記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『母性』を観て、読んで

新年早々、これを出すのはどうなのかと思ったけれど、新年だからこそ書く気が起きて、やっと書き上げられたので出してしまおうと思う。
一ヶ月前に書いた所もあり、おかしい所もあると思うけれど許して。


先日(?)、映画『母性』を鑑賞した。原作を読んでから行こうか、どうしようか悩んだけど、事前知識無しで観てきた。結論読まずに行ってきて良かったなと思う。映画を観る時、勉強するように色んな目線で観ることが多いから、鑑賞記録書かなくちゃって思うんだけど結局書かないことが多くてnoteの下書きに溜まっていく。でも今回は、しっかりと向き合いたい作品だったので、柄にもなく真面目に書いていきたい。
5つに分けてしっかりと書こうと思うので、めちゃくちゃ長いかも。読んでほしい、というより消化したいという気持ちが大きいから、実はあんまり読んで欲しくないのかもしれない。でもnoteに書くってことは読んで欲しいのかもしれない。難しい……




⚠️ネタバレを含みます。主観だらけです。時々話がそれます。でもそれは私のnoteだからいいよねっていうか、それがnoteのいい所だと思ってるし。⚠️






1.映画『母性』を観て

原作を知らず、映画のみを観た感想です。原作を読んでから感じたことは主に3に書くので。
まず全体を通してすごく良かった。出来はもちろん主題も全部含めて、私の観た映画の中で五本の指に入るのでは…?と思った。
映画を観る前、一緒に観に行った友達とカフェで母親、家族とのエピソードを語って、いや、愚痴っていたから(母性を観るからという訳ではなく普通に)タイムリーで2人とも号泣。私たちは家庭で苦しんだ経験があった。いやまあみんなだってあると思うけど、多分深刻…?深刻とか自分で言うかよ、そういう所が悲劇のヒロインチックで嫌いなんだよな。でも友達の話はなかなか苦しかった。まあそれで自分を重ねて観てしまって、色んな意味で抉られる作品だったと思う。しかしそれは私たちだけでなく、観た人全員が度合いは違えどそうやって重ねて、また考えるだろう。だって私たちは必ず母から産まれているわけだから。

初めから、できるだけ順を追って書いていきたい。(結局全く書けてません。)本当はネットでよく見る考察班みたいに、物語に沿って書きたいんだけど、私には難しいから箇条書きで。でもそうすると丁寧さに欠けるような気がして嫌になっちゃう。でも間違ったこと書きたくないし、そうやって自分の中で縛りつけると絶対挫折して書かなくなるからやめとく。早く内容入れって感じだけど、noteってなんで最終的に殴り書きみたいになっちゃうんだろうね。不思議。

・まず開始5分で、小説が題材なんだなぁって感じさせる演出で、映画観終わった後の感想も1冊読んだみたいだなぁって気持ちだった。後で原作読むと、本当にそのままの形式で、これをこのまま映像化できるんだ、こうやってするんだってすごく感動した。

・先生って清佳だったんだって完全に叙述トリック引っかかってた。永野芽郁ちゃんだって全く気づかなかったのも含めて本当に最後まで分かってなかった。最近観た映画に引っ張られてたのもあって、先生は、記事になってる事件(母と娘の話)を、第三者目線でみるとどう見えるのかという役割だと思っていて、頭がロックされてた。

・役者みんな凄かったんだけど、高畑淳子さん本当凄い。こういう役者さんになりたいって思った。本当に汚かった。(いい意味で)

・『母性』という題名通りに、「母と娘」に焦点を当てて描かれていて、男が全く出てこなかった。(お父さんはいるけれども)「母とルミ子」そして「ルミ子と清佳」の繋がり、連続的なものは感じられず、一つ一つのものなんだ。って感じがした。本当はもっと深く関わりあってるはずなのに…(火事の件等、別の意味で深いけど)
私がおばあちゃん子だから余計に、二世帯ってこんなにもはっきりくっきり分けられてるものなんだなって理解した。まあそりゃそうか、おばあちゃんとの思い出よりお母さんとの思い出の方があるよね。これは比べるものでは無いと思うけど。

