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20代前半で鬱病になった話#5

自分に負けたくない精神、これ大事。(闘病生活後半)

 鬱病を抱えながらのアルバイト。高校生で人生で初めてアルバイト面接に挑んだ時よりも何百倍も緊張した。とりあえず無理のない勤務時間と勤務日数で募集がかかっているアルバイト先をピックアップした。近所の雑貨屋さんと、大手アパレルチェーン。なけなしの勇気を搔き集めて電話をし、履歴書を準備。最初に雑貨屋への面接に赴いたのが、驚くことに朝から発熱。完全に心因性だった。喉も何かが詰まる様に苦しくて少しだけ痛く、身体も怠くて重いったらありゃしない。己の身体に顕著に表れた拒絶反応に対して、家族は別に急がなくても良いんじゃないかと口々に説得してきたが、これで諦めたら弱い自分に負ける気がして無理矢理面接に行った。面接での一番の問題は自分が鬱病であることを隠すか否かだと思う。これはあくまでも私の場合なのだが、私は敢えて公表することにした。これで理解されなければそれまでだ。今の自分とは縁のなかった場所なのだと思えば良い。そう言い聞かせて挑戦した結果、見事不採用。当たり前の結果だが、やはりかなり精神的なダメージは受けた。だけど、この勢いに乗らないとまた塞ぎ込んで引き篭もってしまう気がしてズタボロマインドの中、大手アパレルチェーンへ面接に向かった。その日も発熱。心因性とは実に怖い存在である。私が鬱病を抱えていると告げた瞬間、面接対応の人間の顔があからさまに曇ったのを強烈に覚えている。世間的に鬱病患者に対する認識ってこの人間の表情が全て物語ってるよな…なんて、思った。勿論結果は不採用。ちゃんとへこんだ。
 今までアルバイトで不採用を貰った経験がなかった事もあり、立て続けに二回の不採用で涙で枕を濡らした訳だが、先天性の負けず嫌いが暴走して心療内科に通院する日の朝に無理矢理パン屋の面接をねじ込んで家を飛び出した。するとまさかの採用を貰った。世の中捨てたもんじゃなかった。こうして私はパン屋のアルバイトをし始めた。

 パン製造に興味があったのだが、まさかの任されたのは掃除の仕事。それでも一人で掃除して帰るだけだったから、人と関わらなくて良いという点においては非常に適任だった。鬱を有しながらの久しぶりの労働は当然きつかったが、店長も優しく気を遣ってくれて、どうにか慣れていった。そうしていつの間にか製造ポジションに就き、どういう訳か発注まで頼まれる様になった。パン屋には約半年ほど在籍していたが、意地悪なパートのおば様が一人いて、その人が嫌っている人と私が仲良くしていたのが気に入らなかったらしく、私のことを陰で「あの子大丈夫かしら?ほら、病気なんでしょう?だからあの人とも仲良くできるのよ」と漏らしていたことを人伝に聞いた。何十も年が離れている人間に、そんなことを吐く余りの幼稚さに正直引いたが、そろそろ失業保険受給資格の週20時間以上労働の許可も出せるねと医師から言われていた事もあり、お世話になったパン屋を辞職した。店長は引き止めてくれたが、ド悪党なあのおば様がいる環境でこれ以上働くのは苦しいとお断りした。ああいう人間は何処にでもいるものだ。それでもって、ああいう人間程図太くその職場に居続けられるものだ。一生誰かの文句を言って生きてろバーカ。と思えたので、鬱病はそこそこ良くなっていた。

 医師から意見書を貰い、ハローワーク通いが始まった。普通の失業保険は90日程の受給だと思うが、私は鬱病で一般の人よりも就職が難しいという判断を受けて300日まで延長になった。当時の世の中はコロナ禍だったので、余計に就職が厳しいと判断されたのだと思う。幕を開けたハローワーク通いだったが、そこで担当してくれたおじ様が本当に本当に鬱病に理解のある方で、尚且つとても親切にしてくれた。「毎回担当変わるのはしんどいだろうから、俺の名前を指名しなさい。一緒に頑張ろうね」優しい笑みを添えてそう言ってくれたおじ様は、それ以来ハローワーク通いを卒業するまでずっと私の担当として親身になってくれた。
 ハローワークのセミナーや就職説明会などは、コロナ禍で軒並み中止になっている中の求職活動は非常に困難を極めた。様々な求人情報を見たが、まだフルタイムで働ける許可が下りていない私にはどれも勤務時間が多かった。ここで無理をしてまた振り出しに戻るのだけはどうしても嫌で、慎重になってしまう自分がいた。そうやって足踏みしている間にも月日はすぐに流れ、失業保険の満了の日が視界に入る様になった。

