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【つの版】度量衡比較・貨幣14

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 8世紀初め頃、倭国は「日本」と国号を改め、君主は「天皇」と自称し、唐の律令を真似た「大宝律令」を制定します。銅銭の鋳造と流通も国家事業として進められ、708年には新たな銅銭「和同開珎」が鋳造されました。日本政府(朝廷)の発行したこれらの銅銭について見ていきます。

◆銅◆

◆和◆

和同開珎

 持統天皇は697年に退位し703年に崩御しますが、次の文武天皇は在位10年で707年に崩御し、子の首(おびと)は幼かったため持統の妹で文武の母にあたる阿閇皇女が中継ぎとして即位します(元明天皇)。即位翌年の慶雲5年(708年)正月、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)の黒谷から「和銅(にぎあかがね、自然銅)」が発見されました。天皇はこれを吉祥として「和銅」と改元し、新たな銅銭「和同開珎」を発行することにしたといいます。

 和銅元年5月には銀銭が、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたと『続日本紀』にあります。主に長門や周防で産出する銅を用い、長門や畿内各地に鋳造所が置かれました。実際には新たな銅銭の鋳造は以前から計画されており、その口実として和銅の発見が仕込まれたのでしょう。「和同開珎」の銭文は史書に見えませんが、持統・文武・元明が都を置いた藤原京で多数出土していることから、この時発行された銭と考えられます。

 その形状は唐の開元通宝を模し、直径24mm・方孔1辺7mmで、上から時計回りに「和同開珎」と刻まれ、裏は無文です。重量は銀銭が6g、銅銭が4gほどです。「」とは「寶()」あるいは「珍」の異体字といい、読み方については諸説ありますが、開元通宝を模したのならでしょう。和同は和銅の略字とも、倭(和)国の銅銭を意味するとも、天地陰陽などが和合同一するさまともいい、開珎は「最初の宝(貨幣)」を意味します。

 和同開珎の価値は、朝廷が法律で定義しました。和銅2年(709年)正月、銀銭を私鋳する者はその身柄を国家が没収し、財産は密告者に与えるとします。3月には「銀銭4文以上は銀銭を、3文以下は銅銭を用いよ」とし、8月には銀銭を廃止して銅銭のみを流通させました。和銅3年(710年)9月には天下に銀銭を改めて禁止し、和銅4年(711年)5月には「穀物6升(2kg、現在の2升4合=1日分の労賃相当)が銭1文」と定めました。

 唐の物価では労働者の日給が50文、粟1石=絹1疋=400文ですから1文は現代日本の200円ぐらいですが、和同開珎は1文=1万円ぐらいで、ローマのデナリウス銀貨にも匹敵します。銀銭の流通を止めて銅銭の流通をはかるためわざと銅銭を銀銭と等価値にしたのだとも言われていますが、原価や製造コストを大幅に上回る価値ですから貨幣発行益も大きく、朝廷にとっては大きな収入になります。和銅元年には遷都の詔が出され、和銅3年(710年)に奈良盆地北方の奈良(平城京、寧楽)への遷都が行われていますから、その費用をかき集めるためにこうした貨幣政策をとったのでしょう。

蓄銭叙位

 また銅銭の流通と還流を促進するため、和銅4年(711年)に貴族や官吏への俸給の一部を銭とし、10月には蓄銭叙位令が施行されました。銭1000文=1貫として、5貫から20貫を献納すれば位階を上昇させるというもので、同年11月にはこれに基づく叙位があったものの、促進のためのやらせでしょう。翌年強化策として郡司(地方長官)の任命には6貫(6000万円)の献納銭が必要とされます。

 和銅5年(712年)には旅行者に銭の携帯を義務づけ、税の一部を銭で納めることが許可されます。この頃の税制は唐から導入した租庸調制でしたが、日本風にややアレンジされています。租は口分田1段につき2束2把の穀物とされ、収穫量の3-10%に相当します。これらは各地の国府へ納入され、種籾として農民に貸付を行いました(出挙)。また一部は脱穀されて都へ輸送されましたが、物納は生産者である農民自身が輸送する義務を負いました。