・上の件。それは結局ルミ子が生粋の娘だったからだと思ってる。私は清佳が妊娠したよって電話で伝えたシーン、ルミ子はやっぱり娘なんだと捉えた。清佳は妊娠したよ、しか言ってなくて、ルミ子のようにお腹に新しい命が宿ったことを怖がっている様子は感じられなかったのに、「怖がらなくていいの」と自分がかけてもらった言葉をそのままそっくり清佳に伝える。自分の母に習って、自分がそうだったから、という意味で同じ言葉をかけたようには見えなかった。またその後に義母の娘になりきって看病し、義母の本当の娘、りっちゃんの部屋に入る。結局ルミ子は最後まで母に縛られて娘で居続ける暗喩なんだろうな、と捉えた。

・ルミ子は「娘」と捉えたから、清佳の名前を呼んだシーンの見方が変わってしまった。初めは、娘が自殺して初めて、「自分の」大切な宝物だったんだと自覚して、初めて「母」になったんだな。と思った。でも、上述のシーンを観たあとは、結局「ルミ子母」の大切にしている清佳が自分も大切。で、何も変わってないように見えた。初めて名前を呼んだ、という新しいアクションはあるんだけど、ルミ子母から学んだ「母」としての行動は取れるようになったというだけ、でもそれはルミ子母のような「無償の愛」にはなれていないと思った。

・清佳の名前が一度も呼ばれてなかったこと。最後に清佳って初めて呼ばれて、セリフ通り私も清佳だったんだ、と思った。

・観終わって、全ての怒りの矛先を私はお父さんに向けた。初め、ルミ子がお母さんに全て頼るところで、結婚して、旦那になったはずなのに全く目を向けていないのが可哀想で、同情してた。でもお父さんは浮気しようと結婚初めから企んでいたから。というか、そう企んでいたと認識したに近いかも。原作読んだ限りは誤認なのかな。でもそう思ってしまった理由としてまず、仁美さんに結婚することを相談した時、やめた方がいいと言われるシーン。そして、ルミ子に対する優しさが全く見えないこと。決定的だったのが清佳が初めからそうやって浮気するつもりだったんだに父も仁美さんも無言なこと。無言の肯定だと捉えた。(人柄的にうんともすんとも言う人では無いけどさ。)その3点から、映画だけでは初めから浮気していたと捉えてしまった。結局どうなんだ?まあそれはいいや。
え、じゃあ火事が起きたのもお父さんのせいじゃん。お父さんが夜仕事から帰ってくるからロウソクつけたままにしてたんじゃないの?でも実は仁美さんのとこ行ってて、帰って来なかったのでは。と推測してしまう、というか絶対そうなんじゃん…で、お父さんに怒りしかなかった。
映画の主題は題名通りの母性だし、矛先回収してもらった方が良いよねって思ったからそれが嫌って思った訳では無い。むしろそれでありがたかった。でもこれは誤認かもしれない。勝手に都合のいい解釈しただけかも。

・そのおかげで、母と子の問題については誰が、何が、悪かったのか、考えても答えの出ない、誰も何も悪くないっていう答えに至った。答えが出ないから間違えるし、すれ違うし、上手くいかないし、難しいんだろうな。

・それを変えられるのはお父さんしか居ないと思ってる。父と母と娘で家族なんだから、父が何か働きかけないといけないでしょ。と思った。

・ルミ子母の愛情、初めは気持ち悪く見えていて、だからこんな子が育ったんだと思っていたんだけど(現にそうなんだけど)ルミ子母自体は本当にただの聖母だったなぁ…火事の日の夜、お父さんのベッドで寝なよに対して、ちゃんと断ってるところとか好き。火事のシーンは当たり前に好き。

