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続・ゴキブリ教授のエプロン12(言葉に埋め込まれた男女差別)

 平野卿子さんの『女ことばってなんなのかしら?』(河出新書)という本を読んだ。男女の言葉の違いに、男女差別が埋め込まれている、というのがこの本の大意である。
 たとえば、女ことばでは悪態がつけない、という指摘がある。私が補足的に言うなら「てめえ、どこに目をつけてやがるんだ、馬鹿野郎」とか。「お前、おれの言うことが聞けねえってえのか、なら出て行きやがれ」とか。同じようには女ことばでは言いようがない、というわけだ。
 もっと驚くべき指摘もある。日本語には人称代名詞がない、というのだ。昔、中学の英語の授業で英語の「I」は1人称代名詞で、日本語の「わたし」に相当する、と習った。(今でもそうであろう。)
 英語などの人称代名詞には形容詞は付かない。ところが、平野さんの書くには「のんきなわたし」とか「すてきなあなた」というように、日本語の「わたし」や「あなた」には形容詞が付いて構わない。英語の「I」や「you」と、日本語の「わたし」や「あなた」とは、文法上同じではないわけだ。
 そして、日本語の「1人称代名詞」と言われている言葉には、性的な区別が著しいという。男言葉なら、「僕」「おれ」「自分」「小生」「吾輩」などの多くのバリエーションがある。ところが、女ことばには、そうしたバリエーションはほとんどない。
 なぜ、そうなのか。平野さんの推測では、「女にとって自分を主張する機会が少なかったことと無関係ではない」。
 この本には他にも数々の有益な発見がある。是非、若い人たちに読んでもらいたい。
 
 この本を読みながら、そう言えばと思い出したことがある。スクラップ・ブックを繰ってみると、1992年12月24日の日本経済新聞に、社会学者の江原由美子さんの説が掲載されていた。
 江原さんの説は、男女がまじりあって議論していると、とかく女性の意見が最後まで聞かれず、男性が割り込んできてしまう。そのために女性の意見は、往々にして尊重されない、というものだ。江原さんによると、そうした男女差別は、男女の話し方の差異によるものだという。しかも、そうした差異は、日本だけではなく、アメリカにもあるらしい。
 平野さんの本では、もっぱら日本語という言葉について、そこに男女差別が埋め込まれている、と指摘されている。だが、問題は、言葉だけではない。話し方という言葉の運用にも、男女差別は埋め込まれている。
 いや、たぶん、言葉や言葉の運用だけではないだろう。われわれの生活を取り巻く広い意味での制度のそこかしこに、男女差別は埋め込まれている。自称フェミニスト(男女同権主義者)である私もまた、無意識のうちに、そうした男女差別を再生産しているのかも知れない。

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