 庸は労役で、畿内や飛騨国を除く諸国の21歳以上の男性に課され、布・米・塩などを都へ輸送する義務とされました。1人あたり布1丈3尺、あるいは米5斗を納めますが、この基準はしばしば変更されました。調は布や糸・綿などを納入するもので、17歳以上の男性に課されます。絹なら6人で1疋、布なら2人で1端(のち1人で1端)とされ、紙や漆など手工芸品も調とされました。和同開珎が発行されると、銭5文で調布1常(1丈3尺)、つまり20文で1端に相当するとされ、銭での納入が推奨されています。

物価変動

 銀銭や富本銭といった先例はあるものの、日本での銅銭普及には多くの困難が伴いました。唐の開元通宝が200円のところ和同開珎は1万円もするのですから、民間ではたちまち私鋳銭が蔓延します。朝廷は厳罰をもって対処したものの止められず、銭は普及しながらも貨幣価値は下落していきました。

 元明天皇は和銅8年(715年)に退位し、娘の氷高(元正天皇)に譲位します。即位同日に霊亀と改元し、霊亀3年(717年)に養老と改元しました。そして養老5年(721年)、「銀1両=銀銭4枚=銅銭100枚」との交換比率を公定します。当時の1両(大両)は40gほどですから、銀銭1枚は10gで、銅銭25枚にあたることになります。下落する銅銭の価値を、廃止したはずの銀銭の価値でもって再定義したのですが、下落には歯止めがかからず、翌年には銀1両=銅銭200枚と改めています。

 当時の日当を見ると、人夫が10文、檜皮葺職人が20文、表装や写経を業務とする下級官吏が20文、仏師が40文。日当20文を1万円とすれば1文500円、1貫50万円となります。下級官吏の年収は7-8貫、350万-400万円です。こんなもんでしょう。物価は食糧1升(現代の0.4升=0.72リットル)あたり米5文(2500円)、味噌6文(3000円)、酒10文(5000円)、塩15文(7500円)、茄子は1-2文(500-1000円)。麻布1端で350文(17.5万円)、経紙1張で2文。農地1町(方109m、1ha)あたり10貫(500万円)です。

 民間では、銅銭よりは食糧の方が実質的な通貨として流通していました。例えば稲1束は籾殻つきの米1斗、精米5升(現代の2升=3.6リットル)にあたり、米1升が5文ですから25文(1.25万円)に相当します。精米代とかはかかるでしょうが、おおよそ日当にあたりますね。746年の記録によると、通常の奴婢1人は稲1000束=2万5000文=25貫(1250万円)。11歳の奴(男奴隷)は稲600束(15貫=750万円)、39歳の車匠の奴は職人の技術があることから稲1400束(35貫=1750万円)です。牛は稲500-600束(12.5-15貫=625万-750万円)、馬は稲800-1000束(20-25貫、1000万-1250万円)でした。

1文500円、1貫50万円として

日当
子供:5文(2500円)
人夫:10文(5000円)
職人や下級官吏:20文(1万円)
仏師:40文(2万円)

物価
茄子1升:1-2文(500-1000円)
経紙1張:2文(1000円)
米1升:5文(2500円)
味噌1升:6文(3000円)
酒1升:10文(5000円)
塩1升:15文(7500円)
稲1束=米5升=25文(1.25万円)
麻布1端:350文(17.5万円)
牛、子供の奴婢:12.5-15貫(625万-750万円)
農地1町(1ha):10貫(500万円)
馬:20-25貫(1000万-1250万円)
奴婢:25貫(1250万円)

皇朝諸銭

其新銭文曰萬年通寳。以一当旧銭之十。銀銭文曰大平元寳。以一当新銭之十。金銭文曰開基勝寳。以一当銀銭之十。(続日本紀)

 和同開珎の発行から52年後の天平宝字4年(760年)、太師・恵美押勝(藤原仲麻呂)により新たな銭が発行されます。これは「万年通宝」といい、重さ3-4gの銅銭でしたが、「旧銭(和同開珎)10枚にあたる」とされました。同時に銀銭「太平元宝」、金銭「開基勝宝」も発行され、新銭(万年通宝)10枚が銀銭1枚、銀銭10枚が金銭1枚にあたるとされます。すなわち金銭1枚は和同開珎1000枚=1貫にあたります。

