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【つの版】ウマと人類史:近世編25・蒙蔵平定

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1676年、オイラト部族連合ジュンガル部の長ガルダンはダライ・ラマ5世よりボショクト・ハンの称号を授かり、中央アジア各地に遠征してジュンガル帝国を築き上げます。1688年にはハルハ・モンゴルを攻撃してモンゴル高原を征服しますが、これにより清朝との衝突を招きました。

◆June◆

◆Girl◆

蒙古平定

 亡命してきたハルハ・モンゴルを庇護した清朝の康煕帝は、1690年に北京北方の赤峰でガルダンと戦います。ジュンガル軍はロシア製の大砲や銃器、清朝はイエズス会からもたらされた大砲や銃器で武装しており、両者の代理戦争と言えなくもありません。ダライ・ラマ5世の摂政が派遣した僧侶の仲裁によりジュンガルと清朝は一時休戦し、ガルダンは漠北へ引き上げます。

 ところがガルダンが遥か東方へ遠征している隙に、甥のツェワンラブタンが反旗を翻しました。彼は先代のジュンガル部長センゲの子で、叔父ガルダンに殺されかけたため恨みを抱いており、我こそジュンガルの支配者なりと称してイリ地方とタリム盆地を奪い取ります。ツェワンラブタンは康煕帝と連携し、ガルダンはアルタイ山脈以東の漠北に孤立しました。

 1691年、ハルハ・モンゴルのハン(王)たちはドロンノール(旧上都)で会盟し、康煕帝に忠誠を誓いました。かつて唐の太宗が「天可汗」の称号を受けたように、清朝の君主はチャイナに対しては天子・皇帝として、満洲族やモンゴル、チベットなどに対しては大元の天命を引き継ぐハーンとして君臨することになります。西のハミ国(クムル)も清朝に服属し、ガルダンはロシアなどへ救援を求めますが拒まれました。

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 1696年、康煕帝はガルダンを滅ぼすべく北京やフフホトなどから出兵し、ヘンティー山脈南麓のゾーンモドでジュンガル軍と激突しました。この戦闘でガルダンの妃アヌが戦死し、ガルダンは大敗を喫して西へ逃れ、1697年4月にアルタイ山脈の麓の居城ホブドで病死しました。ここに清朝はモンゴル高原を征服したのです。ツェワンラブタンは名実ともにジュンガルの君主となりますが、ダライ・ラマ政府からハン号は贈られず、ホンタイジ(皇太子、副王)のままとしています。

西蔵動乱

 この頃、チベットではダライ・ラマ5世の遷化が公表され、その転生とされるツァンヤン・ギャツォがダライ・ラマ6世として擁立されました。1697年、チベットの使節が清朝に送られ、事情を説明して即位を承認されています。ただジュンガルもチベットも清朝の属領となったわけではなく、朝貢国たる外国という扱いです。

 しかし1705年、アムド(青海)のオイラト・ホシュート部の長であるラサンがチベットに侵攻してきました。彼はグシ・ハンの曾孫にあたりますが、チベットにおけるグシ・ハン王朝は衰えて有名無実となり、ダライ・ラマ政権に抑えられていたため、これを復権すべく行動したのです。彼はラサに入ると摂政サンギェ・ギャツォを殺し、チベットの実権を握ります。

 ラサンはダライ・ラマ6世を脅してテンジン・ジンギル・ギャルポ、モンゴル名シャジンバリクチ・チンギス・ハンの称号を授けさせました。しかし彼の権威も権力も充分でなく、チベット人は各地で反乱を起こします。そこでラサンは清朝と通じ、康煕帝からチベットの摂政として承認され、翊法恭順汗(仏法を支え、清朝に恭順した王)の称号を授かりました。

 またラサンは清朝の意向を受けてダライ・ラマ6世を捕らえ、「放蕩者でふさわしくない」として廃位し、北京へ護送しました。6世は護送の途中にアムドで病死し、ラサンは代わりにイェシェー・ギャツォなる者を「真のダライ・ラマ6世」として擁立します。これに対してチベット人はもちろん、ホシュート部の一部やジュンガル部も反発し、康煕帝は彼をダライ・ラマと一時認めたものの、反発を考慮して保留するとしました。

