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【つの版】度量衡比較・貨幣27

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 中世ヨーロッパは諸侯が群雄割拠する戦乱の時代でしたが、フランス王はいち早く中央集権を進め、神聖ローマ皇帝やローマ教皇、英国王などと争っていました。そしてついには教皇を自国側に引き入れ、ヨーロッパの盟主として振る舞い始めます。英国王はこれに対して宣戦布告しました。

◆英◆

◆国◆

宣戦布告

 いわゆる百年戦争の原因のひとつが、アルトワ伯ロベール3世問題です。彼はフランス王ルイ8世の玄孫で、フランドルと境を接するアルトワ伯領の継承権を持つはずの人物でした。しかし祖父ロベール2世が1302年に戦死したのち、嫡長孫の彼ではなく、ロベール3世の伯母マティルドが継承しました。アルトワ地方の慣習では男系相続より年長者の相続が重んじられていたためです。ロベールは訴訟を起こしますが敗訴し、妻の異母兄でヴァロワ伯のフィリップがフランス王位につくと別の伯位を授かります。

 1329年にマティルドが逝去すると、改めてアルトワ伯位を求めますが認められず、王とも不仲になり、1336年英国へ亡命しました。フランス王フィリップは彼を謀反人であると宣言し、所領を没収して妻子を逮捕・投獄したうえ、英国王エドワードにロベールの引き渡しを要求します。

 しかしエドワードは、敵対するスコットランド王デイヴィッドが1334年フランスへ亡命していたことを持ち出して対抗し、ロベールを封じてブルターニュ地方のリッチモンド伯としました。また復讐に燃えるロベールは、エドワードに「あなたの母上イザベラ様はフランスの王女であり、女系継承によるならば、あなたもフランスの王位継承権がござる」と唆します。この件はすでに話がついていたのですが、エドワードはこれに乗っかります。

 エドワードはまず1336年にフランスへの羊毛輸出を禁止し、フランドルの経済に大打撃を与えました。12月にはフランドルの都市ヘントの商人アルテベルデが反乱を起こし、フランドル伯を追放して都市連合によるフランドル支配を宣言します。フランス王は彼らに英仏に対する中立を約束させ、教皇を介して英国と交渉しますが突っぱねられます。

 1337年5月、ついにフランス王はエドワードに対し、ギュイエンヌ(アキテーヌ)他の大陸側の領土を没収すると宣言しました。エドワードは英国においては独立の国王ですが、フランス王国に含まれる土地においてはフランス王を宗主(封主)としていたのです。これに対し、10月にエドワードは「フィリップの王位は僭称であり、余こそが正統なフランス王である」と宣言、臣下の礼の撤回と王位継承を宣誓しました。11月1日、エドワードはフィリップに挑戦状を送り、戦争が開始されます。

英仏開戦

 けれども、英国の国庫は長引くスコットランドとの戦いにより、空っぽを通り越して火の車です。エドワードは議会の反対を押し切って遠征計画を進め、イタリアの銀行家などから多額の借金をして軍資金をかき集め、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ、フランドル地方やネーデルラントの諸侯と手を組んで、1338年に7月にようやく北フランスへ侵入します。この間にフランスはジェノヴァのガレー船を雇って英国本土やガスコーニュの海岸地帯を襲撃させていましたが、彼らは分配金を巡って互いに争い、8月にはジェノヴァへ帰国しています。カネの切れ目が縁の切れ目です。

 エドワードは北フランス各地を焼き払いつつ暴れまわり、フィリップに挑戦状を送って会戦を挑みますが、フィリップはこれを避けて補給路を攻撃させ、兵糧と軍資金が切れるのを待ちます。英国の北方ではスコットランド軍がこれを好機として攻勢に転じ、1339年末までにエドワードはフランドルまで撤退します。1340年1月、エドワードはフランドルの都市ヘントにおいてフランス王を名乗り、フランドル都市連合と対フィリップ同盟を締結するとイングランドへ戻りました。

