見出し画像

僕らの扁桃腺摘出戦争

【終戦直後】

目を覚ますとそこは自分の部屋だった。真っ白な壁にまだらに穴の開いた天井と、薄緑のカーテンで仕切られた6人部屋の一画。鈍い喉の痛みで手術が終わった後なのだと思い出す。

普段なら家族が面会に来る場面だが、新型コロナウイルスが蔓延するのを防ぐため、入院患者以外は病室に入れないようになっている。

そういえば手術の前、これから入院すると思しき老夫婦が病室のあるフロアのロビーで「しばらくお別れね」と話していてどことなく切なくなったのを思い出す。

いつもなら誰かそばにいて欲しいなんて思わないが、弱っている時に限っていて欲しいなんて都合が良すぎるよな、と少し自虐的になる。

ふと時計を見ると午前11時半を刻むところだった。

そろそろお昼ご飯かと楽しみにするところだが、扁桃腺摘出をしたため今日は一日食事なしだ。

食べるのが好きな僕にとってこれは地獄だ。

今日という日があと12時間も残ってると考えると気が遠くなる

〜〜〜〜〜〜

【入院3日前】

この日の僕は珍しくバタバタしていた。

入院の準備をしなくちゃいけないのもあるが、こんな時に限って仕事の依頼が舞い込んできたのだ。

しかも3件。

フリーランスの音楽家をやっている僕の生活スタイルはというと、好きな時間に起きて、好きな時間に依頼が来ていれば作業を進め、来ていなければプレゼン用の曲をせっせと作る流れだ。

つまり、急ぎの依頼が来ていなければ(と言っても来ていないことの方が多いが)、語弊のない言い方をすれば基本的にヒマなのである。

この日に来た依頼は、メールで添削する形の編曲のレッスンと、ギターのレコーディングが2件だ。

集中して一日で終わらせることも可能だが、元々プレゼン用に作っていた曲を放り投げるわけにも行かず、入院中も最低限の作業ができるようにノートパソコンにデータを移したりと地味にやることがあったのだ。

残り三日でこれらを終わらせなければいけない。

できる範囲で作業を進めていると夕食の時間になった。

入院に先駆けてPCR検査を4日ほど前に行ったのだが、引っかかった場合のみ電話で連絡が来ることになっている。

僕はというと大丈夫だろうと高を括っていたので気にも留めていなかったが、母の方が不安だったようで家の電話が鳴るたびにビクビクしていたそうだ。

電話が来るとしても自分のケータイにだということを枝豆を食べながら伝えたら軽く怒られた。

そういうことは先に言いなさい、と。

これについてはその通り過ぎて何も言い返せず、低いうなり声をあげるだけだった。

〜〜〜〜〜〜〜〜

【入院前夜】

この日の夕飯はご馳走だった。聞くところによると扁桃腺摘出後、しばらくは堅いもの、かみしめるもの、辛い、酸っぱいなど刺激の強いものは避けなければいけないので、食べ納め(この表現はおそらく正しくないが)として母が作ってくれたのだ。見ればヒレカツにマグロのマリネ風、バジルのフェットチーネに家で育てているゴーヤのフリッターというメインディッシュのオンパレードのようなメニューだ。

こんなにすごいご馳走が出てくるなら入院も悪くないかもなんて錯覚してしまいそうだ。(なお、この考えは後で覆る)

夕飯を終え、漫画の寝言かと思うような「もう食べられない」を発した後の僕にはまだお楽しみが残っていた。酒だ。術後、お酒は1か月ほど控えるようにと主治医から警告されていたため、このチャンスを逃したら次は1か月待つことになる。予約が取れないレストランじゃないんだから。

誕生日プレゼントに友人からもらったウイスキーをのどに流し込み、いい気分になったところで自分の部屋に戻る。データの整理や、先日の依頼が1つ残ってる状態だからだ。

ちなみに入院は明日だが手術は明後日になる。つまり明日は入院してからまる一日、何もやることがないのだ。暇を持て余したらどうせ寝るだろうと想像した僕は、今日という日を最後まで有効活用してやることにした。徹夜だ。

父は仕事をしていたころ出張が多く、前の日は今の僕と同じように徹夜すると言っていた。新幹線や飛行機の移動は手持ち無沙汰になることが多いので納得した。

家じゃないとできない作業(ギターの録音とか)を終わらせ、残りの依頼も終わらせ、データの整理や移行をし、休憩がてらゲームをやっていたら外が明るくなってきた。東京の朝は5時。

データの整理は終わったが、病院へもっていく荷物はまだまとめていない。ここで機材を忘れたら今までの時間はなんだったんだ・・・となってしまう。着替え、歯ブラシ、シャンプー、本やゲーム、音楽系の機材をすべて入れ終わったところで大事な忘れ物に気づいた。カエルのぬいぐるみだ。僕はカエルが好きだ。なんで?と訊かれると、はっきりとした理由がないのでいつも困ってしまうのだが好きなのだ。好きなものに理屈なんてない。

