ゴキブリ教授

続・ゴキブリ教授のエプロン2(餃子が焼けない)


 台所にしばしば出没するから「ゴキブリ教授」を自称しているのだが、この語感は、若い人には通用しないようだ。年配の人でないと知らないみたいだが、「ゴキブリ亭主」という言葉があり、本来男が入らないはずの台所に頻繁に入り、料理にいそしむ亭主のことを指す。
 数十年前の価値観では、台所で料理をするのはもっぱら女の仕事であり、台所は女の独擅場であった。「男子厨房に入らず」などとも言い、男は台所に入ってはならず、台所にちょこまか入るだけで、男らしくない。あまつさえ、料理にいそしんだりするのは、男の役割に専念できない駄目亭主である、とされていたのである。「ゴキブリ亭主」というのは、そういう駄目亭主を軽侮する言葉であった。
 若い人は、「ゴキブリ亭主」という言葉になじみがないらしい。試しにネットで検索してみると、「皆から嫌われる昆虫であるゴキブリと同様、皆から嫌われる亭主」などという解釈が出ていたりして、唖然とする。この解釈では、台所との関連が失なわれていて、まったく見当違いである。あるいは、「夜中に台所で食べ物を探す亭主」という解釈もあり、この解釈では、台所との関連は維持されているが、料理との関連が失なわれており、見当違いである。
 共働きが増え、家事を女性にだけ押し付けることが困難になるにしたがい、「ゴキブリ亭主」という言葉の背景が変わったために、この言葉は使われなくなってきたのだろう。台所に立つ男性は増えているようだ。
 とは言え、台所に立つ男性が増えても、多くの家庭では、台所に男性が立つのはイレギュラーであり、あくまで、たまのことのようではある。それが証拠に、昨今でも、味の素のテレビコマーシャルで、もっぱら妻が台所に立ち、夫は台所仕事にタッチしない共働き家庭の映像が流れて、問題になっている。かつては、「私作る人、僕食べる人」という、もっと身も蓋もない、ハウス食品工業のテレビコマーシャルが問題になった例もある。
 だから、「ゴキブリ亭主」という言葉はなくなっても、案外、言葉の背景はさほど変わっていないのではないか。人気テレビアニメ「サザエさん」は、原作者長谷川町子の活躍した数十年前を念頭に作られていて、もともと時代遅れをいとわない作りであるとは言え、料理がもっぱらサザエさんと母フネの仕事となっているあたり、台所仕事は女の仕事という観念が、まだ生き延びているしるしのように見える。
 であるなら、「ゴキブリ教授」という著者の自称にも、なにほどかの存在理由があると思いたい。

 前置きが長くなってしまった。台所仕事の負担などをめぐる、男女の間の問題については、別途触れる機会があるだろう。ここで問題にしたいのはそのことではない。もっともっと、はるかに些末な問題なのである。