 この時、エドワードはフランドルの都市ブルッヘ(ブルージュ)に王妃フィリッパを名代として残しています。彼女はネーデルラントのエノー伯ギヨームの娘で、母ジャンヌはフランス王フィリップ6世の妹、姉マルガレーテは神聖ローマ皇帝ルートヴィヒの妃です。彼女は1328年にエドワードと結婚し、英国にフランドルの毛織物作りの技術を導入するなど国の発展に勤め、夫の不在時には英国の摂政ともなった実力者です。

 フランス側は直接対決を避け、海軍を派遣して英国の海上輸送路を寸断しようとしますが、1340年6月にゼーラント(オランダ)のスロイス(フランス語名エクリューズ)の港で英国艦隊に撃破されます。これは英国側の船に多数のロングボウ兵がいたことによるといいます。両国は決定的勝利を得られず資金不足に悩まされ、同年9月に2年間の休戦協定が結ばれました。

 1341年4月、ブルターニュ公ジャン3世が嗣子なく没すると、後継者争いに英仏両王が介入して代理戦争となります。この戦争は1365年まで長引き、リッチモンド伯ロベールは1342年に戦死しました。英国王はこれに乗じてブルターニュに軍隊を駐留させる一方、フランス王はスコットランド王デイヴィッドを帰国させ、北から英国を脅かさせています。

 長引く戦争は両国を激しく疲弊させ、休戦期間は1346年まで伸びました。英国は羊毛輸出を政府が厳しく管理して財源とし、重税を課して借金返済に当てましたが、焼け石に水です。帳消しにせず返済してくれるだけマシなほうです。フランスでは諸侯の勢力がまだ英国より強く、全国的な課税組織がなかったため、フランス王は課税のために個別に諸侯や地域議会と交渉せねばならず、しかも彼らは休戦中の納税を拒みました。フランス王はやむなく貨幣を悪鋳して対処しますが、焼け石に水です。かつ英国は資金調達のため兵士らによる大規模な略奪行動を黙認しており、それらの地域では侵略に備えて防御を固め、フランス王への納税を行えなくなります。

英王戦勝

 1346年7月、ついに英国王エドワードは兵1万余を率いてノルマンディーに上陸、破壊と略奪を行いながらフランス領内を駆け回り、一時はパリ近郊まで迫ります。フランス王は3-4万の大軍をかき集めて北上する英軍を追い、北フランスのクレシーで追いついて会戦となりました。

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 小高い丘に布陣して待ち構えていた英軍は、騎兵突撃を防ぐため馬防柵と塹壕を設営し、中央に下馬した騎士部隊、両翼にロングボウ兵を配置します。フランス軍はジェノヴァ人傭兵部隊にクロスボウを発射させつつ、重装騎兵を突撃させて蹂躙しようとしますが、地の利を得たロングボウ部隊の射撃によって散々に打ち破られ、大敗を喫して撤退しました。

 この戦闘でのフランス側の死者は1万2000人と1/3以上に及び、フランス王自身も負傷したばかりか、王弟シャルル、フランドル伯ルイ、ロレーヌ公ルドルフ、援軍に来たボヘミア王ヨハンも戦死します。エドワードは「彼らを捕虜にすれば身代金がとれたのに」と惜しがったといいます。

 エドワードはそのまま北上して要衝カレー港を包囲し、翌年陥落させました。同年にはブルターニュ摂政のブロワ伯シャルル、スコットランド王デイヴィッドが捕虜となり、エドワードは勝ち誇ります。しかし資金不足や兵の疲労もあり、教皇の仲介で1355年まで休戦しました。

 この頃、神聖ローマ帝国ではアヴィニョンの教皇(つまりフランス王)の後押しで皇帝ルートヴィヒが廃位され、ボヘミア王カールがローマ王に擁立されています。彼は父がクレシーで戦死したこともあり、反エドワード派としてフランスと友好関係にありました。

