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自責の念

わたしは、自責の念が強い。


それでも改善されて来た方だと思っているが、情緒の状態やホルモンバランスの乱れの時期に、何かあると元々の自責の癖が顔を出す。



愛されるに値しない人間の様な、無価値感になる事も良くあった。


ありのままでは愛されない、何か付加価値がない自分は愛されるに値しない。
そう、思うのが怖くて、わたしが全て悪い。
わたしのせいだ。
自責で、愛されない恐怖に蓋をして来たんだと思う。


先ず、人はどんな人も産まれて来たその瞬間に愛される存在である。


例え、そこに無償の愛で包み込んでくれる人がいなくても、これは、声を大にして、世界中に届けたい。


あなたは、愛される存在!

愛されるに値しない人間なんて1人もいない!



自責の念が強い時、自分への無価値感が湧いてくる、そんな自分の心にも届けたい。



それから、自責の念の最中に気付いた事がある。



わたしが悪い。

そこから、何も答えが見出せず前に進めない時、大きく勘違いしてることがある。


それは、責任のないものに、責任を感じているという事。


これは、自分の責任だ!
そう思う時、もう、覚悟は出来ている!
精一杯の行動で、責任を果たそうとする覚悟は決まっている!
謝るならしっかりと謝ろう。
解決に全力を尽くそうとなる。


そうではなく、わたしのせいだ。わたしがダメな奴だからだ。
そこから、抜け出せない時、責任と原因がごちゃ混ぜになっている。



例えば、怒りのコントロールが難しい方に、罵倒されたとする。
心に傷を負ったとする。

(分かりにくい時は、実際にナイフで体を傷つけられたと考えてください😅想像すると痛いので、言葉にしておきます)


それで悩んでいた時、誰かにあなたにも責任がある。
と言われたら、または、自らが自責の念に突入したら、出口のない悩みの中でぐるぐるしだす。


わたしが悪かった。



しかし、責任は、理性を失い傷つけてやろうという意識を持って傷つけた相手にある。



本当に、これは、わたしの責任だなと心が決まる時は、悩むというよりはむしろ、謝ろうと覚悟が決まる。


そうではないのに、何故か自責から抜け出せず、わたしが悪い。わたしのせいだ。
何が悪かったんだろう。
と考えても悩んでも、心の底に怒りの様な感情が、産まれつつも、いや、わたしが悪い。
と、何か出来ていない事があるから愛されない。
出来ていない事を探せば、愛される。


と、訳の分からないループに陥る。



もし、考える可能性があるなら、その様なものに巻き込まれないための、改善点、その様な場面に巻き込まれた原因を探せば、同じ事に巻き込まれる事を減らしていける。という、改善点の発見と、責任との分離だ。



理性を失い、人を傷つけた。
責任は、相手にある。


では、この様な状況に合うと自分は辛い。
次に合わない為に、自分の中の改善出来るところを探しておこう。


これが、出口だと思う。



これは、明らかに傷を負わせたという事実があって、責任がある相手がはっきりするケースになるが、それぞれの未熟さが、すれ違って起きる問題も多々ある様に思う。


そういった場合は、責任というよりは、お互いの改善点の発見だけだ。


お互い、未熟故に起きた事。


自責の念に駆られる必要はない。


自分なりの改善点を探し、次から同じような事に合った時、こうしてみようと新しい発見が出来たら、それが、また喜びになる。


ああ、いい経験したなあって最後は感謝で終わる。



自責の念に強く囚われている時、責任という重たい十字架をわざわざ自分の背中に乗せて自らを責めている状態にある。


本当に、責任という言葉が必要な出来事なのか。


これは、改善点を探せば、もっと楽に生きられますよ!という、それだけの出来事ではないのか。

その分離がすごく大切な気がする。


人間関係が、人の苦しみの大半を締めているなら、責任を取るというケースよりも、改善点を探してみよう、そうすると、あなたはますます自分らしく、楽に生きていけますよ、さあ、自分を縛り付けているものはなんでしょ?


という、問題の方が多い気がする。



責任という言葉が必要ではないケースで、もしくは、自分側に責任がないケースで、わざわざその重たい責任を持ち出して背中に乗せて、自責し出した時。



それが、出口のない 自責の念 に陥る正体だと思えた。



















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