、自分の周りのつまらない大人たちを真似て、捨ててはならない。その約束を捨てないことで、あなたは、つまらない大人ではない、ちょっと素敵な大人になれるはずなのだ。

 あなたが、たとえば修学旅行で広島平和記念公園に行き、慰霊碑の前で、「過ちは 繰返しませぬ」と刻まれた言葉に心を動かされ、「自分も繰り返しません」と約束したことを忘れていないか。
 あなたの大事な父や母が亡くなり、その墓前で、ご先祖様に恥じない人間になります、と誓った約束を忘れていないか。
 それらの約束は、長い時が経っても、「時効」にはならない。法的な契約ではなく、心の契約であるからだ。それらの約束を、直ちにでなくともよい。かたつむりのようでいいから、守る方向に歩んでいこう。そう心掛けるだけで、あなたの人生は変わってくる。そう心掛けるあなたは、もはやただのお人好しではない。

この稿が約束を守ることを強く薦めていても、たとえば沖縄人の「ウチナータイム」など、人に迷惑を掛けないものであるのなら、約束を守らないこと全般を否定しようとする意図を持たないことは言うまでもない。


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