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20代前半で鬱病になった話#2


いいか、鬱病なんて誰でもなる

 私は大丈夫。私は鬱病になんてならない。そういや、鬱病になる直前までそんな出処不詳の謎の自信に満ち満ちていたなと思う。今ならあの時の自分を鼻で笑ってやる自信しかない。エージェントを通さずに10代で1年間の台湾留学を経ていたからなのか、あれより厳しい環境なんてそうそうないのだから鬱病なんて自分には無縁だと決めつけていたのかもしれない。

 全ての始まりは、胸の痛みだった。当時、私は韓国に本社を置く会社の日本法人に勤めていた。外資といえばそれっぽく聞こえるかもしれないが、実態は目も当てられない程に杜撰な組織で、韓国ではそこそこの大きな会社らしいが、とてもそうは思えないまでにグダグダの会社だった。

そんな会社で勤続三年目を迎えようとしていたのだが、数ヵ月間続いていた胸の痛みがいよいよ無視できないレベルにまで悪化していた。仕事へのストレスやプレッシャーで食事が喉を通らない状態だけだったのだと今では冷静に分析できるのだが、当時は運動もしていないのに日を追うごとに自然と減少していく体重に不信感と恐怖を覚えて、鉛も驚く程に重い腰を上げて近所の総合病院の内科を受診することにした。

無論、何かしらの病気が診断されるとばかり思っていて、癌だろうか…それとも自分の知らない他の病だったらどうしよう…なんて、グルグルと陰鬱な思考を巡らせながら検査を受け、結果を待っていた。しかし、医者に呼ばれて告げられた内容は私の予想全てを裏切り、尚且つ私を大きく動揺させるものだった。

「全く異常がありません。何処にも悪い処が見つかりません。身体は健康そのものです」

 拍子抜けしたと同時に、酷く困惑した。それじゃあ何なのだと。現に今だって胸が痛くて苦しいのに、検査的に異常がないのであれば身に起こっている確かな異常は何なのだと。

唖然としながら医師からの言葉に耳を傾けていると、一瞬相手が神妙な顔つきになって少し発言に躊躇う様な動作を見せた。それからほんの少しだけ間を置いてこう言った。

「心療内科の受診を考えてみた方がいいと思う。心療内科と聞くと重く受け止めてしまうかもしれないけれど、そんなことはなくて気軽に行ける場所だから一度行くことを勧めるよ」

心療内科。自分が絶対に行くことはないであろう場所の名前に、ショックを覚えたしふざけるなと思った。まぁ、結論から言うとこの時担当してくれた医者の見る目は確かだった訳で、私は滅茶苦茶に心療内科にふさわしい人間だったのだけれど、まだ二十代前半でこれからキャリアを積んで先の長い人生を駆ける気でいた私には、とても受け入れ難い台詞だった。

何の薬も処方されることはなく、次の予約なんて取る必要もなく、呆気なく診療は終わり、領収書だけを片手に帰路に就いたのを鮮明に覚えている。そんな時ですら、胸の痛みは健在で憎らしかった。

 そうして私は愚かなことに、この診断結果を信用せず何かの間違いだと言い聞かせて更に胸の痛みを放置することとなるのであった…―。


心療内科へ強制連行~そして幕を開けた闘病生活~

 最初の内科受診からどれくらいが経過したのか判然としないが、少なくとも一ヶ月以上は過ぎていたかと思う。胸の痛み?言うまでもなく順調に悪化していた。その頃には夜眠れないなんて事が日常になっていて、胸が痛くてトントン軽く叩いたり擦ったりして誤魔化しながら右へ左へ寝返りを打っていたら遮光カーテンの隙間が明るくなって、陽の光が射し始める。まだ社会人二年目だというのに、面接採用などの人事的業務や営業、更に自分より遥かに年上の人生の先輩への教育業務。本社の人間が出張で来た際の食事処の予約や、社長との食事会への出席。本来であれば、ただ事務的業務を行う仕事だったはずなのに、いつの間にか私の業務はこんなにも増えてしまっていた。