カエルのぬいぐるみを入れるために用意していた紙袋を一回り大きいものに替え、入れなおす。

荷物をまとめ終えた頃、時刻は6時半を回っていた。

入院受付が9時半で9時に家を出れば間に合う。朝ごはんはしっかり食べる派なので8時半までの間、仮眠をとることにした。

~~~~~~~~

【起床そして入院】

9月の下旬だというのにこの日は暑かった。病院へ到着したタクシーから降りると秋らしからぬ日差しから出迎えてくれた。年中、部屋に引きこもって作業をしている僕からしたらこんなにありがた迷惑なことはない。野菜は元気に育ってくれるからうれしいけれども、などと考えながら逃げるように院内へ向かう。

入院の手続きはというと非常にあっさりしたもので、受付でラミネートされた大きい番号札を渡され、やや待つと係の人が案内にやってきた。

病室へ着くと入院一週間の流れを説明された。

明日が手術で当日は絶食。翌日からのどの具合を見て重湯、3分粥、5分粥、と食事を一般食へ戻していくそうだ。術後の状態をあらかじめGoogle先生に訊いておいたところ、痛くて食事どころではないとか、あおむけで眠れないから横向きで寝るべしとか注意すべきことが色々と出てきた。こういうのを見るとビビってしまいそうだが、僕はというとそもそも経験していないものは心配したって仕方ない、と割り切っているのでそこまで気に留めていなかった。

この日はやることがないので本を読んだりゲームをして過ごした。

あと、数日は入浴NGと言われたのでシャワーを浴びた。

手の届く範囲にベッド、本、ゲーム、パソコンと僕の生活の中で大きな割合を占めるものがそろっているというのに、しばらくすると暇を感じ始め、特に何をするわけでもなくケータイをいじり始めた。欲しいものや必要なものはすぐそこにあるのにとんだ贅沢だ。

入院日の食事はというと、手術前でどこも悪くないため普通のごはんが出てきた。

昼は麻婆豆腐、夜は親子煮(親子丼の上の部分)だ。

病院食にしてはなかなか良いじゃないかと上から目線の感想を抱きながら、特にありがとうございます有難く思うわけでもなく、普通に食べてしまった。

これから一週間以上はこういう食事ができないというのに罰当たりな奴だ。

家にいるときは深夜の3時とか4時に寝る生活をしていた僕だが、病院では22時に消灯時間というものがあるため、いつまでも起きているわけにもいかない。実際のところ起きていても問題ないのだが、定期的に巡回している看護師がのぞきに来るため無言の圧力を感じた。

22時に部屋が真っ暗になると不思議なことに、1時間も経つとそろそろ寝るかという気分になってくる。無言の圧力に屈したのではない。寝るという選択を自らしたのだ。

そんなことはどうでもいいが。

~~~~~~

【開戦の朝】

開戦の狼煙が上がったわけでもないのに手術の待合室には母が来ていた。しばらく会えなくなるので顔を拝みに来たのだろう。フハハハハ、くるしゅうない。とくと拝むがよい。嘘です心配してきてくれて本当にありがとうございます。

手術室へ向かう僕に母は「頑張ってね」と声をかけてくれた。僕は麻酔で眠っているので頑張るのは医師なんだけどな、などと思いながら部屋に到着した。

手術室はというと、テレビドラマで見るようなごつい機器がたくさんあり、なかなか見れるものでもないので無駄に興奮していた。事前確認として、アルコールによるかぶれを起こさないか等の質問を受けるのだが、おそらく興奮でニヤニヤしていたと思う。この時ばかりはマスクに感謝した。これから手術を受けるというのにニヤニヤしていたらただの変人だ。

一通り確認が終わるとベッドへ案内され横になる。

点滴を打ち、額に「何か」をつけられた。これをつけられるとき「少しちくりとしますよ」と予告をされていたものの、あまりにギュウギュウ押し当てるもんだから思わず笑いそうになった。

麻酔で眠った後に色々な器具をつけて手術を始めるらしいのだが、始める前にその時の自分の姿を写真でとってほしいと医師にお願いしたところ、当たり前だが断られてしまった。ダメもとで頼んでみたものの、今回ばかりはダメだった。

