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国際感覚1 -アメリカの理解 ~こころをつなぐもの~

私はアメリカに在住しながら仙台のNPO「STORIA」を支援するプロボノ活動をしています。
↓なぜアメリカから日本のNPO活動に参加するのか、想いを綴ったnote記事はこちら

 私がアメリカ人と働く中で理解が深まった「アメリカ人の価値観」について記します。
 
「ベンジャミン・フランクリンの13の徳」というのがありまして、以下のような内容となっています。

独立宣言の重要な起草者の一人であったベンジャミン・フランクリン。アメリカ独立戦争下の内患外憂の多い時代。アメリカが早く国力をつけて成長するには、国民一人一人に質実剛健な行動様式を心掛けてほしいと願い、綴ったものでしょう。
 
この「13の徳」が、いまだにアメリカ人行動様式の根底に流れていると、日々感じます。それを想うと、建国時の国是の示し方というのは、将来を決定づける重要なことであると理解できます。
 
アメリカ人は日本人のような超過残業をしません。公共の場で泥酔する人を見ることはないです。ブランド物に興味が無いし、まず職場で怒る・怒鳴る人を見ることがありません。
 
アメリカの職場について「アメリカ人は合理主義・成果主義でドライ。冷たい雰囲気の職場なのではないか」と思われている方がいますが、特段そのようには感じません。例えば同僚たちがコーヒー片手に談笑しているところを通りかかった時、声もかけずに目もくれずに通り過ぎると「社会性・常識の無い人物だな」とレッテルを貼られます。
 
どのような忙しい責任があっても自分の体調や家族に何かあった時の事情は最優先で、「それは大変だ、誰かにカバーさせるから家族最優先で帰りなさい」となります。プライベートな事は過度に詮索、干渉しませんし、職場で怒鳴る人がいません。これらに関しては、行き過ぎてしまうと即座に訴訟リスクとなってしまいます。
 
でも確かに、アフター5のプライベートな時間に職場の同僚と会うことはほとんどありません。ですがもし、日本のように頻繁に「忘年会・新年会」、「プロジェクト打ち上げ・職場懇親飲み会」があることをして「日本はドライじゃない」というのならば、もうそろそろ考え直す時期に来ているのではないでしょうか。若い世代はもうそのようなことを求めていないと思います。

六方最密充填構造(イメージ)

六方最密充填構造という言葉が化学でありまして、球体や原子が最も密に充填できる構造のことを言います。実際の六方最密充填構造は立体なので、上図はイメージなのですが。
 
アメリカ人はベンジャミン・フランクリン13の徳という「六角形」を身にまとって社会を構成している、というのが私のイメージです。六角形を身に着けていれば、社会に適合して堅牢なシステムに組み込まれます。一方六角形を纏っていないと(常識が無いと)、社会から弾き出され、枠組みの外で生きざるを得なくなります。
 
なお、この六角形は「外で身に着けている」ことが重要で、「中に何があるか」は問われません。職場では常識人として振る舞っても、家族の前や一部の友人の前では平気で人種差別的発言をする。そのような人は相当数いると推察します。そして大人になる前にこの「六角形」を身に着けさせることを「基礎教育」と呼んでいます。
 
一方、日本はどのような規律で社会が成り立っているのでしょうか?「日本こそが独特の規律で画一化されている社会ではないか」という意見を聞きますが、ですが私たちの社会を覆う将来への閉塞感、成長の停滞感の正体は何でしょう?
 

日本式充填構造

私のイメージは上図のようなものです。日本社会は「長老」や「家長」が要所要所に「くさび」を打ちこむことによって構造が保たれて来た、と私は考えています。その条件として、「長老」や「家長」は「日本の全体観」たる「常識・精神性」を非言語的に維持している、という前提があります。その精神性の根底としては、仏教や儒教をベースに価値観を築いてきた歴史があります。
 
日本の職場の会議を思い浮かべた時に、「若い奴は意見を言うな」というオーラを発しているオジサンが、反対意見に怒り出す、という風景が思い浮かびますね。これは日本の伝統的なもので、「長」は全体観を保持している人物だから、それに反対するとは何事か、「場」を支配する全体観に対する挑戦だ、ということになるわけです。一方アメリカでは「サブジェクト」に対して様々な意見を言っているだけなので、誰も怒りません。これに関しては、若い世代は「日本って面倒臭い」としか思っていないでしょうね。
 
近年の課題は、この「家長制度」が崩れてきたことによる過渡期、ということが出来ると思います。昔の制度の構造の残り香を追いかける人がまだいるんだけれども、昔ほどの人の器は無い。皆さんの職場や政治の世界、色々なところに、人を思いやり深謀遠慮をする器が無いのに、「私の全体観に従え」の部分だけを振り回そうとする「似非リーダー」的な人は目につきませんか?
 
いわば上図で言うと、「長」たる六角形の形が変形してフニャフニャになり、「庶民」たる三角形たちが崩れ落ちている。そんな状況ではないでしょうか。
 
このまえアメリカと日本のこの構造の違いが分かり易い出来事がありました。ウィル・スミスというアメリカの俳優が、アカデミー賞の授賞式で司会を殴った、という事件がありましたね。
 
このとき、米国と日本の世論の反応は特徴的に異なりました。日本では「人前で妻の病気のことを侮辱された。暴力はいけないが彼の気持ちは分かる」という同情論が見られましたが、アメリカでは全くそんな論調は見られず、ウィル・スミスに対する批判一色でした。
 
次の日の職場では同僚たちがその話で談笑していました。「ウィル・スミスは何であんなことをやったんだろうね?」ウィル・スミスがその行動に至った背景に関しては誰も知らず、興味も無い、という感じでした。アメリカでは、規律に反したかどうかだけが問われ、その背景にどんな精神性があったか、ということには誰も関心がありません。
 
端的な例ですが、アメリカで働くことで顕在化する日本人とアメリカ人の行動様式の違いとはそのようなことです。自分を変える必要はありませんが、何がまずいか、ということを知らずに飛び込むことはリスクを伴い、危険です。
 
さて、ウクライナに対するロシアの侵攻や、それに同調して強硬路線を取る中国の態度等、昨今の国際情勢には不穏な空気があります。私はこれをひと言で言うと、家長制度主義社会と自由主義社会の軋轢が生み出したせめぎ合いだと思っています。「六角形を身にまとって経済原則に則った社会を作りなさい」と拡大する「アメリカ式グローバリズム」に対して、それが台頭すると立場が悪くなる「既存の家長」の人たちが大勢いるのです。ですからこれは、「特定のリーダーが個人的に暴走した」というような短絡的なことではありません。
 
日本は近年、とても短期間に「家長制度→自由主義」にドラスティックに転換をした国の一つで、そのきっかけは言うまでもなく、敗戦とGHQによる統治があります。「Z世代」は自由主義ネイティブの行動様式を生まれつき身に着けている世代と私は考えています。
 
私自身は「氷河期世代」に属しますが、家長制度と自由主義の両方の要素に挟まれて生き、自己矛盾を内包している世代です。この両方の皺寄せを受ける割に合わない世代で、「パワハラを受けて育ったのに自分はパワハラ出来ない」とか、色々あるんですがとにかく損の多い世代です。パワハラ出来ないことが損、というわけではありませんが。
 
どちらが良い、ということではなくて、今後の日本を若い世代が作っていくのは間違いない事実なので、それに老後どうアダプトしていくのか、ということを問われる世代だと思います。

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