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お人好しのすすめ4(正義を大切に 第一節 嫌われる「正義」という言葉)

第一節 嫌われる「正義」という言葉

 あなたは「正義」という言葉が嫌いかも知れない。「正義」は、押し付けがましかったり、権威をかさに着ていたり、独善的だったりする。そういう「正義」が世の中にはびこっていて、面と向かって誰かを攻撃したり、SNS上で炎上を起こしたりする。「正義」という言葉は、どことなく尊大で、居丈高な、そういう印象を、あなたに与えているかも知れない。
 もしかしたら、お人好しであるあなたは、すでにそういう「正義」の被害者であったかも知れない。そうでなくとも、被害者になりそうで、「正義」を恐れているかも知れない。
 しかし、あなたの印象に残る「正義」、あなたが恐れるような「正義」は、本当の正義ではない。
 第一に、本当の正義は、押し付けがましくはない。押し付けがましい「正義」は、他人を思い通りにしようとする要素を伴なっており、その要素において正義の資格を欠いている。本当の正義は、多くの人が納得でき、多くの人が望む、そういうものでなければならない。殺人者を裁く法の正義は、殺人者にとっては迷惑かも知れないが、殺人者以外のほぼ全員が納得し、望むものである。
 殺人者を逮捕したり、収監したり、裁判にかけたり、という過程で、国家のある種の押し付けがましさが垣間見えることは、ままあるかも知れない。しかし、それらは、国家が国民に委託された正義を執行する上でのわずかな瑕疵(かし)(傷)であって、問題でないとは言わないが、殺人を野放しににするよりはるかにましであることは言うまでもない。
 第二に、本当の正義は、権威をかさに着たものではない。権威をかさに着た「正義」は、自らの責任を権威にゆだねており、その無責任において正義の資格を欠いている。
 お前の練習態度はなっていない、いずれ監督の逆鱗(げきりん)に触れるぞ。そうなったら、おれたちにもとばっちりがくる。だからお前は部をやめろ。という先輩の発言は正義の発言ではない。やめろと命令しながら、その命令の責任を監督に転嫁しており、発言の責任を自ら取ろうとしていない。責任を取ろうとしない言動は、どのようなものであれ、すべて道徳に反しており、当然のこと正義の資格を持たない。
 第三に、本当の正義は、独善的ではありえない。独善的な「正義」は、他人の立場を顧慮しておらず、他人の立場を顧慮しない言動は、すべて不道徳であり、正義の資格を持たない。
 社長のおれの言うことにいちいち逆らうな。社長の言うことが聞けないのは、社員失格だ。首を洗って待っていろ。という発言は、正義ではない。社長と社員という上下関係の中だけで成立するせりふであり(だとしても性質(たち)が悪いが)、上下関係を取り払うと成立しない。上下関係を取り払うと成立しないというのは、道徳に必要な普遍性を欠いているということだ。会社をやめたら効果を失なうような発言に普遍性があるわけがない。
 本当の正義が、以上の要件にかなうものなら、あなたの正義への印象も、一変するであろう。正義は恐れるべきものではなく、むしろ頼り甲斐のあるものと受け止められるであろう。

 ここまで書いてきて、少し不安になった。
 押し付けがましかったり、権威をかさに着ていたり、独善的だったりする、そういう「正義」がはびこっていると書きながら、その実態についてあまりよくは知らないからである。
 そこで、書く手をしばし止めて、勉強してみることにした。
 押し付けがましい正義について考察した書物を何冊か求めて、読んでみたのである。

 一冊目は、山口真一氏著『正義を振りかざす「極端な人」の正体』(光文社新書、二〇二〇年)である。
 経済学者である山口氏の書物の特徴は、表題に示されるように、押し付けがましい正義を振りかざす人々を、「極端な人」として把握するところにある。
 ネット上のでのいわゆる炎上にしても、その炎上を作り出している人たちの数は、見かけほど多くはないらしい。
 ネット上では「極端な人」ほど発信が多い。そうした発信が別の「極端な人」を生み出す。ネット上では非対面なので攻撃しやすい。攻撃的で極端な意見ほど拡散されやすい。だから、少数の人々から発しても、大規模な炎上が起こる。
 そういったことが、統計的に分かっているらしいのだ。
 それに付け加えて山口氏はこう考える。全体の意見の分布が正規分布を示す場合も、その正規分布の中央部の山の辺りに位置する普通の人々は、ネット上で発信しないか、一度発信しても、極端な意見に嫌気がさして撤退してしまうだろう。結果、ネット上の意見分布は、中央の欠けた極端なものになりやすいはずである。
 山口氏は、その考えをアンケート調査で実証しておられる。
 だから、山口氏は、押し付けがましい正義を振り回す人々は、「極端な人」という把握になるわけである。
 そういう「極端な人」にならないためにはどうしたらいいか。その点についても、山口氏は言及を忘れない。
 情報の偏りを知る。自分の「正義感」に敏感になる。自分を客観的に見る。情報から距離を取る。他者を尊重する。
 上の五つに注意すれば、「極端な人」にならないで済む、というのが山口氏の読者への提案である。
 ここで注意するべきなのは、山口氏が取り上げているのは、あくまで「正義感」であり、正義ではないということである。「正義感」というのは、山口氏自身が述べるように「自分が正しく相手が間違っていると思う」(一八七頁)という側面を持つことがままある(常にではない)。だからこそ、「正義感」による場合、「他者を尊重する」ことが必須になるわけである。
 一方、筆者が取り上げようとするのは、正義であり、「正義感」ではない。正義とは、そもそも、自分が正しいと思うことではない。むしろ、自分は正しいのか、と疑うところから正義は始まると言ってもいいのだ。
 ましてや、他者を尊重するという条件を付けないと通らないようなものは、「正義感」(それはたぶんすでにゆがんでいる)ではあっても正義ではありえない。他者を尊重しないものは、端的に不正義であり、正義とは縁のないもである。とりあえず、そう言っておこう。

