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心の奥の孤独

心の奥に孤独を持ってるのは、悪い事ではない。


心がまっさらで、ただキレイなものだけを抱えて生きている人間なんて一人もいない。



その扱い方を学んで、出来る限り自分も人も幸せである方法を探せるか、自分も人も悲しみの中にいる方法を取るかの違いで、持ってるものの分量は同じ。



だから、心の中にキレイなものだけを持っている人を探したってどこにもいない。


それを知っていると、孤独感もある。

孤独感は、執着を減らしてくれたりもする。


ただ、起きている事を受け取る。


ただそれを、捉え方を決めて眺める。


この作業の中に多少の孤独感がある。


それぞれに独立した人としての認識がちょっとした寂しさとか孤独感になるが、人と人はそうであるから自分を見つめられるのではないかと思っている。



人間同士のお付き合いは、幸せであるものの一つで、わたしも人の中に幸せを、泣けるほどの幸せを、暖かさを優しさを与えられて生きてきた。

人が大好きで、愛おしい。



反対に、人間同士のお付き合いは、悲しみと辛さも持っている。
胸が苦しくなるほどの、悲しみも、傷付くような、辛くなる言葉や態度も飛び交う。

それが、また、人の愛おしさとも思える。



プラスとマイナスが時として、ググッとプラスへ偏ったり、ググッとマイナスへ偏ったり、人間の中は、幸せと悲しみを行ったり来たりする。



幸せな感覚を与えてくれる人だけではない。


それが、人間の中に生きるという事で、そのどちらも皆持っている。


ある意味、悲しみを生む方の使い方をしている人に見せてもらっているとも思えてくる。


逆に、見せてしまった事もある。


幸せも、悲しみも、見せて見せられて、その中でゼロの状態にいようとすると、少しの孤独感を持っているような気もする。



それが、自分の軸を誰かに委ねてないことを意味しているのかもしれないなって、そんな人間らしい、人間ならではの幸せと悲しみの中を、ゼロの中庸の位置を保とうと思った時、かすかに感じる孤独感がある。



その位置から物事を見ると、やけにスローモーションのようにゆっくりと流れる。


良く見えて来る。


自分を含めたそこに、地図のように見えて来る。


人間の両面をわたしが幸せである事を祈って使ってくれてる人を。


心の中にある両面を幸せであるために、多少なりの孤独を感じる位置から自分を見つめて、制御しながら与えてくれる人の存在が。


ただ、まっさらにキレイなものだけを持っているなら、手放しに信頼し、手放しに信じることが出来る。



けれど、そうではないのが人間で、そうではないのにも関わらず、わたしの幸せを願い、そんな人間の両面の中の優しさを、温かさを、思いやりを、幸せを、向けようと心の中で努力してくれている様が、浮き彫りに見えて来る。



人間の愛おしさは、健気さは、優しさは、温かさは、だからこその深みと、だからこその泣けるほどの優しさとなるのだと思う。


かすかに感じる孤独感が、より深い思いを優しさを教えてくれる。


この人は優しい人だ。


この一言に、優しい人である事に、健気な努力が、優しさが、思いが、たくさんたくさん詰まっている。



人間に両面がある事。



これが、一つの優しさに重みを乗せてくれる。


そう考えると、多少の孤独感がある位置がやけに幸せに思えて来る。


優しさを受け取る時の幸せ度が、倍増する。

人間の愛おしさが、倍増する。


皆、大好きだなぁって思えて来る。



多少の孤独を感じるその位置にいると、共に生きている事を思い知らされる。



多少の孤独感があるこの心の位置が、結構好きかもしれない。











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