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天国への疾走、天国での追想、そして……。


呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい
木村弓『いつも何度でも』

ついに来てしまったのだろうか。

町へ下る道の途中には、北アルプスを背に、美しい自然に囲まれて建つ大きな一軒家がある。

どうやらここはカフェを営んでいるらしい。と、曖昧な言い方になってしまうのは、未だ開いているのを一度も見たことがないからだ。道すがら、ときおり室内からこぼれている暖かい色の灯りに目を奪われることはあっても、丸太の看板にかかった文字を確認するとそこはいつも「close」で、僕は諦めたように、しかし一縷の望をかけながら、やはり今日もcloseか、とそのままペダルを漕ぐ足に再び力を入れて通り過ぎる。

そんな一方通行のやりとりにもいつしか慣れ始めていたのに、しかしどういうわけか、この日は開いていた。

さっきちょっときれいな川で遊んだけど、まさかな…

Go to heaven……?

大丈夫だ、ちゃんとおいしく感じる。どころか、ちょっと美味しすぎるくらいで。

食後に頼んだハーブティーにスコーンをつけてくれたご婦人のサービスも神ではなく人で、ここが天国ではなく、地上であることを思い出させる。

ふわっとしていて、しっとりしていて、もちっとしている。これもまた天国の居心地ではなく、紅茶のスコーンの話だ。こんなにおいしいスコーンは初めて食べた。そしてイチゴの…ジャムというにはあまりに整いすぎているこれは…

そうだ、かつて世界を仕切り直した時の、

「コンフィチュール。」

……。

スコーンを口へ運び、スプーンですくったイチゴであとを追う。

するとなんと可愛く、快いハーモニーを聞かせてくれることか。外の梢で遊んでいたつがいの鳥が、そろって鳴いたのかと思った。

出会いというにはあまりに約束されていた、

「結婚」。

これを皿の上の理論としてではなく、そのプロセスも含めたひとつの運動として、口の中で味わおうというのが、僕がカレーライスを食べるときにいつも口を辛くして言っていることだが、(つまりカレーとライスを皿の上、あるいはスプーンの上で混ぜて食べるのではなく、まずライスを口に含み、そのあとカレーを口へ運ぶという食べ方)

つけ麺に対してこの理論を適用している友人がいたこと思い出した。

……

と、カメラロールを回してみるも、ラゾーナ川崎のフードコートで食べたつけ麺の写真は、残念ながら残ってはいなかった。


「ゆっくりしていってくださいね」

ハーブティーのおかわりを注ぎに来た婦人が声をかけてくれる。

「ありがとうございます」そう答えた自分の声音がすでにとてもリラックスしていることを、僕はどこか他人事のように感じていた。

ここ、なのだろうか。

ここが、僕の思い描いていた天国なのだろうか。それにしてはずいぶん家から近かったが……
それもまた、天国は扉が閉まっていただけで、いつも僕たちのすぐそばにあったという一つの教示なのか。
僕はずっと、ここにいるべきだろうか。

ふと思い出す。

こんな小説を昔読まなかっただろうか、と。

その小説のタイトルは——『天国はまだ遠く』。


…そうだな、ここを出よう。僕はお会計を頼んだ。

ここにいると、いろんなことを思い出す。今まで見てきた景色や、限られた時の中で、出会ったかけがえのない人たちのことを。

彼らの多くはまだこの地上にいるのだし、その彼らと、さっき聞いた鳥の重唱ほどの旋律を奏でられたと、僕はまだ、満足してはいないのだから。

もう、いつopenとも知れない天国の看板を横目に見ながら通り過ぎていくのはやめだ。

ご婦人に丁重にお礼を言い、僕は店をあとにした。その前に、最後に一つだけ、彼女に訊いておきたいことがあった。

天国はまだ遠い。

僕の天国はまだ正面にすら現れてこないし、誰かの天国を横目で見るのはもうやめようと決めた。でも、

このカフェは土日だけ開いているらしい。

まだしばらく、この天国と併走する日々は続きそうだ。


木漏れ日の午後の別れのあとも
決して終わらない世界の約束
倍賞千恵子『世界の約束』

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