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続・ゴキブリ教授のエプロン19(ふるさと納税の奇形性)

「ふるさと納税」という変てこな制度ができて、もう十数年になるらしい。近年では、「ふるさと納税」の返礼品を紹介する宣伝が盛んに行なわれており、これを利用しない者は時代遅れになってしまったようだ。
 その時代遅れのひとりが筆者である。
 最初からこの制度には違和感があった。本来、住民税というものは、その人が住む自治体に納められるべきものである。なぜなら、住民税は、その人が住む自治体が提供する、教育、水道事業、道路整備など、その人のために使われる経費をまかなう原資であるからだ。住民税を支払うのは、言わば、自分のために支払うようなものなのだ。
 ところが、「ふるさと納税」という制度は、その人が住む自治体に納入されるべき住民税を(限られた一部ではあるが)、その人が望む任意の自治体に寄付できる、という制度である。これは、住民税のあり方の根幹をゆるがす要素をはらんでいる。
 田舎から都会に出て働いている人が、自分の文字通りのふるさとに寄付するのなら、まだいい。それは、財政の豊かな都会から、財政の貧しい田舎への税の移転という効果を持つからだ(もともと、貧しい田舎を救うために地方交付税というものがあり、それに代わるほどの効果はないだろう)。納税者の納税意欲を高める効果もあるかも知れない。
 ところが、「ふるさと納税」を利用する人々の大部分は、どうやら、自分の寄付に対する返礼品目当てでこの制度を利用しているようだ。どうせ住民税として取られるのなら、(その一部でも)返礼品として回収したい、という欲が透けて見える。だからこそ、どの自治体にどの返礼品があるか、というリストが出回ったりすることになるのだ。
 制度に合わせて、自治体も工夫せざるを得ない。返礼品をあれこれ用意して、寄付が集まるよう、人員や労力を投入せねばならなくなった。その人員や労力は、「ふるさと納税」がなかったなら不要だったはずであり、筆者に言わせれば無駄遣いである。
 それだけではない。返礼品をあれこれ用意して寄付を集めるという行為は、自治体という行政機関がなすべき性格のものではない。返礼品を寄付金に換えるというのは、商業者が商品を貨幣に換える、つまり販売に限りなく近い。かくして、自治体間での返礼品競争、寄付争奪戦が繰り広げられているのが、現状である。
 自治体に限らず、行政というものは、金次第で動いてはならない性格のものである。市場社会では、大方の物事が金次第で動いていく。その欠陥を、(部分的にではあれ)是正するのが行政の重要な役割なのだ。
 金目当ての自由競争を奨励したとされるアダム・スミスも、防衛、司法、教育、公共事業などは、自由競争まかせにしてはならない、と述べている(スミスの自由主義は、当時の重商主義独占に対抗するという役割があったので、何から何まで自由競争でいい、という単純なものであるはずがない)。
 それはともかく。
 自治体に働く人々の多くは、販売に従事するために自治体に奉職したのではないだろう。住民のために奉仕したい、と思って奉職したはずである。それが、「ふるさと納税」という奇形的な制度のために、販売への従事を余儀なくされている。かわいそうではないか。(販売業を蔑んでいるわけではもちろんない。)
「ふるさと納税」で高価な返礼品をもらって悦に入っている人に言いたい。その品が是非とも欲しいなら、あなたが住む自治体に納入されるべき住民税(の一部)を充てるのではなく、あなたの財布から支払えばいいのである。

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