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「トウキョウソナタ」★4.0~局地的TOKYO2021映画祭の1日目

描かれていたのは、暗くて重い、私の好きなタイプの「東京」でした。

こんにちは、ユキッ先生です。
予告通り、「東京を舞台にした映画を観て感想を綴る」シリーズの1日目です。
サブスク配信で本日私がいただいた映画は、こちら。

あらすじをコピペる

先のAmazonページよりまんまコピペします。

ちなみに、Wikiで調べると、ほぼラストまで網羅されたネタバレあらすじが転がってますが、私が視聴前に読んだのは、下記引用箇所と同じぐらいの解像度の、あっさーいサブスク用の紹介テキストのみです。
出演者やスタッフ等はざっと見ました。

ボクんち、不協和音。
お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、そしてボクも――みんなナイショの秘密をもっている。
舞台はトウキョウ。線路沿いの小さなマイホームで暮らす四人家族のものがたり。
リストラされたことを家族に言えないお父さん。ドーナツを作っても食べてもらえないお母さん。
アメリカ軍に入隊するお兄ちゃん。こっそりピアノを習っている小学六年生のボク。
何もおかしいものなんてなかったはずなのに、気づいたら家族みんながバラバラになっていた。
いったい、ボクの家で何が起こっているのだろう?

「えええー! 公式あらすじが次男目線だったんですか!」

と驚きました。
開始1秒後からそういうテンションじゃねーぞ、騙されるな!

なぜ選んだのか。それはサムネの少年時代の井之脇海と目が合ったから

一家の次男役が少年期の井之脇海さんなんですが、そんな幼いころから役者さんだったことを知りませんで、ただただ少年時代がどんなんだったかを見たい、という正当に不純な動機で選びました。
そりゃもう可愛らしいんですけども、終始、目ヂカラが印象に残ります。昔からすごい役者さんだったんですね…! と得した気分になれるので、それだけでも見る価値あった。

登場する俳優陣は、端役ですらぴったりハマるかたばかりだったので、安心して観られます。

実はある意味、最後までこれに尽きるわけですが、キョンキョンのキョンキョンっぷり、井川遥の井川遥っぷり、サプライズ的に放り込まれる役所広司の役所広司っぷりも見どころかもしれません。

個人的には、担任の先生役だったアンジャッシュ大島さん(クオリティがイメージ以上だったので、「大島さんだよね?」ってつい真実を確かめるために視聴中に配役をググりかけてやっぱりやめ、エンドロールで「ですよねー」って一人で膝打った)、でんでんさんの存在感が素晴らしかったな。

でも、女性がみんな綺麗すぎて、現実のおかん側としては辛いな、というのもまた印象的ではありました。中学生の土屋太鳳に至るまで。
現実の母は、家族の苦難に対して優しく冷静に対処できる、凛とした女神とかじゃねえからな!
あの旦那なら私ならもっと前に別れとるわ。

あと一つ敢えて文句をいうなら、TVニュースのシーンがどうも毎回フィクション臭いのが、ちょっと残念かもしれません。

漫画「水の中の小さな太陽」を思い出したよ

ここで突然、細かすぎて伝わらない、私の「好きなモノ語り」をぶち込みますね。興味ない人は飛ばしてください。

以前もここで語った通り、私の好きな「東京」像は、岡崎京子先生の描くそれであります。文化、欲望、経済、退屈のエネルギーが渦巻く、堕ちる人間の舞台としての都市。刹那的なきらめきと同時に、‟何か”を常に渇望している都市。とでもいいましょうか。

『エンド・オブ・ジ・ワールド』という短編集のなかに、「水の中の小さな太陽」という、リバーズ・エッジとほぼ共通する、1994年ごろに発表された読み切りの作品がありまして。これは主人公の、「ごく普通の家庭に暮らす」女子高生が、退屈な日常のなか、刺激を求めて数々の悪行を働き(敢えてこのの表現にしておきますが)、堕ちて、堕ちて、ただひたすら堕ちていく物語なんですね。で、オカキョン先生も、セルフライナーノーツ的なテキストで、こういう主旨のことをおっしゃっていました。

いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
いつも。たった一人の。一人ぼっちの。
一人の女の子の落ちかたというものを。

わかります(いま、この瞬間、私だけが。すみません)。

私が好きな東京というのは、日本の最先端でありながら、いつも何かギリギリのバランスで、そこに生きる個人の欲望や危うさを孕み、次々と飲み込みながら、それすらビジネスの顔にして増殖していっている… というイメージなんです。