 1714年、ツェワンラブタンはラサンの長男テンジンに娘ボトロクを娶らせたいと招き寄せ、人質として留め置きます。これを奪還しに来たラサンの軍を撃滅したのち、1715年にはハミやトルファンで清軍とも衝突、ジュンガルと清朝はチベットを巡って再び戦争状態となります。この頃、1706年に遷化したダライ・ラマ6世の転生者と目される少年ケルサン・ギャツォが出現したと噂が流れ、清朝は急いで彼をアムドのクンブム寺に庇護させました。

 1717年、ツェワンラブタンはラサンを打倒すべくチベットへ軍隊を派遣します。ジュンガル軍は西方からラサを襲撃し、ラサンは逃亡途中に殺され、チベットのグシ・ハン朝は滅亡します。イェシェー・ギャツォも廃位されますが、ケルサンは清軍に守られていて手が出せず、ダライ・ラマは空位のままとなりました。1718年、康煕帝はジュンガル軍を討伐すべく軍隊をチベットへ派遣しますが撃破されました。そこで康煕帝はアムドのケルサンを担ぎ上げ、正統なダライ・ラマ6世と承認します。ツァンヤンもイェシェーも6世とは認めず、5世の転生者はケルサンのみとしたのですが、チベット史上はツァンヤンを6世、イェシェーを対立6世、ケルサンを7世としています。

 1719-20年、康煕帝は「文殊皇帝が正統なダライ・ラマをチベットに戻しに来た」として、アムドから第二次チベット遠征軍を送り込みます。チベットの貴族や寺院、有力者には清朝に味方すれば地位は約束すると伝え、ジュンガルの横暴を誇張して喧伝し、不利となったジュンガル軍は打ち破られます。こうして1720年、清軍はラサに入城し、ダライ・ラマ6世(7世)を即位させました。ハミやトルファンも同時期に清朝に征服されています。

西蔵分割

 康煕帝はチベットを直轄地とはしませんでしたが、摂政を廃止して四人の大臣による合議制とし、彼らを通して影響力を振るおうとしました。またダライ・ラマとグシ・ハン朝のチベット王(ハン)を正統なチベットの支配者とし、新たなチベット王を選出するよう求めます。しかしホシュート部やグシ・ハン朝の王族は王位を巡って争い、大臣同士も争って内紛状態となります。1722年には康煕帝が崩御し、跡を継いだ雍正帝は対チベット政策を転換することにしました。

 1723-24年、雍正帝はラサから清軍を引き上げさせ、アムドのグシ・ハン王家およびホシュート部を「清朝に背いた」として討伐しました。そしてアムドとカム(チベット高原東部)にあったグシ・ハン王朝の権益を接収し、ダライ・ラマ政府の統治領域をチベット高原の中西部、ウー・ツァン地方(烏斯・蔵)とカムの西部に限定しました。のちには内紛を調停するためとして二人の駐蔵大臣をラサに派遣し、清朝の監視下に置いています。

準部動揺

 かくて清朝は大きく北と西に広がり、モンゴル高原とチベット高原に進出して、ジュンガルを東と南から包囲する形となります。ジュンガル君主ツェワンラブタンは脅威を感じ、1721年には清朝に対抗するためロシアに使節を派遣、ピョートル大帝に軍事同盟を呼びかけています。ロシア側は喜んで使節を派遣し、ツァーリへの臣属を求めましたが、清朝からも使節が来て彼を説得します。結局ジュンガルは1725年に清朝との講和を選択しました。

 しかし1727年、ツェワンラブタンはオイラト系ヴォルガ・トルグート部(カルムィク)により毒殺されます。彼らはロシアと軍事同盟を結んでいますから、ロシアの仕業でしょう。跡を継いだガルダンツェリンはロシアと結んで清朝に対抗しつつ、両大国の間での中継貿易で富み栄えました。また清朝とロシアはモンゴルを巡って国境画定の交渉を重ねており、1728年にキャフタ条約が締結されて一応の決着となります。

 さて、この頃ロシアはピョートル大帝のもとで近代化を進めていました。次回は彼について見ていきましょう。

◆Russian◆

◆Roulette◆

【続く】

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