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DAY2.8:22 いま、ここにはない、フレンチの皿を巡って——

詩人たちは、なぜ人間はこんなに首が短くてもっと長く物の味わいを楽しむことができないのかと嘆いた。
BRILLAT-SAVARIN

きっかけは些細なひと言だった。

「フレンチの皿って、なんであんなデカいのにちょっとしか料理のってないんだろう」

祇園の夜から一夜明け、ホテルで迎えたこの旅最初の朝。
ビュッフェスタイルの朝食をそれぞれ思い思いに皿に盛り、ラウンジの空いている席に落ち着いたところで、向かいのFがそう切り出した。

「ほう」

と僕が適当な相槌で先を促すと、

「たとえば西洋の美術だと、もっと画面全部つかってびっしり描かれてるのに。余白の美学はもっと、こう…日本的なものな気がしてた…」

…あー……うむ。そうか、……なるほど。

「なるほど…。そうだな……ちょっと話がズレるかもしれないけど、料理じゃなくて絵のことに限定すれば、そのことに関連して俺も少し話ができるかもしれない……つまりだな、そうすると、さっきの問いはこういう形になる。絵画において背景を描き込むことにはどんな意味があるのか、と。……」

そうして僕は息を吸い、ゆっくりと話し始めた。
聖書や神話の記述に由来する、宗教的な題材を描くことが長い間主流であった西洋絵画の歴史について。絵画のメインとして描かれる対象のほかに、草木や花といった植物、動物、身近な調度品、そういったものの付置があらわす象徴的な意味について。また、それらシンボルとして書き込まれた小物のほかに、つまりその背後に描かれた、今度こそこれは純然たる背景だろう、と思われるものについて。
その「背景」は、かつては簡素なものでしかなかった。画家はその空間に何を見ていたのだろうか。主題を盛り立てるために、あくまで控えめに書こうとして筆を抑えただろうか。あるいは絵の最後の仕上げとして、デザートをいただくような上機嫌な気分で、自室の窓から見える風景を、誰にもそうとは告げずに、スケッチしたことはなかっただろうか。
時代が進むにつれ、徐々にその背景を細やかに、あるいは伸び伸びと自由に描く画家たちがあらわれた。それは、こうして現実に存在している自然を事細かに絵画の中に写しとってみたいという絵を描く者の純粋な好奇心だったのかもしれないが、それが遠近法といった具体的な技法として画家たちの間で広く共有されるようになったあたりから、絵画における「背景」は別の力、というか、意味を持ちはじめたように思う。「そこ」に、画家が自身の自然科学的な「世界観」を投影するという意味で…。

…いったいなんの話をしているのか、と思われたかもしれない。というか、普通思うに違いない。ちなみにこの間、皿の料理はまったく減っていない。僕らは手を動かしはじめた。そもそも、Fが、西洋絵画には余白の美学が希薄にみえるのに、フレンチの皿は余白だらけなのは何故か、と問いを投げかけたとき、そこで僕は絵画と料理ではコード(規範)が違うからだろう。と答え、料理は盛りだくさんに盛られているよりも、量としては少なく見えるほうが、人間は慎重に味わって食べなければというマインドがはたらいて、食事の内容が豊かになるんだ、と、いつかどこかで聞きかじった知識をもっともらしく披露して、そこで会話を終わらせることもできたはずだ。そうしたら今、目の前の皿には何も残っていなかっただろう。でも、そうはしなかった。そんなことをして何の意味がある?

じゃあ、逆にそうしないことには?僕がFとの会話をなかば強引にも見える形で引き延ばし、たいした知識もないのに頑張って、長々と謎の語りを続けたことには、何の意味があったというのか。

その問いに答えることはできそうにない。少なくともこの時点では、僕はその意味をまったく理解していなかったからだ。ただ、それでも言えることが二つある。

(こいつ、よく限界まで盛ったビュッフェの皿を前にしてフレンチの皿の話を始めたな…いや、この盛りだくさんの朝食があってこそ、むしろその逆であるフレンチの皿のことが頭に思い浮かんだのか……)

そう考えると、人が何かを考える、そのきっかけを得た瞬間に立ち会ったような気がして、僕はこのとき不思議な感動を覚えていた。

それから、朝のホテルのラウンジでFが口をひらいたとき、なんか、面白くなりそうだな。——漠然とながらそんな予感がしたこともまた、確かだ。
だから僕は背中を押されるようにして、遮るのではなく、ただ——その先を促した。

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