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「炭鉱のカナリア」~人間という種が生き続けるための多様性

注意!このノートは発達障害当事者としての視点をもとに書いています。医療的・学術的なものではなく、あくまで当事者としての感覚で書いていますのでご了承ください。

(詳細のソースを出せというのは勘弁してください。このノートはいろんなところから見聞きした情報の個人的メモの延長線上です。)

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少し前に流行った「ダイバーシティ」という言葉がある。直訳すれば多様性だ。私は経営コンサルタントとして社長に「多様性」の重要さを説明することが時々ある。

「一人ひとりを大切にしましょう」「個性を大切にしましょう」

そんな綺麗事をいって、クライアントである社長を説教したいのではない。

「多様性」とは、組織の存続に直結するからだ。

「多様性」がない組織は滅びの運命をたどる。

同じような社員や部下ばかりを揃えていては新しいなにかは生まれない。
変わり者の社員や突拍子もないことをする部下、そういう人材も少し混ざっていたほうがいい。

永遠に同じ仕事、同じ事業は続かない。世の中は変化し続けているから。
どこかの時点で大きく事業転換をする局面は必ず訪れる。そのときに、均質な社員だけでは必ず組織は行き詰まるのだ。

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それは「ヒト」という生物についても同じだと私は考えている。

私はADHDという発達障害当事者である。同じような特性をもつ仲間が以前私にこういった。

「発達障害者は炭鉱のカナリアだ」と。

電気式の毒ガス検知器が普及する以前、炭鉱で働く人々はカナリアを連れて炭鉱に入っていった。

鳥類は毒ガスに対する感受性がヒトよりも高いため、僅かなガスにも反応し意識を失う。これによって、炭鉱労働者たちは自分たちが毒に侵される前に危険を察知することができるのだという。

これと同じことが発達障害者にも言える。

マジョリティである定型発達者とは違う感覚や思考回路を持つ私達は、定型発達者であれば気が付かない変化を敏感に感じ取る場合がある。

ADHDである私の感覚で言うと、定型発達者が気にもとめないような音が気になる。その音をきっかけに思考が爆発的に拡散し止まらなくなるのだ。

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また発達マイノリティはどの国、どの民族にも一定の割合で生まれるように遺伝上で仕組まれているとも言われている。

HSPは5人に1人、ADHDとASDが10~20人に1人、という具合に。

これはとても興味深いことなのだ。
お酒が飲めない、いわゆる「下戸」というのは欧米人にはほとんどいない。
それに対し、我々アジア人(モンゴロイド)というのは約50%の割合でアルコール分解酵素が少ないタイプが存在する。

「下戸」は人種により発生割合に違いがあるのに対し、発達マイノリティの発生割合には人種間に大きな差が見られない、というのだ。☆             ☆            ☆

このことから、発達マイノリティというのは「ヒト」の遺伝子に最初から一定割合で誕生するようにプログラミングされた存在なのだろうというのが、私の個人的な感覚だ。

衝動的で無鉄砲で、「今」を生きるADHD。
感情ではなく事実関係を重んじるASD。
慎重で危機管理能力に優れているHSP。
(発達障害とは別物と言われているが、HSPも同じ「感覚のマイノリティ」であることは確かであろう。)

そして、多数派である定型発達者が存在する。

同じ「ヒト」の中に別々の戦略を取るタイプがいることは、変化し続ける環境に対し、「ヒト」という種が生き残るために必要なのだ。

例えば・・・

ADHD的な行動をするグループが、未開の地、フロンティアに足を踏み入れる。それが食べ物の豊かな土地であったなら、成功だ。
しかし恐ろしい猛獣に襲われて、そのグループは絶滅するかもしれない。

HSP的な行動をするグループは、危険性を呼びかけて仲間が未開の地へ足を踏み入れることをとどめようとするだろう。豊かな食べ物にはありつけないかもしれないが、猛獣に襲われることもない。

このように「ヒト」がどんな状況でも環境でも生き残るため、別々の戦略を取るタイプを「ヒト」の遺伝子に組み込み、一定割当で生まれるよう予め仕組まれているのではないか、というのがこれまで見聞きし読んできたことから総合的に考える私の推測だ。

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私は時々、突拍子もない大胆なことをやらかしてしまう時がある。

もちろん失敗することもあるけれども、うまくいくこともたまにある。

どちらにしろ、なにもしない傍観者たちに腹が立つ。

なにもリスクを背負わない、そして結果だけをすくい取る定型発達者が卑怯だとさえ感じていた。

そんなときに言われたのが「炭鉱のカナリア」の話だった。

私たちは、そういう運命を背負って生まれてきた存在なのだ、と。

私たちは、定型発達者と同じことはできない。

同じペースで行動できないし、感覚そのものが違うから同じものを見ても同じように楽しいとか嬉しいとか感じることができない。

だからこそ、群れを守れるんだ、と言われた。

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私はADHDだから自分のこととして言うが、私、ADHDは時間やルールが守れない、思いつきで行動する、思ったことを思った通りに言ってしまう。

そういう存在だから定型発達者はイライラするだろうと思う。

(HSPの方なんかは、ADHDとは真逆で慎重で熟慮するタイプだから、ガサツなADHDに対して定型発達者よりも一層イラっとしているかもしれない、なんてふと思った。)

定型発達者に対して、私のような発達マイノリティは劣等感を抱きやすい。

集団から弾かれて、孤立することだって多い。
楽しいことより辛いことのほうが多い。わからない、できないことがあるのは悲しい。

でも、だからこそ意味があるんだ。

だからこそ「炭鉱のカナリア」なのだ。




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