ほどなくして麻酔が効いてくるのが体に伝わった。

こういう時についついやりたくなるのが、どこまで寝ずにいられるか、だ。

「ゆっくり深呼吸してください。1.2.3.4.」という声に従い、深呼吸をはじめる。1.2.3.4。なんだ余裕じゃないか。100くらいまでは行ける気がしていた。そのまま数え続け、8回、12回、16回と数えた以降の記憶がない。記録は20にも届かなかった。

~~~~~~

【術後2日目】 


「術後はのどから出血をしているため、唾液は飲み込まずに捨てるべし」
入院前に見たGoogle先生からの忠告でこんなものがあった。
実際はどうだったかというと、確かに出血はしているものの口蓋垂(のどちんこ)が腫れて飲み込むどころではなかった。言葉を発するのでさえも一苦労だった。これは手術翌日には収まったからよかったのだが、なるほど手術当日が絶食な理由もうなずける。のどに負担の重い食事(堅いもの、酸っぱいもの、辛いもの等)をすると再出血のリスクが高まるので注意しなければならないのだ。
長い長い絶食の一日を終え、ようやく食べ物を口にできるとワクワクしていたのだが、この日の食事はほぼ液体だった。重湯(おかゆの上澄み液)、スープ、お茶、ヨーグルトというラインナップだ。腹持ちが悪そうなことこの上ないが、意外と大丈夫だった。途中で空腹を感じでゼリーを食べたりもしたが、それよりも食事を口にできる喜びのほうが大きかった。
食べ物がのどを通るときに痛むので、朝晩の食事の前には痛み止めが渡された。
しかしこれが錠剤なので今日のごはんと比べると大分ヘビーだ。飲み込むのがつらくて粉末状につぶしてもらう人もいるそうだ。
意を決して痛み止めを飲み込む。
・・・あれ?
思ったよりも・・・というより、まったく痛くない。
正直、錠剤を飲み込むときは苦しいのだろうと覚悟していたので、逆にすかされた気分だった。もちろん痛まないほうが良いのだけど。
術後の状態が思ったよりもつらくないので、このまま退院まで乗り切れそうな気がしてきた。

~~~~~~

【退院前夜】


それからというもの、特にこれといったトラブルもなくこの日を迎えることができた。毎朝、医師の診察を受けに行くのだが経過は良好。特に問題なさそうとのこと。退院後、友達と遊ぶ予定やギターをメンテナンスに出しに行く予定、レッスンを行う予定があったのだがこれはすべて延期にしてもらった。
回復が最優先だ。


あれからも術後の苦しく無さに逆に戸惑いながらも、暇を持て余すこともなく過ごせたのはラッキーだった。事前にパソコン、ゲーム、読んでいなかった小説2冊+新しく買った小説2冊+兄が買ってくれた本1冊の合計5冊を用意していたので、全部読み切れていない。
本当は見ていなかったアニメを全部消化しようと思っていたのだが、途中でWiFiの通信制限に引っかかってしまい、いつまでたっても読み込みが終わらない状態に入ってしまったため、断念した。
これは帰ってからのお楽しみということにしよう。


入院中に一つ困ったことといえば(といっても大して困りはしなかったが)ひたすら眠かったことだ。毎日22時には消灯。2時間くらいゲームをやったり本を読んだりして、24時過ぎには布団をかぶり目をつぶる。寝れない。思えば普段は3,4時くらいまで起きていたのだから無理もない。そう思いながらもしばらくすると眠りに落ちていた。
・・・が、6時頃に同室の患者が看護師と話す声だったり、7時には朝の血圧や体温の測定に看護師が来るのでどちらにせよ睡眠時間は短かった。
昼食、夕食の前には毎日1時間くらいは仮眠をとっていたと思う。
母は、僕の入院中の生活で昼夜逆転生活が戻ることを期待していたがちょっと難しそうだ。


最後の病院での食事が到着する。
思えば薄味ではあるが、毎回少しづつ違う味付けがされたものが出てきており、食事で飽きないような工夫がなされていたと気づく。
とはいえ、食事はかなり質素なもので一食あたりのカロリーが600kcal以下のものが多く、入院当初は60キロあった体重も57キロまで落ちてしまった。


ちなみに30代成人男性の一日の摂取カロリーの目安は2250kcalとのことだった。そりゃ体重も落ちる。
入院前は毎日筋トレを行っていたのだが、しばらく運動もNGといわれてしまったので退院後もしばらくは体重が落ちていくのが予想される。
食事も筋トレも今まで通りできる日が待ち遠しい。

~~~~~~


【退院、過ぎ去りし時を求めて】


入院の日を思い出す。あの時と同じく、もう10月だというのにこの日は最高気温が27度と高かった。思い返せば入院中はベッド、風呂、トイレ、動いたとして下のフロアの売店くらいの行動範囲だったため、重い荷物を持って外を歩けるだけでも何故か少し楽しかった。


しばらく歩いていると金木犀の優しい香りがやってきて、ようやく秋らしくなってきたと感じる。
上を見れば病室の白い天井とは違う、どこまでも高く青い空が広がっていた。
のどの痛みはまだ残るが、また友達と笑いながら飲みに行ける日を楽しみにしながら、僕は家の扉に鍵を挿し、ゆっくりと回した。

~~~~~~

【あとがき】

ここまで読んでいただきましてありがとうございます!

この文章は僕が扁桃腺摘出手術を受け、その後のことを記録をエッセイ風にしたものです。ほぼ実話に基づき、ほんの少しフィクションが混ざっています。

入院前にいろいろ情報を調べていた時は術後大変・・・!という意見が多く、それなりに覚悟していたのですが、僕の場合はそこまででもなく、逆に医師や看護師から驚かれましたw

家にいるとダラダラしていると少なからず「仕事しなくちゃ」っていう気持ちがよぎっちゃうんですけど、入院中はそもそも環境的に無理なのである意味リフレッシュはできましたw

本編には出てきませんでしたが、最後に共有スペース(テレビとか本とか置いてある場所)に飾ってあった切り絵が素敵だったのでこれにて締めとさせていただきます。

切り絵、ちょうど興味あったから見れて嬉しかった。

画像1
画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?