美味しくないお茶
新社会人の江本さんは春、とある会社に事務スタッフとして就職した。
「事務所でずっと数字と睨めっこしているだけの仕事なんですけどね……。座り仕事をずっとやるわけだから、皆何かと立ち上がる用事を自分から作ったりしてて。お茶汲みとか。新人の私より皆行動がはやくって、逆に私はお茶を淹れてもらうばっかり。紅茶とかコーヒーとかが本当に美味しくって」
事務室では江本さんを含めて4人の女性が働いていた。
1番上は60代手前の女性で瀬戸さんという1番の古株。
あとは40代の宮下さん、30代の藤野さん。
江本さんは20代前半だったので1番歳下である。
座り仕事が根を詰めてくると誰からともなくデスクから立ち上がってお茶を淹れたりお菓子を配ったりしはじめる。
4人しかいない職場で雰囲気は悪くなかったのだが一度、就職したてでチクりとした瞬間があった。
「働き始めてすぐなんだけどちょっとイジメかなって思っちゃった事があって」
それは江本さんが働き初めてすぐ。
事務所内にある備品の説明をひとしきり受けた時に瀬戸さんから「お茶や紅茶は自分で持ってきなさいね。あとそのお茶は自分のデスクで管理して」という話をされた。
「だって、あったんですよ。ポットが置いてある棚の所に、誰でも飲めるような感じで茶葉も、ドリップコーヒーも」
江本さんは“新人なのだから自分で自分のものは用意しろ”と、軽い洗礼のような物を受けているのかもしれない、と、そう邪推した。
表面上は仲良くしているけれど、心の中では……なんて珍しくも無い事だ。
「だって、会議で他の社員さんに出すコーヒーとお茶はそこの棚のを使ってるんですよ。皆飲んでいいのに、私だけダメっておかしくないですか?」
見れば、瀬戸さんだけならず宮下さんも藤野さんその茶葉やコーヒーを淹れているように見える。
「なんでわたしだけ……って思ったんですよね。
腹が立ったからちょっと良いお茶を買ってきて見せつけるみたいにその棚の中に入れておいたんです。自分で持ってこいって言われたから、いいお茶を飲んでやろうと思って」
そういうわけで、江本さんは近所のお茶屋で“ちょっといい日本茶の茶葉”を買って、棚の中に入れておいた。
「それで、3日位後になってからしれっとその棚からお茶を取り出して、自分のお茶を淹れようとしたんです」
江本さんは何食わぬ顔で棚から“玉露”の茶葉を取り出した。
「あっ!」
声をあげたのは瀬戸さんだった。
苦い顔を江本さんに向けている。
「ちょっと、そのお茶……」
「えっ。何か問題ありましたか?」
「デスクで管理しなさいって言ったじゃない……」
「……でも、ここに他の人も茶葉とかドリップコーヒー置いてますよね……?」
瀬戸さんが「ああ……」と苦い顔をしていると、宮下さんと藤野さんが「どうしたの?」「何かあったの?」と声をかけてきた。
ただ、江本さんが手にお茶っ葉の袋を持っているのをみると「あ」「ああー」と納得したような顔をした。
江本さんがどういう事か説明を求めようとした時「あのね」と言いながら瀬戸さんが自分のデスクに戻ってジップロックに入った紅茶のティーパックを取り出した。
「……あれは専務とか課長とか社長に出すお茶。わたしのはこっち、宮下さんも藤野さんも、自分のデスクに自分のお茶をいれてるのよ」
「……えっ、でも……なんで……」
「……そのお茶淹れてちょっと飲んでみなさい、そしたらわかるから……」
「えっ?どういう事」
質問を重ねようとしたが両側から少しイタズラっぽく笑った藤野さん宮下さんの2人が「まあ、いいから飲んでみて、わかるの……私達も最初……ねえ……」「そうそう、飲んだらわかるから……やっぱり実体験が1番だし……」と江本さんにお茶を淹れる事を促したので、大人しく手に持った玉露を淹れることにした。
「それで皆が見てる前で一口飲んだんです」
口の中、舌を突き刺すような渋みと苦味が広がった。
玉露といえばまろみのある甘味に程よい苦味が特徴の高級茶である。
江本さんは思わずお茶を吹き出した。
「えっ、なんで!まずい!」
「……あのね……あれのせいなのよね……」
瀬戸さんがすいと棚の上のあたりを指差した。
そこには一つ神棚が飾られている。
「あの神棚ね、事務所が出来た時から飾られてるんだけどね……。あの下の棚にお茶をいれておくと何でか知らないけどお茶が凄い不味くなるのよ……」
「えっ?でも……あのお茶、専務とか課長とかに……」
「この話は事務の皆だけの秘密よ……?」
瀬戸さん曰く。
かつて、若くしてこの会社に入社した頃、何をどうしてもこの棚の下にお茶を入れておくとことごとく不味くなってしまう事に気がついた。
若かった瀬戸さんは、いつもお茶が不味いと叱られていて泣きながら急須を洗った事もある。
神棚を眺めながら、お茶が不味くなりませんように……と祈った事すらあるらしい。
それでも、神棚の下の棚にお茶を置くと不味くなるばかり。
一度、お茶の置き場所を変えてみよう……とダメ元で自分のデスクでお茶を管理してみたところ、それが「正解」だったという。
お茶の味が美味しい。
瀬戸さんはすぐにお茶の置き場所を変えてみた。
お茶は劇的に美味しくなったし、保管場所が悪かったのだという事がその時はっきりとわかったという。
しかし。
お茶を管理する場所を変えたその日から、急に会社の売り上げがガタンと落ちてしまった。
例年通りならば繁忙期とも呼ばれる時期。
心当たりのない売り上げの低迷、社長は毎朝の朝礼と帰る間際にパンパンと神棚に手を合わせていた。
瀬戸さんは何となく、あの神棚と、置かなくなったお茶が気がかりになっていた。
(もしかして、あのお茶がお供えものになっていたのかもしれない……)
お茶は美味しくなったけれど……これでは……と、そろばんを弾いていた瀬戸さんは内心戸惑いながら再びお茶を置いてみたのだという。
「そしたら不思議な事に売り上げが戻ったのよ……。もちろん、お茶はまた不味くなったけれどね。あの神棚はたぶんお茶が好きなのね。今日は玉露の旨味全部吸ったから、売り上げがバコンと上がるはずよ……」
だから、自分で飲むお茶は大事に自分で管理してほしいのね、と瀬戸さんはそう言ってデスクから何とも高そうな紅茶を取り出し江本さんにくれた。
「瀬戸さん……あの、課長と社長と専務……棚のお茶を出して大丈夫なんですか……?なんていうか……」
「……だって捨てるのは勿体無いでしょ?ちょっと薄めに淹れるのがコツなの、良い塩梅で苦味が感じられるみたいで。私、あの3人にお茶が不味いお茶が不味いってずっと苛められてたんだからそれ位良いのよ」
……なるほど、それもそっか、と頷いた江本さんも最近では不味いお茶を淹れる事に慣れてきたので、何食わぬ顔で棚のお茶を課長達にお出ししている。
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