・清佳、やっぱりこの子は変なんだよ。自殺をきっかけに、みんないい方向に変われたと思いきや、やっぱりどこか欠点はある。清佳の子供はどうなるのか、また新しい問題が生まれるはず。でもそれが育児だと思う。悪夢の終わり、悪夢の続き。

・母性って初めから備わってるものではなく、後天的に得られるものって、本当にそうだなって思った。私の母のエピソードを祖母から聞く限り、そうしい。

・女には母と娘の2種類いるって話。すごく納得した。めちゃくちゃ納得した。

・お弁当のシーン。そして清佳が真実を知ってごめんなさいって謝ってるシーン。本当はどっちなんだろう。送り手、受け取り手で見え方が違うっていう演出なのは重々承知の上で、本当はどういう投げ方、抱きしめ方だったんだろう、って思っちゃった。というのも、事実としての投げ方、抱きしめ方を、第三者目線の私はどう捉えるんだろうが気になったのかもしれない。

・で、最終的に。清佳生きてるし、ルミ子も娘への向き合い方変わったし、ハッピーエンドではあると思うし、救いがあったけど、私は苦しくなった。前に進んでいないとは言わないが、どこかでまた収束してしまって進めなくなるような救いでしかない気がして。物語としてはそう思ったけど、映画観てる自分は大満足でした。

TOHOやってなくて、初めてブルク7行った。
なんか画像とか無いと飽きるかなって気遣い始めた。誰に読んでほしいとかじゃないとか言ってたくせに。


2.小説『母性』を読んで

映画を観た後に読んだから、比較しながら読むような形になってしまっているけど、映画の記憶を抜いて、小説だけのことについて言及したいと思う。(できるかは、怪しい。)
私は映画と小説どっちが好きなんだろう…多分、小説なんだけど、それは原作だからだと思う。鬼滅みたいに、原作の漫画を余すとこなく映像にしてる訳では無いから今回に関しては別作品として捉えて比較したいと思ってるけど、難しいよね…というか、比較するものじゃないのか。だって創作の媒体が違うんだもん。だからこそ映画のここ好き、小説のここ好きがある訳で。あんまりこれについては考える所じゃないなと今思った。

で、また話は逸れるけどこうやって映画を観て、小説を読んで、やっぱり小説書きたいと思った。
前、というか今も悩んでる事なんだけど、創作したい。これ書きたい!でもそれは、舞台脚本なのか、ドラマ、映画脚本なのか、小説なのか、はたまたイラストなのか、悩む。自分は今演劇をしているが、演劇もだけど、あえて別媒体の創作から色んな知識を得たい。なんか、個性が身につきそうっていう謎の理由。そしてそれを活かしたいって考えるから、本当に色んな所から勉強しようとしてるんだけど、すればするほど、私がやりたい創作はなんなんだろうって悩むことになる。全部やったらいいじゃんって、やれたらいいんだけど、実力も時間も何も無いから、やっぱり選択しないといけないと思って、また悩む。で、結局出来ない。で、『母性』を観て読んで、今は創作物は小説でやりたいって感じになってきた。と、またまた盛大にズレました。

小説の話をしよう。(ここからはこの記事を書き始めて1ヶ月後の私)

・映画では、怒りの矛先を父親に向けたと語ったんだけど、原作ではルミ子に向けてしまった。おかしいすぎる、変すぎる(普通と違う。普通とはなんなんだという疑問も生まれてくるけど。)のはルミ子で、他の人は比較的許容範囲の中にいると私は思った。特に限度を超えているのは頑固さ。固すぎる。少しでも誰かの言葉が刺さっていたら良かったのに、母の声も聞こえない程の頭だからこうなってしまったんじゃない、と思ってしまった。
でも別作品(あえて名前は言わない。またオタクがって言われるから)で「愛ほど歪んだ呪いはない」と言うセリフがあるのだが、それを体現しているのがルミ子だと思った。ルミ子母のような聖母、完璧な人(何を持って完璧というのかという疑問も出てくるが。)が好きになる時って、行き過ぎた愛、こじらせた愛になりがち。

