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夜、公園、人間探し/体感研究報告書

“しゃんとしないから逃げる”という宣言通り、しゃんと更新していない。あれこれ書きたいことはあるけど、リサーチ不足やまとまり不足で公開にまで至らない。日記にしては1日に対して抽象的すぎて、エッセイにしては薄すぎる。とはいえ“体感”を素直に報告したいのがこの報告書の目的でもある。

日記を書き続けている人は、「自分に正直に」をモットーに、書くことがない日も「書くことがない」と書くそうだ。自分に向き合うことと習慣づくことの偉大さを感じざるを得ないとともに、書くことがない、と書くことすら忘れてしまう自分の意志の弱さは改善の見込みがない。書くことがない時に書かなくていいや、とこの瞬間も思っているからである。なんと意志が弱く、自分に甘いのか。2024年4月現在、やっぱり日記という日記は向かなさそうだ。

その代わりと言えるかわからないけど、思い浮かんだものをつらつらと書くジャーナリングはしていて、毎年必ず買う手帳と持ち歩いているパスポートサイズ用のノートにあれこれよく書き込んでいる。定着はしつつもこちらも書いたり書かなかったりとムラがあるので、やはり課題は習慣化なのでしょう。

しかし、書かない期間が続くと、自分が何にどんなことを感じたのかついつい見逃してしまう。覚えておこう、とその時は頭で思ってもたいてい忘れてしまうのが通例。そしてリスペクトする文筆家や頭の冴える人たちの発言や意欲的な活動を見て、無感に過ごしてしまった時間と自分に後悔するまでがセットだ。鈍感になればなるほど自分を見失うので非常に良くない。

自分という人間が何に興味を示し、何を知りたがっているのか、何を伸ばしたがっているのか。その反応には常に目を光らせて、耳を澄ませていないといけないと改めて思うばかり。一向に自分探しに終わりが見えていないのだから、尚更のことである。自分をより研ぎ澄ますためにも、この体感研究報告書の研究材料や検証を進めるためにも、4月末から5月は小さなことでもアウトプットするように努めよう、とここで目標を立てておきたいと思います。

最近わくわくすることといえば、心地よい夜時間である。最近は夜に出歩くのが気持ち良い季節になってきた。街が静まり返る頃に家を出て公園周りを歩き、人がいなければひっそりお邪魔し、コーヒーを飲みながら息をする時間に当てさせていただく。年齢的にも環境的にもそんな自分を咎める人はもういないけど、いまだにちょっといけないことをしているみたいでドキドキしている。

仕事や飲み会から0時を過ぎて帰宅することと、10時ぐらいに家を抜け出して公園に行くことだと、後者の方が「やってんなぁ」と思う。その時間に余裕があるって贅沢だよねっていう大人的視点と、出歩くには遅いという子ども的視点が混ざって、ドキドキしているんだと思う。

しかし、たいていどの公園もカップルの名残惜しい居残りか、やんちゃな集会が行われているので、入れずじまいでUターンするのだけれど。


夜の公園で人と話す時間も好きだ。電話で話すことが多いけど、対面だともっといい。ちょうど先日友人と長話をした夜があった。座り込むには気温もちょうど良かったし、近くでシャドーボクシングをする男の人がいて、遠くで誰かが晴れやかに歌っている、その空気感も良かった。その一角で私は友人を捕まえて、形のない知恵の輪を解くのに勤しんだ。

自負する限り、私はとりとめのない話やネタを多く抱えがちで、人に正しく伝えることが苦手である。(ライターとしてどうなの?と思う)その癖、話をわかりやすくまとめて、身近な環境に順応できるような回答に落とし込むことは求めていないという、たいそういいご身分なのである。

いろんな人にいろんな質問を投げかけることは大好きだけど、わりと奥の方で悶々と考えている(性癖まで関わってくるような)とりとめのないネタに対して「これってどういう意味?」「これってどう思う?」と素直に聞くことができる相手が非常に限られている。もしかしたらシャイなだけかもしれない。

