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【つの版】ウマと人類史:近世編34・波斯分割

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1683年、第二次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は、勢いに乗った欧州連合軍によって反撃を受け、多くの領土を失います。しかしなおも大国として勢力を保ち、欧州諸国とも友好関係を結んで繁栄しました。この頃、東方の宿敵サファヴィー朝はどうなっていたのでしょうか。

◆怒りの◆

◆アフガン◆

薩非波斯

 1629年に名君アッバース1世が崩御し、孫のサフィー1世が19歳で即位します。父ムハンマド・バーキールは1615年に讒言によって殺され、その兄弟たちも粛清や夭折でいなくなり、残ったのが彼だけだったのです。これがトラウマになったのか、サフィーは自らの地位を守るために傍系王族や重臣を次々と粛清し、各地で反乱が起きて国は乱れました。これに乗じてオスマン帝国が反撃に出、アルメニアとイラクを奪われます。またホラーサーンにはブハラ・ハン国が、カンダハールにはムガル帝国が侵攻し、和平条約を結んでイラン本土は保ったものの、領土は著しく縮小しました。

 しかし、幸いにも大宰相のサルー・タキーは有能でした。彼は大規模な公共事業や交易を推進し、地方役人の不正を処罰して税収を増やし、サファヴィー朝をなおも繁栄させました。またキリスト教国ジョージアを属国として宗教寛容政策をとり、首都イスファハーンにも教会や司教座が置かれたといいます。1642年、サフィー1世はカンダハール遠征の途中で病没し、息子アッバース2世が10歳で即位しました。

 幼君であったため大宰相サルー・タキーが政権を握りましたが、彼が1645年に暗殺されると祖母の後見を受けつつ親政を開始し、1648年にムガル帝国からカンダハールを奪還しました。同年には祖母を殺害して後見を廃してもいます。その後は外征を控え、1653年にロシアの支援を受けたコサックがカフカース山脈に襲来したのを撃退した程度でした。1665年にはホラーサーンへ侵入したウズベクを撃退すべく出陣しましたが、翌年10月末に33歳で崩御し(深酒が原因といいます)、子のサフィー2世が即位しました。

 対外的には、英国とオランダの東インド会社と貿易を行っていましたが、特産の絹の売れ行きが低下したため金銀を輸出することになり、経済状態が悪化しました。また宗教的には寛容でイエズス会の布教も許可しますが、国教たるシーア派からの反発が強く、ユダヤ教徒への迫害も起きています。それでも国内にはヨーロッパ文化が流入し、芸術や建築が花開きました。

 彼は即位時に19歳でしたが、即位後まもなく疫病・飢饉・地震が相次ぎ、自らも病に倒れ、コサックやウズベクが侵入するなど災厄が続きました。人々が「これは即位式の日取りが悪かったのだ」と進言したため、サフィーは1668年3月に改めて即位式を執り行い、スライマーンと改名しました。しかし災厄は収まらず、1668-69年にはドン・コサックの襲撃を受けます。

 これを率いていたのはスチェパン・ラージンというコサックでした。彼はモスクワ・ロシアの支配を逃れて盗賊団となって暴れまわり、35隻からなるガレー船団を率いてヴォルガ川を横行し、船を襲ったり砦を落としたりしていました。ついにアストラハンを経てカスピ海に出ると、デルベント、バクーなどカスピ海西岸のペルシア領を襲撃し、住民を殺戮しました。1669年7月にはペルシア艦隊を撃滅し、功績によってロシア皇帝から恩赦されましたが、1670年にはアストラハンでロシアに対する反乱を起こし、モスクワへの侵攻を目論みます。この反乱はロシアを震撼させたものの、1671年には失敗して捕縛され、八つ裂きの刑に処せられました。彼のペルシア遠征は、いにしえのルーシの遠征を思わせます。黒海方面はクリミアに阻まれて進出しにくくとも、カスピ海方面では結構暴れていたのですね。

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 スライマーンの在位期間は1694年まで30年近く続きましたが、彼は政治に興味を持たず、大宰相や宦官の評議会に委ね、ハレムでの享楽と酒宴に明け暮れていました。ジョージアは引き続き重要な属国とされましたが、ペルシアはオスマン帝国が1683年以後敗北を喫し続けた後もこれに乗じて攻め込もうとはせず、欧州諸国からの援軍要請も断っています。

首都陥落

 1694年、スライマーンが崩御し、子のスルターン・フサインが26歳で即位します。治世初期には実権を握ったシーア派の神学者に従って国内のシーア派(十二イマーム派)以外の宗派・宗教を弾圧し、飲酒や娯楽も禁止しましたが、その後は大叔母と宦官に政治を委ね、酒色に溺れるようになります。彼は豪奢な宮殿を造営し、1706年には宮廷ごと首都イスファハーンを離れて歴代イマームの霊廟を経巡り、行く先々で重税を取り立てました。役人たちは腐敗し、賄賂と汚職が横行し、各地で反乱が勃発します。