この1点書くだけで言語、文字嫌いだと思った。断定表現をしたくない。その言葉を使うとその言葉の意味合いを取られる。ニュアンスを考えて文字を選んでるつもりだし、根本原因私に語彙力がないからなのかもしれないが、グレーゾーンを上手く伝えきれない。私は声や身振り手振りでそれを補うところが多いから(演劇やってるからだと思うけれど。言葉、セリフだけでなくて動きで、表情で伝えるものに1番力を入れている気がする。)noteは向いてないのかもしれない。でも言葉好きなんだよね。この数行で言ってること違うな、まあいいか。次次。

・ルミ子母について、これは映画でもそうだったんだけど、父への気遣いがすごく好き。ルミ子が旦那のことを全くみていないから、旦那の立ち位置に立って考えると、私はすごく苦しくなったんだけど、ルミ子母はしっかりとみてくれていた。それに救われた。これは飛躍しすぎなんだけど、父がルミ子と別れない理由として、ルミ子母の存在の大きさだと思って、なんならルミ子母が好きなんじゃないの?っていうのを提示したい。好きっていうのは恋愛としてではなくても、それと同じくらいの大きな気持ちを持っているような気がした。ここでもルミ子母に魅了されてない?ゲームの1ターン行動不可みたいなスキル、ここから動けない感。(どんな例え)

・となると、絵画の感想。それがルミ子母の言葉だって気付かない?ルミ子に惹かれ、ルミ子とお付き合いを始め、それら全てはルミ子母のセリフであって、ルミ子のものではない。ルミ子自体には父が惹かれたものは入っていないんじゃないの?
それは言い過ぎ。ルミ子母に育てられたルミ子だから、あるのか。言葉は結局何かの引用に過ぎないから、そのセリフ(父が惹かれた)の所有権は誰なのか、ルミ子とも言えるか…また別件で難しい話になってきた。でも、ルミ子とでは幸せな家庭は作れないだろう…?でも、しっかりルミ子のこと見てるんだよな。父は頭がいいから人として分析されているだけ…?いや、結構愛あるよね……

・父繋がりでいくと、原作の父、私は好きだった。映画と違って沢山描かれていたから(後に話したいことがある。)というのもあると思うが、活き活きしていた。清佳がまともに育ったのは父がいたからだなと思った。清佳の彼氏も理由の一つなのも分かってるけど。それと自殺でリセットされたってのが1番の理由であるとは思っているけど。
でも、そうなるとやっぱり家族を変えられるのは父しかいなかったと思う。と、書きたいが書けない。火事の時、絵画を優先していなければ〜、の罪悪感からは、無理だと思う。逃げてしまいたいのはしょうがないと思ってしまった。このエピ、めちゃくちゃ苦しいけど、1番好きかもしれない、最高。

・原作にしかない、憲子、祖父、流産、宗教勧誘、火事の真実、全て良かった。よりこのお話をこじらせるすごいエピソードだなって思った。

・宗教勧誘の件、父がルミ子に対してどう対応するのが正解なのか、そしてどうやって守ろうとしていたのかが聞けたのがすごく良かった。さっき、ルミ子母が好きなのであって、ルミ子ではないとか言ったけど、父はルミ子をしっかりみていたというところが、なんか、すごく、嬉しかったし苦しかった。ここで愛を感じたんだよな。

・終わり方はこっちの方が好き。というのも、しっかりとハッピーエンドだと思ったから。いや違うだろという人、多分2パターンで映画も原作も一応ハッピーエンドじゃん派か、どっちもある意味悪い所がのこっているからハッピーエンドではないじゃん派か。
はっきり白か黒か決めないといけないのにグレーゾーンにある事柄について、白に近いか黒に近いかで選択するんだが、映画は黒より、原作は白よりだと思った。妥協できるラインというか、問題は残っているけれど、形としては幸せな家庭に迎えるのではないか、と感じた。
って書いた後に、映画の感想読み直すとハッピーエンドであると思ったって書いてるから私の考えはあっちいったりこっちいったりしますね。面白い。

