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続・ゴキブリ教授のエプロン17(sustainable)

 最近、テレビなどで「サステナブル」という言葉をよく耳にするうようになった。SDGs(sustainable Development Goals〔持続可能な開発目標〕)のsustainableであろう。
 だが、この語は、サステイン(sustain〔səstéɪn〕)の形容詞化した語なので、サステイナブル〔səstéɪnəbəl〕と発音すべき語である。しかも、テレビなどで聞く「サステナブル」は、日本語特有の平板アクセントになっており、サステインの「テ」のアクセントがほぼ無視されている。そういう「サステナブル」は、二重に英語からずれているのだ。
 これは、重箱の隅ではない。「テレビ」が英語でないことは、誰でも知っている。「スマホ」が英語でないことも、誰でも知っている。英語圏のドラマなど見ていると、テレビはティーヴィ―(TV)〔テレビジョン(television)の略〕と言われることが多い。スマホはモバイル〔モバイル・フォン(mobile phone)の略〕と言われることが多い。「テレビ」や「スマホ」は、英語ではなく、日本語として通用しているのであり、そのことは皆さんご存じなのである。
 ところが、「サステナブル」はいかにも正真正銘の英語のようではないか。
 日本語なまりの英語を恥じる必要なない、という声が聞こえてきそうである。日本語なまりの英語で通す覚悟があるなら、文句はない。
 ところが、昨今のわが国の風潮は、読み書き中心の英語では駄目で、しゃべれる英語でなければいけない、という方向に流れている。文部科学省の方針もそうであり、それはしゃべれる英語でなければ、という世論の反映だと思われる。
 だが、しゃべれる英語とは何か。ネイティブ・スピーカーのようにいかないまでも、日本語なまりの英語ではいけない、というニュアンスが明らかに感じられるのである。
 そうした昨今の風潮には、「ジス・イズ・ア・ペン」などという英語は学ぶ必要がない(「これはペンです」など、見れば分かることを説明する文を学んでも無駄である)というこれまでの英語教育に対する批判があるだろう。また「ジス」などという発音もなっていない、という批判もあるだろう。
 そうした昨今の新しい(と言われる)英語教育の目標は、やはり、ネイティブ・スピーカーのようにいかないまでも、日本語なまりの英語ではいけない、という意識を含むように思われるのである。
 そうであるならば、「サステナブル」は容認できないのではないか。昨今の風潮に反するのではないか、と心配せざるを得ないのである。
 誤解されそうなので、あわてて付け加えるが、筆者は、日本人が日本語なまりの英語を苦労してまで脱する必要はない、と考える者である。「ジス・イズ・ア・ペン」でも学ぶ価値はあると考えている。「ジス・イズ・ア・ペン」でも、SVCという英語の文の基本形のひとつを知るためには役に立つ。そのままでは通用しないかも知れないが、それは通用させるべきときが来た人が、学び直せば直ちに越えられる低いハードルである。
 逆にSVCやSVOなどの英語の基本形の知識を欠いたままで、日常会話を流暢にしゃべれるようになったとしても、その人の英語は、ネイティブを絶対に越えられない。そんな英語教育にどれほどの意味があるのか。
 我田引水になってしまうが、筆者は、英語もドイツ語もほとんどしゃべれない。しかし、英語の文献やドイツ語の文献は、一応読むことができる。たぶん、普通のネイティブな人には読めないような、古い英語も苦にしないし、ドイツ語のひげ文字(古い文字)も苦にしない。筆者にとって外国語は、外国の学問を正確に知るための道具なので、しゃべる必要はないのである。筆者には留学経験がないので、こうなのだが、留学経験があれば、ある程度しゃべれるようになったはずである。
 筆者のいびつな語学力は自慢するほどのものではないが、中学などで英語の基本形を学んでいたからこそ、何とかなったことは確かである。昨今のしゃべれることを目標にした英語教育を受けていたら、ここまでくるのにどれほどの苦労を要したか分からない。
 筆者のような英語教育の門外漢が言うことには説得力がないだろう。そこで、英語や英語教育に詳しい専門家の意見を引いてみよう。鈴木孝夫氏の『ことばの人間学』にはこう書いてある。「中学・高校の英語教育は、一般的に言って英語を死語として教えることが、かえって実際的だと思います。」ここで死語というのは、たとえば古代ギリシャ語やラテン語のような言葉を指している。しゃべれる言語である必要はなく、日本語と異なる言語の体系を学ぶことこそ重要なのだ、と述べておられるのだ。鈴木氏によれば、実用的な英語は、もっとあとから、大学などで学べばいいのである。
 そこで、最初に戻るが、「サステナブル」は、昨今求められているしゃべれる英語という理念から逸脱している。「テレビ」や「スマホ」と同じにしか聞こえないのだ。ならば、「サステナブル」とか、正真正銘の英語のふりをやめて、「サステな」とか言ったらどうか。
 

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