 実際には金銭と銀銭はほとんど発行されず、新銭は旧銭と文面が違うだけで額面が10倍もあるため混乱し、私鋳が横行しました。また恵美押勝は5年後の764年に反乱を起こして処刑され、これらの銭は廃止されます。押勝を打倒して復位した孝謙/称徳女帝(聖武天皇の娘)と側近の道鏡は、765年に「神功開宝」を発行し、万年通宝と等価値であるとします。これは前政権を否定し、現政権の正統性をアピールするためのものでしかありません。

 762年に東大寺が市場で購入した物品の単価を見てみると、米や麦1石が1貫前後で取引されています。750年頃には米1升が5文ですから、1斗50文、1石500文(0.5貫)のはずですが、ここでは倍に値上がりしているのです。つまり10年で銭の価値が半分に下がったわけです(1文=250円)。1貫=1石というのはわかりやすいため、これからはこうなっていきます。
762年、東大寺による市場での購入品(単価)
穀物1石 玄米:920文 小麦:1貫40文 白米:1貫109文 粳米:1貫230文
穀物1升 玄米:9.2文 小麦:10.4文 白米:11.09文 粳米:12.3文

食料品ほか1升
青菜:1.3文 ふのり:3.5文 家芋、漬物、生古毛(キノコ?):4文
生栗:5文 末醤(こなみそ):7.5文 塩:11.65文 干栗:13文
醤(ひしお):13.57文 酢:27文

ほか
山蘭1把:1文 根ジュンサイ1把:2文 索餅1藁:3文 干柿1連:5文
大根1把:8文 海藻1連:15文
物品
経紙1張、竹箒1本、麻笥(はこ)1口:2文(500円) 壺1つ:3文(750円)
箸竹1束:4文(1000円) 米を研ぐかご1つ:6文(1500円)
木履1組:18文(4500円) 白木の櫃:22.5文(5625円) 鎌1つ:65文(1万6250円)

燃料 炭1籠:9.74文 薪1荷:14.45文 ごま油1升:152文

 称徳天皇が770年に崩御し、傍系の光仁天皇が即位すると、道鏡は失脚して下野国へ遷され、772年に亡くなります。光仁天皇は和同開珎・万年通宝・神功開宝の三銭を等価と定め、新銭発行による混乱を収集しました。これも前政権の行った政策を否定したものです。

 781年、光仁天皇は皇太子の山部(桓武天皇)に譲位します。彼は784年に山城国長岡京に遷都しますが、794年にさらに北方の愛宕郡・葛野郡にまたがる地に遷都し、平安京と名付けました。平安時代の始まりです。

 遷都の費用を捻出し、かつ旧政権の影響から脱却するために、桓武天皇も新銭を発行します。これが796年に発行された「隆平永宝」で、4年間の猶予期間を置いて旧銭を廃止し、旧銭10枚につき新銭1枚にあたるとされます。しかし旧銭廃止は実行されず、桓武天皇崩御後の808年に撤廃されました。

 桓武の跡を継いだ平城天皇は809年に弟(嵯峨天皇)に譲位しますが、太上天皇として平城京に移住し、810年に都を平城京へ戻すとの詔勅を発しました。嵯峨天皇は迅速に兵を動かしてこれを鎮圧し、上皇は出家して大権を喪失します(薬子の変)。嵯峨天皇は平安京を中心とした新体制を確立すべく様々な改革を行い、818年には新銭「富寿神宝」を発行しました。

 その後も朝廷はしばしば新銭を発行(改鋳)しましたが、大きさや重さはむしろ減少し、品質も次第に劣化していきます。また新銭発行ごとに旧銭は価値が1/10になるため、民間では私鋳どころか銭の使用自体が嫌われ始め、確実な価値のある穀物や布、塩などの現物取引が主流になる有様でした。

 10世紀末には銅銭の発行が停止し、「一切世俗銭を用いず」という状況に陥ります。畿内では一応流通してはいたものの、日本で銭が再び盛んに流通するようになったのは、12世紀後半に平清盛が宋銭を大量に輸入してからです。次回は宋銭について見ていきましょう。

◆No◆

◆Money◆

【続く】

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