見出し画像

#I 「恋」と「愛」の違い

よく、恋愛に関する質問と言うか、命題の1つとして「恋と愛の違いって何なのでしょうね」みたいな話がある。これについて、私も結構答えがでずに過ごしていたがなんとなく1つの答えが出たので書いておこうと思う。

簡潔に言うと「相手のことを考えているか否か」という違いがあると思う。
恋と言うのは相手のことではなく自分志向、愛と言うのは自分と言うよりも他人指向、ということだ。

恋について

恋という感情はなんとも言い難い感情である。人を好きになる、という恋愛感情において初めて心に残るもの。

読者の皆様は恋をした瞬間と言うのはどのような瞬間だろうか。私は、なんか気づかんうちにその人に対して好き、と形にならなくとも目で追ってしまったり、話していると楽しいなぁって感情を抱いた。そう思い始めてからその感情に何か名前を付けたくて、もやもやして、葛藤する中で「これって恋なのかなぁ」とかぼーっと思う。このように、他人への想いを自分が知覚するのである。その時は、他人のことよりも自分の気持ちの整理をつける段階として恋と言うのが定義されると考える。
確かに、「あの人には失礼かな…」とか思うのですが、それはまだ想い人に対して友達なのか、はたまた他人なのかのラインにいるわけですから、ラインをずっと見極めている段階、と言うことで「一定程度の人間関係にある人」のことを考える、という意味での相手のことを考えることにはならないと考える。

なぜ告白がいるのか問題

これも1つの問題として挙げられるが「なぜ告白ということがいるのか」問題である。この問題についての答えとしては「考える相当の人なのか」と言うのを判断するのに必要な事であるから、と考える。愛することに必要な段階である「相手のことを考える」段階になるために必要な確認作業である。

告白がない場合を考えると、これは先ほど述べたことと同じことになるが相手が果たしてただの他人なのか、友人なのか、親友なのか、恋人に近いのかという判断がしづらい。そこで、変に距離を近づけると離れられるし、距離をつけすぎると相手が愛想をつかしてしまう可能性がある。そのように、とても判断が難しくなってしまうのである。

告白をして晴れて恋人関係になると、様々なできることが増える。例えば、飲みに行ったりだとかは、特にサシとかだとかなり距離感を測ることの重要性が高い。「果たしてこの人は誘ったら来てくれるんだろうか…」と心配になった時に、その判断材料として相手が自分に対してどう思っているかの確認作業を入れることで相手の感情を考慮した行動ができるということである。

愛について

愛と言うのは、上記で述べてきたように「一定の関係にある相手のことを考えて、行動をしている」という関係である。相手のことを考えて行動するということは昔でも、今でもやはり難しいことだと私も感じている。自分がこうしたいから、といっても折り合いをどうにかつける必要がある場面が以前よりも増える。しかも、友人や親友よりも一般的には上のランクに価値づけられているので、相手のことを常に考えないといけなくて、最大限の配慮をするという点において、やはり、愛の難易度はかなり高いものだと思われる。

自分の話

このように書いてきたのだが、私はどうなのかと考えると自分の相手に対する気持ちとしては「好きだな」という感情をずっと持っている。しかし、相手はおそらく私のことをそこまでの関係性とは思っていないし、近づきすぎるとやけどをするどころか爆発をしてしまう可能性が高い。よって、私は相手にとっての友人を演じる必要がある。そして、私はその距離感の中で相手の気持ちを考えて行動をしている。先ほどは愛は告白をして距離感をつかんでからできる行動だ、みたいなことを言っていたがそうではなくとも、告白をせずとも距離感がつかめているのであれば、相手のことを考えるという愛ゆえの行動が距離感に応じていつだってできる。これは大切なことである。

「推し」は愛ゆえにできること

皆様から考えれば「推し」という概念が近いのだろうか。アイドルとかは顕著だが「もうこれ以上距離を近づけることは無理だ、だからその距離感でできる最善のことは尽くそう」みたいなことだ。ライブに行く、ツイッターにリプを送る、高評価を押す。そう言った行動は「愛」ゆえの行動である。

愛まで行くと、先ほども述べたように相手のことを考える必要があるために自分が相当我慢する必要がある。私の場合だと「浮気してもごめんなさい、とか言わないんだよな~」とか、「私をこんな感情にしておいてなんかないのかよ」とか、性格や態度に関する鬱憤が非常にたまる。恋では自分の視点でしか見てなかったのでよいところしか見えなかったけど、相手のことを考えるようになると滅茶苦茶悪いところが見えてくるようになる。本当に最悪の人だ、とずっと思う。
アイドルだってそうだ。「あいつに対して贔屓をした」、もっと言えば「△△が一般の人と結婚しやがって」みたいな鬱憤が非常にたまる。
しかし、そのような感情を下手に当人に伝わるようになってしまったら絶対に悲しむ。だからこそ、悪口はTwitterの鍵垢に、心のうちに秘めておいたり、信頼できる友人に愚痴話を聞いてもらって笑い飛ばしてもらうという行動をとっている。このように、「愛している人が悲しまないような行動をしないでおこう」と言う行為は「愛」があるからこそできる行動の1つなのである。

人間関係の大切さ

私が生きてきた二十数年間、やはり人に恋する、愛するという行為は人間関係の中でも最難関の関係であると考える。だからこそ、特に若い年代において失敗することがよくある。距離感を勘違っていきすぎた行動をしてしまったりだとか。非常にとても難しいことだが、それに対応して得られるものと言うのももちろんでかい。人間としての経験値をためるという意味合いからもとても大きい。そういう人生の1つ大きい壁にぶち当たって、それを私は乗り越えていきたいと思う。

本当に難しい、ずっと頭に残り続ける。けど、自分を変えることが難しいように相手を変えることも難しい。本当に、人間って難しい生き物だ。

今週はここまで。また来週。