 ゴキブリ教授の台所では、最近ガステーブルを交換した。このガステーブルが腹立たしい代物なのである。
 このガステーブルの設計思想は安全第一ということ。それはそれでよい。問題は、この安全確保の基幹に温度センサーがあり、その温度センサーが鍋やフライパンなどの調理器具をセットしないと作動しない点にある。
 つまり、このガステーブルは空焚きができない。鍋をかけないで火を付けようとしても付かない。鍋をかけないで空焚きを長時間続けることは危険なので、このガステーブルは未然にその危険を防いでいるわけである。
 それはよい。しかし、それは、鍋なしで火を使おうとしても、原則それはできないということになる。たとえば、海苔を焼こうととすると、ハタと困るわけである。
 そこら辺は、設計者も分かっているのだろう。Aという設定変更をすることで、空焚きが可能なようになってはいる。なってはいるが、その空焚き可能への設定変更の操作が、必ずしも簡単とは言えない。この点にまずイラつく。
 料理は、複数の工程を同時並行的にこなしてゆくことが多い。ポテトサラダを作りながら、スパゲッティ・ミートソースを作るとしよう。ポテトサラダのために、じゃがいもをゆで、玉子をゆで、キュウリなどに塩を振っておく。一方で、スパゲッティをゆで、めんどうなソースを作らねばならない。じゃがいも、玉子、スパゲッティ、ソースの四つにつきそれぞれ熱源が必要なので、三つ口コンロのガステーブルでこれらを行なうには、緻密な計画性と手際の良さが必要になる。のんびりしている暇などない。料理をするというのは、かなりせわしない営みなのである。
 そうしたせわしない営みの中で、ガステーブルの設定変更に手間を取られるのは、たとえて言うと、火事場でていねいな時候のあいさつを強いられるようなもので、マッチしない。なじめない。このガステーブルに換えてから、ゴキブリ教授教授のイラつきは確実に増加したのである。
 このガステーブルでホワイトソースを作るとする。バターを温め小麦粉を入れてかき混ぜる。様子を見ながら牛乳を少し注ぐ。固まって均一になってきたら、さらに牛乳を入れかき混ぜる。ということを繰り返しながら、好みの固さになるまで牛乳でゆるめていく。あせって、一気に牛乳を入れたりすると、均一にならず、いわゆるダマになってしまい、失敗である。この失敗は、鍋の温度が一気に下がってしまうために発生する。じゃあ、鍋の温度が高ければいいのかと言えば、高過ぎれば焦げてしまうだろう。
 ソースの固さを均一にするための、かき混ぜる動作と、牛乳を入れた後の鍋の温度の上昇と、両者がちょうどいい具合に進行しないと、この調理は成功しないのである。だから、鍋の温度の調整が重要なのであるが、火力ツマミを動かすことで、鍋の温度を素早く調整するのは困難なので、温度が上がり過ぎそうと見れば、鍋をいったんコンロからはずす、という動作が必要になる。
 ところがである。このガステーブルは空焚きを許さない。だから、鍋をコンロからはずすと火が消えてしまう、としたら誰しも腹が立つだろう(たぶん)。
 そこで、このガステーブルは、鍋をコンロからはずすと火が弱まるようプログラムされている。最初に鍋をかけて火を付ければ、あとから鍋をはずしても火は消えないわけである。そうして、再び鍋をセットすると火が強まる。そこまではいい。しかし、再び鍋をセットして火が強まるまでがとても遅い。と言うか、とても遅く感じる。測ったことはないが、二秒ぐらいであろうか。この二秒ぐらいを待てないのが普通の調理人なのである(たぶん)。
 実は、こうした事態を避ける方法はある。上述したAという設定変更をあらかじめしておけば、鍋をコンロからはずしても火は弱まらないのである。しかし、調理の途中でそのことに気付いて設定変更するのは、すごろくで言うと、振り出しに戻るということなので、とても嫌なのだ。
 まとめよう。ゴキブリ教授にとって、このガステーブルが悩ましいのは、空焚きが原則できないために、調理の工程で空焚きを必要とする場合、あらかじめ設定変更を行なわねばならないのだが、その設定変更がめんどうである。あらかじめの設定変更を忘れていて、調理の途中で設定変更を行なうのは、もっと嫌だ。ということである。
 悪いのは、ゴキブリ教授なのか、ガステーブルなのか。読者の判定はいかがであろうか。
 設定変更さえ面倒がらずにちゃんとやればいいではないか、悪いのはゴキブリ教授だと言いたいであろう。しかし、この話にはまだまだ続きがあるのだ。
 このガステーブルは焦がす料理が苦手である。温度センサーの機能を生かして、温度が上がり過ぎないようになっており、焦げそうになると勝手に火力が弱まってしまうのである。
 適度な焦げ目が付いた方が旨い料理は、数多くある。代表選手が餃子であるが、このガステーブルで餃子を焼くと、最後の焦げ目を付ける段階で、温度センサーが働いて、勝手に火力が弱まってしまい、焦げ目が付かないのである。これは嫌だろう。この難点をクリアする方法は、設計には組み込まれていない。件のAという設定変更をすると、いくらかマシにはなるようだ。だが、あらかじめ設定変更してあっても、油断していると、知らないうちに火力が弱まっていることがある。つまり、このガステーブルは、焦がす料理という想定がなされておらず、焦がすのが難しい道具なのだ。うまく餃子が焼けない代物なのである。これが嫌でない人はいまい(たぶん)。
 些末なことを長々と述べてしまったが、実はこのガステーブルについては、まだまだ不満がある。無操作で長時間放置すると勝手に火が消えてしまうので、とろ火で長く煮込む料理がしにくい。火力の調節が不連続にしかできず(デジタル処理の刻みが粗いため)ちょうどいい火加減が作りにくい。例外的な操作、たとえば火の付いているコンロから鍋をはずすなどすると、警告音が鳴りうるさい(間違ったことをしたわけでもないのに叱られた気分になる)。常に電気を使うため電池の消耗が激しく、それを防ぐためだろう、三分以上操作しないと電源がオフになってしまうので、調理中に何度も電源をオンにせねばならない。焦がすことを避けようとする傾向が強く、魚を焼くグリルの火力が弱いので、適度に焦げた焼き魚ができない。などなど。
 一つ一つは些末な欠点に過ぎないが、これらが全部集まると、とても使いにくい。このガステーブルをプロの調理人が使わねばならないとしたら、気が狂うのではないか。ゴキブリ教授も、このガステーブルを導入した直後は気が狂いそうになり、二〇万円近い導入コストを捨てて(いわゆるサンクコストを捨てて〔元を取ろうとするとかえって損するという経済学の教えにより〕)以前に使っていたようなシンプルなガステーブルに再変更することを企図した。
 ところが、調べてみると、ビルトイン型のガステーブルの世界では、教授が期待するような、温度センサーを用いないシンプルな商品はすでに時代遅れになっており、市場に存在しないことが判明してしまったのである。だから、教授の悩みを解消する方法は、通常ないことになる。(お金をたくさんかければあるだろうが、教授にはお金がない。)あきらめるしかないのである。
 これが時代の進歩というものなのか。それでいいのか。ゴキブリ教授が直面する悩みは、時代遅れの老人のグチに過ぎないのか。新しいガステーブルに慣れていくことが、家庭の料理人として望ましい道なのか。