 ちょうどこの頃ヨーロッパには黒死病が荒れ狂い、人口の3割から半分が死ぬという大惨事になります。英仏ともに戦争どころではなく、荒れ果てた国土と国庫を再建するために奔走しました。英国では黒死病によって労働者人口が減少したため、労働者は賃上げ要求を行い、より良い待遇を求めて移住するなど社会問題が起きます。エドワードは1351年に労働者規制法を制定し、不当な賃上げ要求や移住を規制しました。彼はクレシーでの大勝利やカレーの確保によって名声を上げており、諸侯や議会もエドワードの政策を支持するようになり、せっせと徴税を行って財政を健全化したといいます。

仏王虜囚

 敗れたフランス王フィリップは塩の専売特権を制定するなどしますが、劣勢のまま1350年に崩御し、子のジャン2世が跡を継ぎます。1355年に休戦期限が切れると、英国王は息子のエドワード黒太子をガスコーニュへ派遣してフランス全土を荒らし回らせます。各地の都市や村落が破壊&略奪され、守備隊を殺戮され、業を煮やしたジャン2世はついに迎撃に出ました。

 1356年9月、ポワティエの戦いでフランス軍は英軍のロングボウ兵と騎兵戦術によって打ち破られ、ジャン2世は捕虜になります。これを聞いた英国王は喜び、50万ポンドの身代金を要求しました。1ポンドは240ペンスで、当時の英国の非熟練労働者の日給が3ペンスですから、1ペニーを3000円として72万円。1エキュ金貨が12万円として6エキュにあたり、50万ポンドは300万エキュ(3600億円)に相当します。

 しかるにジャン2世は「フランス王の身代金としては少ない」と主張し、400万エキュ(4800億円)とすべきであるとしました。エドワードはフランス王を自称していますから要求を認めるわけにもいかず、あくまで「ヴァロワ伯」を捕らえたものとしなければなりません。パリでは王太子シャルルが摂政となっていましたが、国内は黒死病と戦乱と飢饉によって疲弊と混乱のさなかにあり、市民や農民が大規模な反乱を起こすマッポー的状態となっていました。身代金を支払うどころではありません。

 エドワードは1359年にロンドン条約を提示し、ヘンリー2世の時代の「アンジュー帝国」を復活させ、英国とフランスの王たるエドワードの宗主権下に置くことを認めるよう要求します。さらにジャン2世の身代金を400万エキュとしました。フランスの三部会はこれを拒絶し、パリに侵攻してきた英軍に必死で抵抗します。

 1360年、エドワードは条件を大幅に譲歩したブレティニー条約を提示します。彼はフランス王位の請求を取り下げ、ギュイエンヌ、ガスコーニュ、ポワトゥー、カレーなどを獲得し、これらが英国本土ともどもフランス王の宗主権下になく、臣下の礼を取らなくてよいことを要求します。ブルターニュやフランドルへの宗主権は放棄しましたが、親英国派をトップにつければいくらでも操縦できます。またジャン2世の身代金は300万エキュ=50万ポンドに減額され、そのうち100万を支払えば釈放すると定めましたが、支払いの保証としてジャンの息子ルイたち40人あまりが人質となりました。1360年10月、この条約はカレーで締結され、戦争は終結します。

 ジャン2世は自分の身代金を支払うために3.87gの新たな金貨を鋳造させ、これを「フランカ・シュヴァル(Franc à cheval、馬に乗ったフランス人/自由人)」と名付けました。のちのフランスの基軸通貨「フラン」のもとです。その価値はトゥール貨で1ポンド=20スゥ(グロ銀貨)に相当し、エキュ金貨とほぼ同じです。また2.79gのグロ・トゥールノワ銀貨も鋳造されます。しかし1363年に王子ルイが脱走し、ジャン2世はロンドンへ護送されて1364年に亡くなり、身代金の全額が支払われることはありませんでした。

 摂政シャルルはそのままフランス王に即位し、荒廃して縮小した王国を引き継ぎます。彼は賢明な政策によって王国を建て直し、英国の侵略に立ち向かうことになるのです。

◆仏◆

◆乱◆

【続く】

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