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個の視点と全体の視線を行ったり来たり

だいたいは、個の視点で生きている。

とても楽しいし、せっかく時間軸を生きているのに、全体を捉えるために与えられたせっかくの始まりと終わりのある時間なのに、今を生きなければ勿体ないからだ。




今とは、全体の一部分をまるでCTで輪切りにしたような断面でそこを観察しないなんて、感じないなんて、こんな勿体ない事はないとも思えている。



ただ、それを楽しんでいる最中、他者の時間軸との交差点で真反対の意見を持っている人にも出会う。
信じられない。何故そんな選択をするんだと。
個の自分は思う。



そんな時は、直ぐに全体の視点に飛び移ろうと最近は思え出した。
それが、争わないとか、許すとかそういう視点になるんだと思う。



少し上から、自分と相手を見てみると大差ない。


ただ、一つの命をそれぞれの視点で生きているもの同士。
自分と同じ存在にしか見えない。

個のわたしが、これが正しいんだ!


と叫んでいて少し面白い。


また、相手を観察するとこちらも、いーや!こっちが正しいんだと叫んでる。



全体の視点から見ているわたしは、どちらにも笑ってる。



そのままの視点を、わたしという個へ持ち帰ってみると、そうだよね、そういう考え方もあるよね。

と、それだけになる。


面白いね。


結果が、出たら教えてね。

そんなものだ。



自分の人生の現象にも、相手の人生の現象にも介入出来ない事も知るが、幸せな気持ちや優しさを知ることへの働きかけだけは出来る。



自分も、相手も、優しい気持ちになれる答えを見つけるのに、高い視点から見てみて、自分も相手も大差ない同じ命と見ると例え、そこに、反対意見があろうとも争うことだけは避けたくなる。



争うとは、個の視点に依存して自分の視野しか認識出来ていない状態を示す。


そうすると、お互いに苦しい押し付け合いが産まれる。


少し高いところから見ると、皆、それぞれの人生を与えられた時間の中で、全体を捉えるための時間を過ごしている。


それは、自分も他者も等しくそうだと思う。


捉え方が、無数に得られるのならばそれは、とてもとても面白いことで、正しい正しくないの論争より、集めに集めた方程式を書きまとめてみた方が断然面白いのではないか。


何だが日に日に、そんな思いが強くなって来る。


個であって、全体。


個からの視点も、全体からの視点も、行ったり来たり出来る。


なんて広い空間を人は生きているんだろう。


幸せだなぁ。って思えて来る。


争って、ケンカして、怒って、泣いて、傷つけて、傷ついて、今までの経験がこの視点を教えてくれたのだと思うと巡り合わせとは、本当に有難いものだと思えた。





※個を主張するという選択が必要な時もあると思います。争いを避けたい時に用いる、一つの手段として。
全てはケースバイケースだと思っています。





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