続・ゴキブリ教授のエプロン4(子供は親の傑作?)
自分の子供が「自分の生涯の傑作だ」という趣旨の発言をする人がいる。この発言には根本的な誤解が含まれているように思われる。
「傑作」というのは、自分の構想、自分の技術、自分の努力、等々によって、作り上げた作品のうち、自他ともに認める上出来のものを指す。子供が「傑作」という発言は、上の後段にのみ掛かっている。この後段だけでよいのなら、多くの人にとって、子供はある種の傑作であるに違いない。
歳を重ねてわが身を振り返れば、自分の作品と言えるものは多くない。いわゆる「業績」を職業上求められてきたゴキブリ教授の場合も、もともと作品数が少ないし、その中に傑作があるかと問われれば、首を横に振らざるをえない。
「業績」を求められない職業の場合、あるいは「業績」が組織の「業績」としてしか把握されないような職業の場合であれば、そもそも自分だけの作品はないだろう。したがって、自分の「傑作」もないことになる。
これはさみしい。だが、もう一度よく振り返ってみるなら、子供があるではないか、ということになるのは、ある意味自然ではある。子供は、とてもよくできている。親の自分から見て、愛するに足る存在であるのは言うまでもない。そして、多くの場合、子供はそれ以上の存在である。すでに働いているとすれば、仕事を通じて社会に貢献している。いずれは働いて、社会に貢献するだろう。
それだけではない。子供はやがて結婚し、自分の子供を持つだろう。そうした子供の子供たちの中には、文字通りの「傑作」を生み出したり、「傑作」とは無縁であっても人類に飛び切りの貢献をなす者が出る可能性は高いのである。
だから、歳を重ねて先が見えてきたとき、子供こそ「生涯の傑作」だと思いたくなるのは、当然なのだ。だが、あらかじめ指摘しておいたように。子供は、「傑作」と呼ぶための条件に欠けている。自分の構想、自分の技術、自分の努力、等々によって、作った作品ではないからだ。子供が生まれるのは、自分の責任かも知れないが、子供がそのような姿で、そのような能力で、そのような可能性を携えて生まれて来るのは、自分の関与しえないところである。
それは、言うならば、神の業であり、あるいは自然の造形である。だから、それは決して自分の「傑作」ではない。自分を超えた大いなるものの「傑作」なのである。
自分の子供を自慢に思い、誇りたくなるのは、ある意味止むを得ない。だが、それを自分の「傑作」などと、思い上がって口にするのは、身の程知らずというものであろう。
「傑作」のようにしか見えないわが子を授けてくれた、大いなるものに感謝することこそ肝要なのである。
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