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アクティブラーニングの教育目標

まとめ

アクティブラーニングは、(生徒が)能動的に学習するための学習方法/教育方法を意味する
ここではアクティブラーニングの例として、議論・討論に注目する
教育における議論・討論の目標は、専門的学習が必要なことを理解することである
議論・討論よりも対話を重視する意見もあるが、対話は専門的知識にはつながらない

はじめに(昔話)

 私はいたって不真面目な学生でしたが、大学の時のサークル活動(ESS、いわゆる英会話サークル)では多くのことを学びました。
 当時のESSの活動の中でも、わたしはディスカッション(議論)とディベート(討論)をしました。どちらもいわゆるアメリカの民主主義を形作る文化を輸入したもので、多様な意見をもった人々がどのように相互理解をして、建設的に意見を積み重ねていくことを訓練するものです。アメリカでは、小学校から大学までこれを教育の重要な一環として取り入れています。(そういう意味で、昨今のアメリカの政治的に分断は、実に嘆かわしい)
 当時はまだアクティブラーニングという言葉はありませんでしたが、ここでしていたことはアクティブラーニングそのものです。あるテーマについて集団でどのように議論/討論するかを、いろいろなやり方で繰り返します。議論/討論のテーマについて理解をするだけでなく、議論/討論を通じてどのように理解をしていけばいいのかを能動的に学びます。

議論を両面から行う

 アメリカの教育における議論の学びは特徴的です。
 テーマとして、賛成と反対が比較的明確に分かれるものが選ばれます。例えば原子力発電の推進といった政策の議論です。思想信条によって賛成あるいは反対の意見をすでに持っている人もいるとは思います。アメリカ式では、そうした本人の事情は傍らにおいて両方の立場から議論をします。例えば1日目は原発推進の立場で議論し、2日目は廃止の立場で議論するようなものです。
 「頭の中で両方の立場から考えよう」というのは、考えを深め推敲していくのによく言われることではあります。しかし頭の中だけですませるのでなく、議論の場で実際に立場を変えながら考えを深めるのでは、理解の度合いが格段に違ってきます。

強い論理と弱い論理

 賛成と反対の結論のある議論において問題となるのは、二つの相対する議論をどう比較するかです。好きか嫌いの価値観だけの問題ならば、議論のしようもない話ですが、政策の議論のように社会とのかかわりのある決定につながる場合はそういうわけにもいきません。
 ふたつの異なる議論を比較する一番単純な方法は、専門家やその道の権威と言われる人がどちらの意見を支持しているかを示すことです。これに従うと、強い議論に必要なことは、たくさんの専門家の書いた本を読んでその考えを理解し、自分の議論の中に取り入れることです。
 しかし専門家がそのものずばりの意見をしてくれることは滅多にありません。また複雑な現代社会では専門の領域があまりにも細分化しているために、専門家のようで実は全く専門でないような場合も多々あります。経済分野でよくある話なのですが、経済を大学でちょっとかじった程度のどこかのコンサルタントの書いた本がベストセラーになることがあります。そこに素晴らしい議論が展開されているかというと、実は専門として長い間研究をしている大学教授らがこぞって間違いだというような馬鹿げた話もあります。そういう意味で、専門家や権威をただ信じるというのは危険かこともあり、注意が必要であると私は考えます。

議論で学ぶ専門的知識の重要性

 専門家と言った外部知性に頼る以外に議論の優劣をつける方法は、議論についてより深い理解を示すことです。ただしこの優劣の比較は、非常に高度な議論の理解力を必要とする意味で、注意深くしないと第三者を説得できないこともあります。
 原発の例になりますが、「原発は地震に耐えられるよう設計してある」という単純な議論と、「地震が起きると、原発の〇〇管に力が加わり破損することで、核反応の制御に失敗し、高温で原子炉が破壊される原発事故になる」という複雑な議論があるとします。後者の議論は、原発の構造に触れられているという意味で専門的と言えます。
 前者の議論にたいし、専門的な後者の議論がなぜ優れているか?前者の議論は一般論すぎるため、安全性がどの程度の範囲で認められているか分かりません。地震と言っても、もしかすると震度3程度の軽微な地震かもしれませんし、設計と言っても、もしかすると建屋だけのことを指してる場合もあります。それに対し後者は、事故のプロセスを詳細に追うことでより実質に迫った議論になっていて、優れた議論と言えます。
 議論・討論をすることは、優れた議論を作り出すという作業から、専門性がいかに大事かを認識することとなります。

対話では専門的知識の重要性は学べない

 相手を否定する議論・討論よりも、対話(ファシリテーション)が優れていると意見をする方がいました。
 対話’(ファシリテーション)をすることは、とても大切だということは理解できますが、私はこの意見が全く理解できません。というのも、議論・討論の勝ち負けは人格否定とはなんの関係がないからです。せいぜい言えることは、優れた議論をする専門的知識がなかったことが問題で、それは恥ずべきことかもしれませんが人格とは無関係です。
 対話と議論・討論の違いは、異なる意見について決着をつけるかどうかです。もしも異なる意見がただの価値観の違いであれば、優劣を決める必要もないですし、私自身どう比較すればいいのかわかりません。お互いに尊重して終わればいいだけの話です。もしも原発の推進あるいは廃止のような何らかの行動をともなう政策であれば、比較しどちらかに決める必要があります。そういう意味で、議論・討論と対話は別物です。
 専門的知識の重要性を学ぶ機会は、異なる議論を比較することで初めて生まれます。その目的のために、アクティブラーニングを通じて大いに議論・討論をしてほしいと私は思っています。

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