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喫茶店で酒談義

渋くて、ほの暗い、上品なバーにも似た地元の喫茶店。

最高です。

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ブレンドは中心に素朴な甘さをたたえた、コクのある味わい。

ガトーショコラは濃厚なチョコレートを噛みしめるたびに、ふつふつと果実のパッションがはじけるようでした。

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こういう個人的で、地域的なお店というのは不思議なことに、地元から離れていないときには、それほど興味を惹かれませんでした。子どものころは、親と一緒にチェーン店やマクドナルドで休憩することはあっても、自分から喫茶店を探す理由はなかったし、高校、大学くらいになると、学校の周りや別の町で遊ぶようになり、地元ではほとんど決まった場所にしか行かなくなっていました。そう振り返ると、何年も過ごしたのに、僕はこの町のことをまだまだ知らないのだということが、驚きとともにとても新鮮で、楽しいことに思えてきます。

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吉田健一『酒談義』中公文庫

落ち着いた空間で、久しぶりにゆっくり本を読むことが出来ました。著者の吉田健一は1912年、東京生まれ。吉田茂元首相の長男で、文学の領域で、翻訳、批評、小説など幅広くものを書いたひとです。

文士が酒について書くというと、ひとりよがりでハードボイルドな語りが始まるのかな、なんてちょっとひねた心配をしてみたりもしましたが、そんな心配は無用でした。

酒がテーマとはいっても、内容はいろどり豊かで、

酒の飲み方、味、風土との関係、肴、酒の種類、酒を飲む場所、などいろいろあります。興味のあるところから読み始めていいと思います。

僕は、酒を飲むとはどういうことなのかが語られる序盤がとくに面白かった。


言わば、無駄なものがそこにかなりあって、確かに酒を飲むならばガラスのコップでも、朱塗りの椀でも、別に違いはなさそうに思える。それにこの朱塗りの入れものは金沢の造り酒屋にしかないので、そういう風に考えて行くと、酒を飲むということそのものが既に相当な手間ではないかという感じがして来る。(「酒と人生」)

趣のある朱塗りの器で飲むことが、酒を飲むということであって、たとえば我々も、コンビニでビンに入った日本酒を買ってキャップをあけてそのままジュースみたいにごくごく飲むようなことはふつう、しません。ワインを買ったら家に持って帰って栓抜きでコルクをあけて、ワイングラスに入れて飲む。ビンを割ってその場で飲もうとするなんてのはすでに酔っぱらいであって、飲んでもない酔っぱらいは飲む必要も、その価値もない人である。みたいな。

酒を飲むって、ちょっと考えてみると意外と繊細でむずかしい問題だということが分かってきます。酔いたいだけなら、酒を飲む必要はなくて、注射をうったりするほうが手っ取り早い。ではなぜ……そう、合理的に問うてみても答えはない。その意味で酒はけっきょくのところ無駄であり、どこまでも非合理的なものでしかない。

「つまり、酒を飲むならば、こういう言い分に対して答えがないことを覚悟することから始めなければならない。」

まるで、人生のように。

こんなところから始まって、酒において酔うとは何かとか、なぜ大人は酒を飲むのかとか、酒を飲んで変わる人のこととか、面白い話がつぎつぎと出てきます。

もし酒に興味が無くても人生に興味がない人はすくないと思うので、けっこう色んな人にお勧めできる本だなと思いました。「コーヒー談義」みたいなものを書きたい人にもトピックの選び方が参考になりそうです。

最後に、文体について。

文章における文体は、音楽におけるリズムのようなもので、でも音楽よりもっと個人的なものです。だから究極的には、自分の書いた文章が自分にとって一番読みやすい文章ということにもなるし、あるいは、文体から個人的なものをできるだけ取り去って、読む人がその人のリズムを流し込めるような、いってみれば、文体自体にはリズムがない文体、のようなものをつくり出すこともできる。主に文学的といわれる文章には前者の意味での文体があって、そしてそれが文体である以上、読者のリズムと初めから一致してはいないので、読みづらい、ということになる。

でも、この相手のリズムをつかむ、そしてそれに乗っかるというのが、読書という行為の楽しみでもあるのだと思います。リズムがつかめると、内容がスッと入ってくるということもある。

これは、酒に似ていないだろうか。

酒の味なんてものははじめはよく分からなくてコーラの方が美味いよとか思うんだけれども、ちょうどいい感じに酔ってくると、いまの身体のコンディションに対して、手元にあるこれが最善の飲み物だという気がしてくる。吉田健一の文章を読んでいると、だんだんそんな風に思えてくる。

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