・原作を読んで、母の女と娘の女の両方を持ち合わせる、ことはないように考えた。母の女から産まれる子は娘の女、娘の女から産まれる子は母の女、のように、母、娘、母、娘と回っているように感じた。それは最後の清佳のセリフから感じとったらしい。らしいと他人事のようにいうのは、1ヶ月前の私がメモにそう書いてあったからです。今の私にはそこまで母しかない、と考えるほどの強い根拠を見いだせなかった。

・上の点から、原作の方は母、娘、母、娘の一世帯注目型というより、連続的意識型(ちょっと意味わからない)のように感じた。

と、原作を読んで感じたことはこんな感じ…


芥見下々書き下ろしの告白、最高ですよね
イラストよりもこの文章、くるものがある…
そんなことより机汚い。大晦日ちゃんと片付けました。


3.作り方について

作り方についてー、なんてこんな小さい奴が大きな言い方してますが、原作ある作品を別媒体で作るときどうしているのか、という点を考えるのに、両者比較しながら考えていきたいと思う。考えていきたい?というかこちらもほとんど感想。

・2時間しかないということで、エピソードは削らないといけない。削り方によって、原作と映画で捉え方は変わったけれど、良かったんだと思う。原作ありのものって、原作と違う点に怒ること多いと思うんだけど、というか私が結構それで怒ってしまうことが多いんだけど、媒体が違うんだから、別作品とまではいかなくても、分けて考えないといけないと思った。

・映画の主題はタイトル通り母性。そして2時間の短尺だから、女、母と子のみに焦点に絞った描き方をしていて分かりやすかった。一方で原作は、母性というよりは家族愛(いや、これは愛というのか…?)として読んだ印象。

・映画は焦点を絞ったからこそ、誰も悪くないように見えたんだと思っている。男を出さないことで、または怒りの矛先をそちらに向けることで、母性という主題に要らない悪を排除しているように思った。小説は上記の理由から何が主題なのか分かりにくくなってしまったと感じた。

・叙述トリックについてよく語られているけれど、正直あまりなかったのではないか?と思っている。原作も分かりやすかったし、映画も原作と同じくらいの描き方だったと思うし。私は結構最後の方まで清佳=先生となっていなかったんだけど、本当はもう少し前に気付くポイントがあったらしい。でもそのような正規ルートではないネタバレとして、役者で分かることがあるようだ。でも先生として初めに永野芽郁ちゃんが出てきて、その後に高校生とし永野芽郁ちゃんが出てくるまで幼少期の話が間にあることから時間が結構経ったので、ちょうどいいじゃん?と思った。でも予告とか観てる人は分かっちゃうのか。

・最後のシーン、ルミ子が妊娠報告をする清佳に声をかけるところ。セリフ変えてしまったのが私はちょっとうーーん!!ってなってしまった。主題を際立たせる、根拠づけるにはセリフを変えたのは良かったと思ってるんだけど、ここのセリフを変えなければ原作と同じクライマックスに持っていけたんじゃないかなって。多分これは私が原作の終わりの方が好きだからこういっているだけ。

・さっきもどこかで言ったような気がするけど、映画と小説の違いは語らずとも表情、動きで伝えられることだと思う。その点で印象強かったのはお弁当を落とす/投げるシーン。ここ本当に大好き。こういうことができるから(こういう演出が好きだから)映像や演劇、演技が好きなんだろうなと改めて実感。

・ 小説と交わることがない表現方法が映像にはあるよなと思った。もしお弁当のシーンを小説でするなら?逆にお弁当と同じ所の小説のシーンを映像にしたら?
投げ捨てた。うん、言葉にすると投げやりな感じがしてしまって嫌。電話でルミ子母に小鳥さんにしてほしいと声で伝える。なんか、インパクトにかける。
言うのではなくて、映像ではやるほうが本質が伝わりやすい気がする。絵に生える描き方だったなと思う。
と、いいながら同時に小説っていいなぁとも感じている自分。だって小説にしか出せない味が沢山あるもん。それは何?と具体的にまだ浮かんではいない。