 『社会契約論』でおなじみのルソーは、徒弟奉公していたときにジュネーブの町を出奔し、以後、貴族の婦人をパトロンとし、浮草のような生活を送った。一種の不良少年だったと言ってよい。そうした彼が身を立てるきっかけになった『学問芸術論』の骨子は、学問や芸術の進歩が人間をかえって駄目にしている、というものだった。
 ルソーの主張は、道徳に関わるものであるが、少し敷衍するなら、ゴキブリ教授が直面する悩みとも無縁ではない。道具の進歩は、場合によっては、人間の技量の退化を伴なう。それでよいか、という問題があるのだ。
 オートマチック車が普及して、多くの人がオートマチック車しか運転できなくなるのは、ある種、人間の技量の退化である。しかし、それは通常問題ではない。なぜなら、多くの人にとって、オートマチック車に乗るのと、マニュアル車に乗るのと、もたらす結果が同等だからである。一部の職業的ドライバーにとってはそうではない。結果が違う。だからこそ、彼らは高い技術を保持して、マニュアル車を運転するのである。
 ガスコンロが普及すれば、かまどを使う技術は退化する。それも、通常問題ではない。ガスコンロによる調理と、かまどによる調理と、もたらす結果が同等であるなら、ガスコンロがかまどを駆逐しても、何の問題もない。
 ゴキブリ教授のガステーブルはどうだろう。古いガステーブルと新しいガステーブルと、両者による調理の結果が同等になるのであれば、問題ない。しかし、(焦げた)餃子が焼けないのである。さすれば、両者の結果は同等ではない。新しいガステーブルが古いガステーブルを駆逐すると、それは問題の多い退化をもたらすことになるのである。ほとんどの家庭で(焦げた)餃子が作れなくなるからだ。それは由々しい家庭料理技術の後退だろう。
 新しいガステーブルに慣れるとすると、ゴキブリ教授のレパートリーは減るに違いない。それは、料理をする幸福から遠ざかる道でしかない。

 やや、大げさになってしまったかも知れない。。ゴキブリ教授を悩ます新しいガステーブルは、たぶん完成度が低いだけなのであろう。温度センサーで安全を確保する基本はそのままに、必要に応じて温度センサーをスルーできるようにすれば、使いにくさは確実に減る。(件のA設定によっても温度センサーはスルーできない。)
 その他の不備にしても、簡単に改良可能であろう。長時間放置すると勝手に火が消えてしまうのは、この機能をオフにできればそれでよい。火力の調節についてもデジタルの刻みを細かくすればよい。警報音もオフにできればよい。などなど。すべて簡単に改良できるはずである。
 ただ、危惧されるのは、こうした改良がなされる見込みがあるかどうかと問えば、たぶんないだろうということである。ゴキブリ教授を悩ますこのガステーブル、と言うよりも、現在市場にあるビルトイン型のすべてのガステーブルと言うべきだろうが、それらの設計者の頭に、料理という仕事のあれこれが分かっていないらしいからである。
 料理には、餃子のように、焦がすべき場合があることを、これらガステーブルの設計者は認識していない。火力の調節の刻みが粗いのも、たとえば、吹きこぼれない範囲で最大の火力にしたいという料理上の要求があるということを、認識しないから平気なのである。
 これらの設計者は、串を打って鮎を焼くとか、二時間以上煮込む牛すね肉のシチューとか、イメージしていないだろう。設計思想が貧しいために、料理の技量を台無しにするような製品を作ってかえりみない仕儀に陥っているのだ。

 このように考えてくると、ゴキブリ教授の悩みは無視されてよいものではない。のみならず、わが国の家庭料理の将来についても、安閑とはしていられないのである。

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