私が修論でも言及したことを若干ディフォルメしてここに繰り返すと、「『東京』というのはビジネスで成り立っている街なので、そこでビジネスでつまづいたらもう”or die”という覚悟に晒される」んですよ。
(なお論文では、対比的に、「大阪では仕事で失敗しても大丈夫、無職でも酒場で酒飲めるムードがある」的な文脈が続きます。)

ちなみに「水の中の小さな太陽」の主人公は、小田急線沿線の家に、「普通の」家族と暮らしています。
ひるがえって「トウキョウソナタ」のこの一家の家も「普通の」井の頭戦沿線の一軒家に暮らし、時折電車が往来する音や風が、窓から吹き込む描写があります。そしてごく「普通に」、家族は食卓を囲む。

カッコ付きの「普通」を表出するために、家族のメンバー個人が自身のなかで何をコントロールしているのか。この既視感が、私には腑に落ちました。
そして、メンバーや構成員の心情の欠損みたいなものを描きながら、何度となく繰り返される食卓での食事シーンが、中盤にはどことなくホラーとなり、終盤には希望になるという。
ありがちだけど、わかります(特に私も、毎日「お母さん“役”してる」からでしょうね)。私ならもっと前に別れるけどな。

シンボルとしての三叉路にもいい意味での既視感あり

あと、「沿線の家」と似たようなモチーフとして、家の前に三叉路があるんですよね。家族の誰かが帰宅するシーンでは、多くはその地が定点的に映される。父と子が合流したり、母が一人で地面を踏みしめたり。

三叉路でパッと関連づけて思いだしたのがアニメのほうの映画「時をかける少女」と、ドラマ「コタキ兄弟と四苦八苦」です。

三叉路、Y字路ともいいますが、人生の「if」を暗喩するときに効果的に登場しがちですよね。先の二作品でも、同じテーマでこうした地形のシーンが効果的に挿入されました。

現実に傷だらけになったときに、自分の人生をやり直せるかを、ぼんやり考える。
どこでボタンを掛け違えたのかな。生まれ変わったら同じ人生をやるだろうか? みたいなやつですね。
そして、満身創痍で思い巡らせた末に、人間は気づきます。
「現実のつづきをやろう」と。

これは仏教用語でいうところのいわゆる「諦め」ですよね。
単なる「ギブアップ」ではなく、真理を見極めて無駄な執着を捨ててただ生きる、というようなポジティブなニュアンスのある心情です。

日本の物語にあるあるの展開だけど、これも私の好きなパターンではあります(ちょっと余談だけど、ハリウッド映画は往々にして勝負事には勝利してハッピーエンド、というパターンが多い、一方日本では、大勝負には負けるものの、そこから希望を見出して立ち上がる、みたいな筋が多いって、何かで読んだぞ、何だっけ)。

「結局ラスト6分のための壮大なフリだったんですかね?」

で、じわじわと水面下で同時多発的に進行していたある種の不幸が同一時間帯に一気にクライマックスを迎え、ラストシーンに集約されていくのは見事で、肝心のラストシーンに関しては、このように感じました。

「結局ラスト6分のための壮大なフリだったんですかね?」

いや、すごくいいシーンなんですけど、特にいま、人の親になったので感動的ではありましたが、たとえばリアルタイムで見ていたら、ちょっと肩透かし喰らう印象になっていたかもしれませんね。

あと、「シンプルに、パワハラ親父に家族が翻弄されただけで可哀そう。特にお母さん。父や息子たちは、ある種の自己選択の末に見舞われたトラブルだけど、お母さんが終盤に受けたひどい仕打ちは完全にもらい事故だし、架空であっても断固許すまじ。とにかく私ならもっと前に別れとる」という雑な共感が残りますが、たぶんこれが2021年の日本人としてはド正論なのではと思います。

蛇足ですがもう1点、つけくわえておきたい

また、根が社会学徒なので、「男性がマチズモを降りる選択肢が広まれば、この作品で起こった事象すべて解決なのでは」と結論づけたくもなります。
もっとも、志願して軍人になる長男と、繊細にピアノを演奏する次男、というわかりやすい対比がそこを表現しているとは思いますが。

(記事は参考まで)

2008年の作品で、設定自体が同時代なのかどうかは不明ですが(個人的に2008年にしては家族のありかた含めた生活描写にちょっと古い印象を受けたけど、ガラケーの設定のくだりなどを見るに、同時代っぽくはある)、リーマンショックあたりの時代の空気感みたいなものは出てる感じがしました。

おそらく、未曾有の震災と疫病で、空気感とともにその都市像も変化するわけですが。

結末へのつなぎにちょっと消化不良感が残るものの、世界観は好きでした。
というわけで、星4つ[★★★★☆]で。


写真 / 東京で撮った写真ねーなー!って探してたらありましたよ!2012年・東京駅。

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