 二冊目は、安藤俊介氏著『私は正しい―その正義感が怒りにつながる―』(産業編集センター、二〇二一年)である。
 安藤氏は、「日本アンガーマネージメント協会代表理事」という職にある。アンガー(怒り)のマネージメント(制御)に関わる仕事をしておられるらしい。詳しくは承知しないが、心理学畑の専門家と見てよいだろう。
 安藤氏も、山口氏とほぼ同じ問題を取り上げている。
 曰く、「正義が強くなりすぎて息苦しさを感じる人が増えている」(七頁)。あるいは、「ちょっと正義が行き過ぎてやしないかと思えるようなことが多く目につく」(七頁)。ここで安藤氏が危惧しているのは、いわゆる「マスク警察」のような迫害、そして山口氏が集中的に問題視するネット上での炎上など。
 両者の問題意識がほぼ一致するのは、今の社会に現にある問題を見ているのだから、ある意味当然と言ってよい。
 ところで、安藤氏の著作の特徴は、山口氏とほぼ同様の事態に憂慮しながら、それを怒りの問題と関連付けて把握するところにある。
「炎上というのは、誰かが誰かに怒っていることのあらわれなのですが、怒っている側には何らかの正義があります」(八頁)。
 ここで、安藤氏が「正義」と呼んでいるものが、正義ではなく、「正義感」であることは、賢明な読者にはお見通しであろう。
 事実、少し後では、「正義感の強い人は、常に正しさを求めているので、正しくないことを目の当たりにすると、自分の大切にしているものが攻撃されたように思えて、怒りをもって反撃をしている」(二一頁)とも言われるわけである。
 総じて安藤氏の著作は、正義と「正義感」と、両者を明確に区別しない点に、筆者は不満を感じるが、安藤氏も山口氏のように読者に提案を行なっている。安藤氏は、行き過ぎた「正義感」を持つことを放棄するよう、薦めているのである。
「正義感」が強過ぎるのは、安藤氏の言葉によるなら「正義中毒」である。それは、たとえばアルコール中毒のように、自分も周囲も、どちらも不幸にする。だから、強過ぎる「正義感」を放棄して、不幸から脱しよう、というのが安藤氏の読者への提案であることになる。
 その提案の具体的な部分こそ、アンガーマネージメントという独特の見地による、安藤氏の著作の肝なのであろうが、ここでは立ち入らない。
 読者に注意を促しておきたいのは、安藤氏の著作においても、問題とされているのは、正義ではなく、「正義感」でしかないということである。正義が怒りを伴なうこともあるかも知れないが、怒りが前面に出てくるとき、正義は遠のき、(たぶん誤った)「正義感」しか残っていないだろう。

 三冊目は、中野信子(監修)、サイドランチ(シナリオ)、川井いね子(作画)『まんがでわかる正義中毒―人は、なぜ他人を許せないのか―』(アスコム、二〇二一年)である。
 漫画という形式を取っているため、シナリオと作画のスタッフが参加しているが、この書物の著者は、脳科学者の中野氏で間違いない。
 中野氏も、安藤氏に倣(なら)って(安藤氏の書物の方が、中野氏の書物より半年以上前に出版されている)「正義中毒」という言葉を、書物の中心に据えている。「罰する対象を常に探し求め、決して人を許せない〔……〕こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば『正義中毒』と呼ぼうと思います」(一一頁)と言うのだ。
 この「正義中毒」という言葉は、安藤氏の「正義中毒」と、ほぼ同様の意味であろう。
 正義と「正義感」との区別があいまいな点も、安藤氏の著作と同様である。「正義が一つしかないという前提があるために、彼らの言説は、議論に昇華する余地を持たない」(一〇二頁)というのも、押し付けがましい、独善的な「正義感」にこそ、よく当てはまる。
 正義が一つしかないかどうかは議論の余地があるが、「正義感」が人により様々であるのは自明であり、その自明性を、中野氏の上の発言は前提しているように思われる。様々である「正義感」を、自分の「正義感」だけ正しいと感ずるのが問題の根源だ、と中野氏は言いたいわけである。
 全体として、中野氏の著作の問題意識は、安藤氏の著作と、さほど変わらないように見える。
 脳科学者である中野氏の本領は、押し付けがましい「正義感」には、脳科学的な理由があると指摘することに発揮されている。「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢(ちゅうすう)が刺激され、快楽物質である『ドーパミン』が放出されます」(一一頁)というのだ。
 本当にそうであるなら、中野氏が取り上げている問題の解決は、容易ではないことになる。
 「老人が相手に有無を言わせず、自分の倫理だけを信じて、直情径行的に行動してしまうのは、前頭前野の背外(はいがい)側(そく)前頭(ぜんとう)前野(ぜんや)が衰えているからかもしれません」(一四七頁)という記述も、すでに七〇歳を越えた筆者には気になるところである。
(だたし、ここでも中野氏は、倫理と「倫理観」を区別していないきらいがある。)

 たった三冊だけ読んでみても、確定的なことは言えないわけだが、おおむね、「正義」という言葉が嫌われる理由は、誤った「正義感」と正義とが混同されているため、と判断してよさそうだ。そうであるなら、あなたが嫌ったり、恐れたりする正義は、誤った「正義感」に過ぎないことになる。本当の正義を、嫌ったり、恐れたりする理由はないのだ。


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