 人材が不足しているからその分の穴を埋める為にどうしようだとか、休日出勤したりだとか、職種的に常にインバウンドのお客様と関わる仕事で、コロナなんていう病が爆誕する前の観光全盛期だったので殆どの客が中国人だったあの頃。必要事項や決まりをしっかり熟読したり下調べしたりして来ない相手の逆ギレと暴言を一心に浴びる毎日で、そりゃあ精神的に参るよなという状態ではあった。それも中国語できる人間が少なかったせいで、ほぼほぼトラブルがあれば全て押し付けられるという感じだった。それなのに中国語手当などはなく、かと言って後から入社してきた社員より多い仕事量をこなしていても全く同じ給与で、兎に角、自分が頑張ったって自分に還元される事など一つもない環境で働いていた。当然、辞めちまえば良い話なのだが、石の上にも三年らしいし最初の会社ですぐ辞めるなんて…と昭和世代の母親の言葉を反芻しては思い留まっていた訳なのだが、石が暖まるよりも身体が悲鳴を上げる方が先だった。

「明日心療内科予約したから、お父さんと一緒に行こう」

 ある日、唐突に口を開いた父親の発言に吃驚したが「嫌だ。心療内科なんて自分がお世話になる場所じゃない!」そう拒否する元気も最早残されてはいなかった。寧ろ、少し安堵する自分がいた。普段は穏やかで優しい父親がこんなにも強引な行動に出るなんて珍しかった。きっと、自分では心療内科に電話をする事もなかっただろうから、ここまで行動に出てくれた父に今では感謝してもし切れない。かくして、抵抗らしい抵抗をするHPもなく、私は父親に引き連れられて人生で初めて心療内科の門を叩いた。

 問診票を記入して、看護師と個室で二人きりで身体に異常が出るようになったまでの経緯を話す。当時、既に普通の精神状態ではなかった私は、何をするにも自信がなくて、父親も同席して欲しいとお願いしたのだが、どうやら父親と娘で診察して貰いに来るのは非常に珍しいらしく、後々分かったのだが父親が暴力的な事を働いてそれで心の元気がなくなった娘が自分が悪者になる失言をしない様に見張る為、娘にさも自分の意志かの様に同席させて欲しいと言わせながら、本当は父親の意志で同席したがっている…というケースを潰す為に、看護師と二人きりにならされていたらしい。

 父親からは何もされていないのかと問われた時に、病院側の真意を理解して、憤りを覚えたが、確かに様々な親子が存在してそういう可能性もゼロではないなと思い直した。しかしながら、心から大好きな父親がそういう目で見られた事は一番悲しかったし、そんな目を向けられる機会を作ってしまった自分が情けなかった。

 父親が原因でないとしっかり理解して貰ってからは、父親も同席させて貰い会社の話や抱えてる不安と恐怖をポツリポツリと零し始めてから驚いた。自分で想像していた以上に苦しみが溢れてきて、ダムが決壊したかの如く大量の涙を頬を伝っていた。嗚呼、自分ってここまで限界を迎えていたのか。ここまで、全て見ないふり気づかないふりをしていたけれど、ここで漸く自分の精神面の崩壊をしっかりと自覚した。自覚せざるを得なかった。看護師との面談後、いよいよ心療内科医の診察の時がきた。そこでしっかりと症状の話をして、上手に言葉を紡ぎ出せない部分は父親がフォローしてくれて、何とか初めての診察を終えた。 

「適応障害ですね。明日から仕事休んで下さい。とりあえず三ヶ月様子を見ましょう」

 菩薩みたいな顔でなんちゅー事を言う医者だ。そう思ったが、実際のところはまぁそうだよなと納得してしまう診断結果だった。胸の痛みも心因性で間違いないだろうという見解で、この原因不明だった症状の原因が分かっただけでも安心した。しかしながら、医者の診断結果に馬鹿な私が返した言葉はこうである。

「すみません、明日は人がいなくてどうしても出勤しなくちゃいけないので一週間後とかからの休職とかでも大丈夫ですか?」

無知は愚かである。「あのね、医者の診断書は強いんだよ。これで明日から休めなかったらその会社はかなり問題だよ。絶対休めるからもう仕事のことは考えずに休もうね」宥める様に私にそう言葉を掛けた担当医に私はここでやっと仕事からの解放に緊張の糸がプツンと切れた。

病院から処方された薬を持って帰宅。そしてこの瞬間から、私の長い長い闘病生活が幕を開けたのである。


#2 【完】




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