見出し画像

週報。意味に固執してもええか?

二酸化炭素系は1200ppmを超えて赤いランプを灯した。春まではなんともなかったのに。夏はやはり呼吸が荒いというか、温度に従って活動量が、呼気も変わっているのだろうか。扇風機を回して換気するのだけれど。


視野狭窄を自覚しつつ固執を選ぶ

完璧主義をやると碌なことが無い。完璧を求めるというよりは間違いでないと分かったことしかやりたくない、という感覚。短期的に良さそうなこと、楽しそうなことでも長期的に意味無さそうなら嫌、的な?

そういうのが意味に固執することだと、『センスの哲学』から読み取った。

文中の著者は「意味」を本質と考えてそこに固執するのはやめて、そこにあるもののリズム、例えば絵画の色使いや筆致、形状の異なりそれ自体に感動して楽しみましょう、と語る。

例えばアニメを見る時に描く物語が成す意味に固執した見方をしている自分はどうだ? 映像や音楽、まず入力されるそれらをおざなりにしている自分は? 周りの人々の感想と己の感想を見比べる中で薄々気になっていたことが言葉になった。ちょっとコンプレックスかも。

モノを作る時にも「意味」に固執する性質は悪癖として出ている。創作物の価値は意味だけで成り立つわけではない。カジュアルに色々なパターンを作って壊してを繰り返して筋の良い方向に徐々に向かっていきたいのに、踏み出せない。パターンをはめ込んだ時の意味にすぐ目を向けてしまう。

でも拘りの先が意味だから、意味を成す物語だからこそメディアに拘らず色々な物語に触れられてる感もあり…。

今週のコンテンツ

ゲーム『みんなでマインスイーパー』

なんだか教えてもらったので遊んでいた。
起動したら3時間くらいやめられなくて、就寝で打ち切った。

「テトリス99のようなバトルロワイヤル路線のマインスイーパかな?」と予想してたがそれは外れてて。純粋にフィールドが広大で協力(?)して地雷を撤去する。その気になればスピード勝負くらいは展開できるかもしれないがプレイヤー間での交流を促す要素がchatとアイコンの変更くらい。

マインスイーパーとしての面白さを超える部分は今の状態だとあんまりないかも。他のプレイヤーがやった後が見えてうっすらと繋がりを感じる喜びはあるけど同時に同じエリアで作業しようとは思わなかった。マインスイーパは孤独にちまちまやるゲームだから。

ただ繋がりの体験として個人的に好ましいのはこういう緩さだったりする。大きな利益を受けることはできないが、強要されず、やってもやらなくてもいいみたいな協力要素。

映画『アバウト・タイム 愛おしい時間について』

この手のリバイバル上映を観に行って失敗したことが無い。当たり前である。来日してる時点で大量に作られる海外の映画の中で上澄みの一握りであるし、その中で更に十周年を記念して再上映される程の作品なのだ。これで失敗するなら企画者は大目玉だ。

というのがありながらもアバウトタイムは最も好きなタイプの作品だった。

本作はタイムトラベルの能力を持った主人公が恋人を求めて頑張る話だ。タイムトラベルで恋愛というと派手な過去改変を想起するがそうではない。平凡で温かな人々が当たり前の幸せを刻む話。

ここでタイムトラベルは凄い技術としてでなく、"ちょっぴり秘密のとっておきの才能"としてしか扱われない。ここが印象的。

なのでこれはSFではなく恋愛映画…だろうか。日常の延長線上でSF要素をガジェットとして使って当たり前のメッセージを伝える。先日のトラペジウムを観てから感想をいくつか読む中で『ハレとケ』に焦点を当てて書かれた感想があって。これを思い出した。

トラペジウムはアイドル活動のマイルストーンを強烈な『ハレ』としてそこへ向かって全力疾走するも陰に隠れた『ケ』が主人公を助けていたって形で『ケ』の要素を描いていた。

アバウトタイムは全ての『ケ』の日を『ハレ』の日のように楽しもうって語っているように感じた。「当たり前の平凡な日々を謳歌することが幸せなんだ」とか二時間もかけて言えない。ティムはタイムトラベルの能力を伴って過ごす日々の中で少しずつ、それに気づいていく。

最後に思い出として残したいのが海岸の散歩とか、すごくいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?