 特に大規模な反乱は、東方のカンダハールで起こりました。この地はムガル帝国やブハラ・ハン国に接する最前線ですが、現地のパシュトゥーン人らはシーア派ではなくスンニ派を信仰しており、サファヴィー朝には反抗的でした。そこへ1704年、ジョージア中部のカルトリ王国の王ギオルギ11世(グルギーン・ハン)が反乱鎮圧のため総督として派遣されたのです。イスラム教徒どころかキリスト教徒に従うことになった現地人は当然怒りました。

 1709年4月、パシュトゥーン人ギルザイ部族連合ホータキー族の族長ミール・ワイスは、ギオルギらを宴席に招いて殺害し、サファヴィー朝に反旗を翻します。これがホータキー朝カンダハール王国です。サファヴィー朝はミール・ワイスをカンダハールの摂政(ヴァキール)に任命して懐柔し、彼は1715年11月に逝去するまで、名目上はサファヴィー朝の臣下にとどまりました。カンダハール摂政の地位は弟のアブドゥルアズィーズが継承しますが、1717年にミール・ワイスの子マフムードに殺され、位を奪われます。

 マフムードはヘラートで反乱を起こしていた同じパシュトゥーン人のアブダーリー部族連合を平定したのち、1719年にサファヴィー朝に反旗を翻し、ケルマーンに侵攻します。クルディスタンとシルヴァン(現アゼルバイジャンとダゲスタン)ではスンニ派が反乱を起こしており、オスマン帝国への服属を表明していました。1722年3月、マフムードはペルシア軍を撃破してイスファハーンを包囲し、10月に陥落させます。スルターン・フサインはマフムードに王位を譲って退位し、幽閉されました。

波斯分割

 しかし、スルターン・フサインの息子タフマースブ2世は北方の旧都ガズウィーンに逃れ、同年11月に王位を宣言します。彼のもとにはアーリヤ系のバフティヤーリー族、テュルク系クズルバシュのカージャール族、アゼリー(アゼルバイジャン人)、さらにはグルジー(ジョージア人)らが集まり、マフムードらパシュトゥーン人に抵抗しました。マフムードは討伐軍を派遣してガズウィーンを攻め落としますが、反撃に遭って奪還されます。ケルマーンやバローチスターンでもマフムードへの反乱が起きました。

 この頃、混乱に乗じてロシアがペルシア領へ侵攻してきました。ロシアのピョートル大帝は、キリスト教国であるジョージアのカルトリ王国とアルメニア教会から支援を要請され、1722年7月にダゲスタンへカスピ海と陸路からロシア軍を派遣しました。8月にはデルベントを、12月にはラシュトを占領、翌年にはバクーへ進軍します。さらにオスマン帝国も軍事介入し、タフマースブはやむなく1723年9月にロシアと条約を締結しました。これによりデルベント、バクー、シルヴァンばかりか、カスピ海南岸のギーラーン、マーザンダラーン、アスタラーバード(ゴルガーン)もロシア領となります。

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 1724年6月、ロシアはフランスの仲介でオスマン帝国と条約を結び、ペルシア領の分割を行います。そしてクラ川とアラス川の合流地点を境として、西はオスマン帝国、東はロシアのものと決まりました。タフマースブはカスピ海南岸まで侵攻したロシア軍を避けてガズウィーンを捨て、マーザンダラーンの山中に逃亡する始末でした。

 イスファハーンではマフムードが猜疑心を募らせて粛清を繰り返す暴君と化し、1725年4月に幽閉ないし暗殺されて、従兄弟(アブドゥルアズィーズの子)のアシュラフが王位に擁立されます。彼はオスマン帝国に対して、各地の王位請求者らがオスマン帝国に差し出した領土の返還を求めますが、オスマン帝国は「スルターン・フサインに王位を返還せよ」と返答し、1726年にアシュラフへ宣戦布告します。

 アシュラフは幽閉されていたスルターン・フサインを殺すと、侵攻してきたオスマン軍に工作員を送り込み「スンニ派同士で殺し合うべきではない、トルコ人とアフガン人(パシュトゥーン人)は異端(シーア派)のイラン人に対して同盟すべきだ」とプロパガンダを流します。これで数的に有利なオスマン軍の士気は下がり、アシュラフは会戦でオスマン軍を撃破したのち、1727年に講和を結び王位を承認させます。領土返還は一旦放棄しましたが、オスマン帝国との講和が成ったことは大きな成果でした。

 追い詰められたタフマースブは、東のマシュハド付近に勢力を持っていたナーディル・クリー・ベグに同盟を呼びかけます。彼はテュルク系のクズルバシュの出自で、勇猛果敢な騎馬遊牧民アフシャール部族連合を率いていました。ナーディルは1726年これに応じると、自ら「タフマースブ・クリー・ハン(タフマースブのしもべ)」と名乗って勢力を広げました。これがのちのナーディル・シャーです。タフマースブは彼の支援によって反撃に転じ、サファヴィー朝の再興に乗り出すこととなります。

◆OUT◆

◆POST◆

【続く】

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