 二十代前半で鬱になった私は、26歳になっていた。高校の友達二人に誕生日祝いするからご飯行くぞと誘いを受けて、向かったレストランで祝福を受けた直後「お前、いい加減に恋をしろ」真剣な面持ちでそう友人に言われ、あれ?今日は私の誕生日祝いをしてくれるのでは?と思い、目をパチクリ瞬かせた。確かに私は26年間、一度も恋人ができたことがなかった。強がりではなく、必要だと思ったことがなかったのだ。鬱病で二年半伏せていたとは言え、アラサーと謳われる年齢に突入しても恋をする気のない私をどうやら友人は危惧していたらしい。その場で強制的にマッチングアプリを登録させられ「次会う時までに一人とはデートしてね。じゃなきゃ次はお前の奢りな」なんて、恐ろしいミッションを科せられた。「ほら、記念すべき一人目だぞ、とりあえずいいねしとけ」傍からこちらの画面を覗き込んだ友達が当然だが見ず知らずの男性の写真を横にスワイプしてマッチング成立。完全に強引に始めたマッチングアプリだが、全てを端折って結末だけ語ると私はその初めて出た写真の相手とデートをし交際することになる。人生というのは不思議だなとつくづく思うのだが、彼は一つ下だったにも関わらず鬱病を理解してくれて、お互い価値観や好きな事が兎に角一致して、何回かデートを重ねた末に交際が始まった。初めて人を好きになって、初めて恋人ができた。そんな彼のおかげもあって、鬱病は更に回復スピードを速めていった。

 相変わらずのハローワーク通いの日々だったが、ある日転機が訪れる。それは、職業訓練として調理師免許を取れるコースがあると知ったことだった。持病があったりすると合格も難しくなる可能性はあるが、ずっと料理が好きで極めたいと思っていたこともあり、私は絶対にこのコースを受講したいと担当のおじ様に相談して、受験することとなる。久しぶりの受験勉強を経て、一次の筆記をパスし、二次の面接もどうにか合格。三倍以上の倍率の中どうにか入学の権利を勝ち取り、晴れて学生となった。朝の九時から四時までみっちり授業があったおかげで、生活リズムも整っていった。無論、最初は慣れるまでに体力的にも精神的に辛い面はあったが、絶対に自分に負けたくないという気持ちだけで突き進んだ。友達にも恵まれ充実した学校生活を送っているうちに、徐々に減薬していきたいなという気持ちが芽生え始めミルタザピンを半錠ずつ減らしていった。無理のない程度に。不安が少しでも出現したらそれ以上の減薬はしない。自分でそう決めて、自分の心と身体と何度も相談を重ねつつ、減薬の挑戦をした。
 秋頃から、学校の近くに引っ越してくれるということで恋人と同棲を始め、家事をやるようになってから更に程良い疲れを覚え、眠れる時間も増えた。そして一年の職業訓練は終了し、調理師免許を取得して卒業を迎えることができた。ずっと通院を続けながら、卒業後はホテルの和食調理としてフルタイムのパートを始め、最初は吐き気や眩暈に悩まされていたが負けん気の強さのみで乗り越えた。料理長を始め、本当に素敵な師匠達に出会えた。大好きな料理とひたすら向き合う仕事は楽しくて、一度も嫌だとか行きたくないだとか思ったことはなかった。その頃には、ミルタザピンを完全に断ち、眠剤全て断つことに成功した。離脱症状もあったが、もう自分には必要ないものだという強い意志でやっと服用していた七錠の内の五錠を断てた。本当に嬉しかった。週に40時間勤務できたことが自信に繋がったのだと思う。

 調理学校時代に先生に何度も激務だと脅されていたホテルの調理のパートを半年間勤めた私は、恋人とずっと目標にしていたオーストラリアへのワーキングホリデーに向けて動き出した。担当医にも何ヶ月も前から相談し、計画的に減薬をして、遂にワーキングホリデーに経つ時が来た。「よくここまで頑張ったね、お疲れ様」ここ数年、友達以上に顔を合わせていた担当医からのその言葉に柄にもなく泣きそうになった。
 人生で一度はやってみたくて、恋人と共に北海道の知床で一か月間だけリゾートバイトをし、そのタイミングで残り全ての薬を断つことに成功した私は今、オーストラリアのケアンズにいる。ずっとずっと、英語圏で生活がしたくて社会人の時にもワーキングホリデーに行く為に貯金をしていたが、鬱病になってその貯金は全てなくなってしまった。もう無理なんだ、海外なんて夢のまた夢だ。そう思っていたあの頃の自分に。鬱病で苦しんでいた自分に言ってあげたい。「大丈夫だよ、ちゃんと治るよ」「大切な人ができて、その人と一緒にオーストラリアで生活してるよ」そう伝えてあげたい。オーストラリアでのワーキングホリデーは始まったばかりで、これから先何が起こるか分からないけれど、私は今とても楽しくて幸せだ。きっと、どんなことでもある程度は乗り越えられると思う。


だって私は、鬱病を克服したのだから。


#5 【完】



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