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ダイバーシティとマインドフルネス

昔よく学校の先生が口にしたフレーズで、妙に違和感があったものがありました。

「この世の中には、あなたたちより不自由な人たち、健康すら手に入らない人たちがたくさんいます。それに比べれば自分は健康に恵まれているんだから頑張らなければ。自分の境遇に感謝して生きなさい。」
 
小学生の私にはこれに違和感があり、心の中に入ってきませんでした。当時はモヤモヤしただけでしたが、大人になり経験を積んだ今は言語化して理解できるような気がします。
 
言葉をちょっと入れ替えてみると、言っていることがおかしいことにすぐ気づくのです。命題の述語を逆にし、接続詞も逆にしてつなげると、同じ意味の結論を逆の言葉で表現することが出来ます。このことを数学では「対偶」といいます。
 
「この世の中には、あなたたちより遥かに自由な人たち、富も名誉も権力も手に入れて、何でも自由にできる人がいます。それに比べればあなたたちはみじめで頑張っても無駄。自分の親を呪って生きなさい。」

違和感の正体は比較と決めつけです。不健康な人は私よりも不幸せ。不健康な人はかわいそうな人。私たちはあの人たちよりも幸せ。
 
不健康な人は、生まれつきの病気・障がいを持っている人は幸せになってはいけないとでもいうのでしょうか。家族の中に、愛する人にそのような人を持っている人にはとても違和感があるでしょう。身近にいないからこそ、知らないからこそ、正論のように聞こえてその実はとても冷たい、こんなことを言えるのでしょう。
 
これこそが「マインドレス」の状態です。「マインドレス」の意識はあらゆる対象を「言葉・カテゴリ」で一括りにし、「良い/悪い」、「自分に害がある/ない」といった価値判断をレッテルのように貼り付け、それを自分から切り離し、本質的には無関心になることで安心します。
 
それを考えると、昭和の学校で教えられた文脈には、近年のマインドフルネスとダイバーシティ・インクルージョンに逆行するものが多く含まれていたような気がします。偏差値教育、知識詰め込み教育の弊害、といったところでしょうか。
 
あれが正しい。これは悪い。良い子のみんなは正しい道に進みましょう。その刷り込み作業が教育である。そんな雰囲気が昭和にはあった気がします。
 
私も一回だけおぼろげに記憶にあるのですが、小学校に来なくなったお友達に宛ててみんなで手紙を書く。カセットテープにメッセージの録音もしました。ひとりひとりが順番に「待ってるから元気になって学校に来てね!」。今思うとゾッとします。

「あなたがいるところは悪いところ。私たちがいる良いところへ、早く戻っておいで。応援してるよ!」
だからといって軽トラックで日本一周する少年も趣味が悪いとは思うのですが。
 
無関心 ~「無意識の悪意」の怖さ
 
さてあるとき、私はLGBTのことを勉強したいと思い、当事者の方の講演を聞きに行きました。この方は「無関心」という「無意識の悪意」の怖さを冒頭にとても分かり易く説明してくださいました。
 
「今日会場にお集まりの皆様、本日はお越しくださりありがとうございます。皆様の中で、身近に実際のLGBT当事者を知っている、という方は手を挙げて頂けますか?」
 
会場の聴衆の約半分がワラワラと手を挙げます。

「なるほど。約半分の人が実際にそういう人を知っていて、半分の方は身の回りにはいない、という感じですね。分かりました。」
 
登壇の方が続けます。
 
「今世の中に、LGBTの方は7%いると言われています。この数字がどんな数字なのかを考えてみましょう。」
 
「今の日本で、鈴木、佐藤、田中、高橋を合わせると人口の約6%弱を占めると言われています。」
 
「それでは皆様にもう一度お聞きしたいのですが、皆様の中で、鈴木、佐藤、田中、高橋という知人が一人もいない方は手を挙げてください。」
 
当然、手を挙げる人は一人もいません。
 
「皆さん、お分かりになったでしょうか。先程手を挙げなかった、自分の周りにはLGBTの知人はいない、という方、それはいないのではなくて、あなたが気付いていないだけです。」
 
なるほど、なんて分かり易いんだ、と思いました。
 
講演は、当事者の目線で語る困難とLGBTの方々への励ましと愛情、これからの社会に向けた希望を語る心暖まるお話でした。
 
マインドレスを使うと、人は無関心になり、切り離します。
マインドフルを使うと、人はつながり、愛情を感じます。
インクルージョンというのはそういうことなのだ、と理解しました。

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