4.他人の考察を読んで

自分とは違う解釈の考察を読むの本当に好き。あ、論理的に根拠のある読み方をしてると自分で思っているんだけど、他の人のを読むと全然違う時がある。でもそれを読んでみると、ああ、それも論理的な解釈だなってなる。どうしてそんなに別々になるんだろうって、根拠としてピックアップしたところが違うんだよな、と答えは出ている。


・ルミ子母の死に際、子育てが間違っていたのかもしれないという悲劇の顔とみたらそう。私はそうではなくて、ただ最後に、母としての仕事をまっとうした、叱るをやった顔のように見えてた。

・りっちゃんがいなくなって、ルミ子を娘のように思う義母。ルミ子は義母に寄生成功、という捉え方をしたらしい。なるほど……私は娘になってしまうことは潜在的能力のように捉えているから、寄生場所を決めるというよりどのような場所でも寄生場所になりうる、という逆向きに考えてた。

・生暖かい手のシーンは良い
と、メモに書いていたけど、ちょっと何が言いたかったのか全く思い出せないのでそのまま放置。


5.まとめというより…

・家族を変えられるのは家族のみ、父の働き方って大事だよなとすごく思った。

・私は映画では父が完全に悪役に感じてしまったから、原作の方が好きかもと思った。

・原作を読んでから映画を見ると残念感が出てしまう性格なんだなと見つめ直せた。話を削ってしまう、削らざるをえないからすごく勿体なく感じてしまう。別作品だと捉えて、別々にみたいから、そうするために映画を観てから原作が読みたいなと思った。とかいいながら逆が良くなる時もあるんだよなぁ、難しい。

・切っても切り離せない関係の原作。ていうかなんなら原作は神様だし。頭痛い。

・母性、考察や余韻で苦しめられる作品だった。いやでも私だけじゃないよね。だって私という存在は、絶対に誰かの母から生まれているわけだから、絶対みんなこういう感情抱くと思う。みんなが苦しむ作品。というか苦しめ。苦しむべき。
それでも私は人よりも苦しんだと思う。

・一番気になる男性の考察。だれかいい考察見つけたら教えてください(誰に言ってる)

・自分が固まって変えられない点、正直ルミ子なのかもしれないって思った。
最近結婚について考えることがあったんだが、結婚って、私の10と旦那の10を互いに5にして、5+5の10にするものだと思っていて、だからようは擦り合わせ?私は多分出来ない。自分の10が凝り固まっていて、変えられないと思う。
友達関係でもそう(これについては長くなるからまた別の時にでも。)だから、深く関わるつもりは無いし、正直なところ、利害関係で成り立つ付き合いしかできていない気がする。情を大切にしていると思ってる。でもそれはさ、……って話し出すとほんとに長いから。母性の鑑賞記録だからこれ。やめとこうね、どうせもっとこじらせて苦しんだら書くんだから。noteか創作かなにか分からないけど。


と、言う感じです。母性の鑑賞記録。長かったなー。




本当はここから自分の話をするつもりだった。母性を観て読んで苦しんだ理由。自分の話、特に悲しい話を他人に言うのが嫌いで、ブログに書くとかもってのほか。でも逆にこれはリア友で読んでる人全然居ないしいいかなって思って、書きたかった。けど書けなかった。
書こうとして打ち始めると、なんかやっぱりキモってなって。
だから悲しいところは全部いいや。


私の母は無償の愛を与えてくれていたんだなって思った。それが目に見える形となって表れてしまったから私はこんなに苦しめられているけれど。
でも本当、高校生の時に今のアイデンティティがしっかり形成されていて良かった。最後にその私が立った舞台をみせられて良かった。だから一生演劇に縛られて生きていくんだろうなって思う。ある種呪いだな。





この記事が参加している募集

#読書感想文

189,685件

#映画感想文

67,333件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?