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続・ゴキブリ教授のエプロン18(しめさば)

 しめさばに、思い入れがある。
 大学院博士課程とオーバー・ドクターを合わせて九年間も無業者の時代があった(最初の何年かは学習塾の講師をしていたが、博士論文を書くためにやめた。やがて、博士の学位を取ると、学習塾の講師の口がなくなっていた)。妻(会社員)と幼い娘との三人暮らしは、それなりに楽しいものではあったが、極度の貧乏でもあった。そういう赤貧生活の中で、筆者は料理の腕を上げ、色々工夫して、食生活の楽しみを確保するよう、努力していた。牛すね肉のシチューや、東坡肉(トンポ―ロー)(豚の三枚肉を蒸して、油で揚げ、煮込んだ料理)など、手間はかかるが材料費の安い料理をつとめて作っていた。
 それら料理の中で、しめさばは、さして手間もかからず、便利なメニューであった。寿司屋から寿司を取る金がないので、さばを一本買ってきてしめさばを作り、寿司めしを握ってさば寿司をたくさん作り、自分と妻と娘の三人で食べて全員満足した、というなつかしい思い出もある。
 ところが、いつからだったろう。もう十年以上前からかも知れない。魚屋やスーパー・マーケットで売られるさばに「加熱用」とか「煮付け用」とか、注意書きが添えられるようになったのである。「生で食べるな」という意味である。切り身のさばの話をしているのではない。どう見ても新鮮そのものの一本売りのさばである。
 生のさばを食べると、ままアニサキスという寄生虫の生きたやつが消化管に入ってあばれ、七転八倒の苦しみを招くことはよく知られている。そのアニサキス中毒を防止するためには、さばを生で食べないことが万全の策であることは子供でも分かる。
 筆者は、「加熱用」と書かれたさばは、しめさばにはならないんだな、と何となく受け入れて、一本売りの新鮮なさばを見つけても、手を出さないでいた。
 だが、アニサキスは、さばだけに寄生するわけではない。(今、確認のために調べてみると、アジ、サンマ、カツオ、イワシ、サケ、などなどにも寄生するらしい。)サバだけ生で食べるなというのは、おかしいのではないか。料理屋では平気でしめさばを出しているのも、何だか不公平ではないか。だんだんそう思うようになってきた。それくらい、しめさばに未練があったのである。
 そんな七、八年前のある日、あるマーケットの魚売り場に一本売りの新鮮なさばがあった。例のごとく「加熱用」のただし書きが添えられている。対面の売り場だったので、若い魚屋さんに質問してみた。「これしめさばで食べたら駄目なんですか」。その魚屋さんは、少し顔なじみだったこともあるだろう、適切なアドバイスをしてくれたのである。「いったん完全に冷凍して下さい。それを解凍してから、しめれば大丈夫ですよ。」なるほど。いったん冷凍してアニサキスが死ぬのを待ってからなら、生で食べてもいいわけだ。
 その日さばを買って帰り、冷凍したことは言うまでない。
 以来、わが家のメニューにしめさばが復活した。一本四〇〇円のさばが、四人前のしめさばになる。一人前一〇〇円の御馳走である。一本売りのさばを見かけることはあまりないが、みかけたら必ず買うようにしている。

 念のために申し添えるが、一本売りのさばを買ってきて、そのまま冷凍してはならない。解凍したら、えらいことになるであろう(やってみたことがないので、よくは分からないが)。一本売りのさばを買って来たら、間髪を入れずに三枚におろす。腹骨もそぎ取って、出来上がった上身二枚を、一枚ずつラップにくるんで冷凍するのである。

 ついでに付け加えると、解凍したさばは、たっぷりの塩で締めたあと、酢(砂糖と塩を加えたもの)に三〇分程度漬け、酢水で洗い、水気を拭き取って、皮をはぎ、血合い骨を必ず抜いてほしい(専用の道具がないとむずかしい)。この血合い骨を除かないと、子供などには危険で食べさせられない。

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