じゃあどういう人がフィルターを通過するのかというと、こればかりは感覚でしかないので言語化が難しいのだけど、頭が冴えるけどちょっとクレイジーな人というか、「宇宙人がいないといえる理由って何?」って言うタイプの人というか、身近な環境に適用できる回答に落とし込まない人みたいな。そういう人に出会えるとわなわな震えるし、その人に何かを尋ねたりディスカッションしたりできるチャンスに恵まれれば、問いに問いたくなってしまい、結果長話に付き合わせてしまいがちだ。

その日の夜も、そんな欲が絶好調だった。友人は聡明で頭の回転がはやく、熱があってドライでもある人。哲学とユニークと人間的ナチュラリズムを重んじた思考と発言がとにかく興味深い。その知恵をお借りしようと、好奇心が頭から喉を通って垂れ流されていった。

理解と認識をするために我々はジャンルをつけて分類をするけれど、本来隔たりがなく繋がるものがあって、それを両立するためにどうしたらいいのか。一人取り残される状況に、怖いと思う傍らで快感が生まれるのはなぜか。「ララランドが苦手な人はグレイテストショーマンが好き」という説は本当なのか、などなど。
多方面に飛ぶとりとめのない話を、仕事を終えて絶賛お疲れモードの友人にぶつけては見解を問うた。書いていて相手に酷いことをしているではないか、と反省してる。

頭の冴える友人は面白いと思うことは拾い、わからないことはわからないと言い、曖昧を認めながらも自分的イエスノーで一刀両断する。それが清々しくて痛快だ。脳汁がだばだば溢れる。

こういった類は己の研究を重ねてでしか答えが生まれないので模範解答はなく、そこで全ての最適解が見つかるわけではない。しかし、このディスカッションやブレストによって「この説はありうるのかもしれない」と期待したり、逆に期待破れて打ちのめされたり。新しい糸口が出てきて脳が洗われていくというか、その時間が最高に気持ち良い。自己満足の権化です。


「坂本龍一トリビュート展」にて。壁面に書かれていたこの言葉がとても好きです。自然と論理。教授をきっかけに知った「フィシス」と「ロゴス」について日々考えています。


日々ひたすらに爪を研いで研いで、研ぐ人は、人の優れたものにも不足にも敏感で、その正体を突き詰めることにも長けている。そしてそれを相手に突きつけるかどうか、どの程度突きつけるかまで瞬時に判断して、厳しく放つ時にはフォローまで入れる。
そんな出来過ぎた人が美しい所作を手放し、気遣いから外れる瞬間というのが一番好きだったりする。生活のために隠された欲と怒りが、浮かび上がってくるような気がするから。

とはいえ、自分のこともわからないような私だ。これらの分析はあくまで、友人の好きなところを並べたまでに過ぎなくて、知らない友人の情報が出てくるたびに、「ああ、実際はほんの一握りもこの人のことを知らないんだろうな」と思った。
ふと学生時代に愛聴していたpegmapの「肖像」のサビが頭に流れた。「いったい君はどうやって今まで生きて来れたの?」何があなたをそうさせたのか、知らない知りたいことが山ほどあって、ただただ楽しい。


世界のことも音楽のことも人のことも。目の前にいる人のことも、よくよく知ったつもりでいたあの人のことも。よくわかってるなとか通じ合ってるなとか、そういうの全部幻だったんじゃないかと思うことも最近はよくある。

「よし、これ通じ合ってるなって思ってても、こちらは西武池袋線であちらは西武新宿線ってこと、よくあるよなぁ」
言い得て妙である。


話し込むなかで、何かの拍子に「おまえさんは高尚なやつだな」と言われた。高尚であるかどうかはさておき、そんな言葉を初めて人から使われたのでびっくりした。
高尚という言葉を使うあなたこそ高尚な人だね、と思いながら隣を見たら、その人の手元にアイコスと紙タバコが転がっていた。9割のタールを削減して、9割のタールを取り戻す。高尚とは離れた行いに、人ってほんと面白いよなぁとぼんやり思った。


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