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【つの版】度量衡比較・貨幣02

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 ハンムラビ時代のバビロニアでは、銀1シェケル(8.4g)が大麦300リットル、一般的な労働者の月給に相当する価値を持っていましたが、銀の増産が進んで値崩れしました。古代中近東の貨幣や物価を見ていきましょう。

◆泡◆

◆銭◆

貨幣鋳造

 金や銀の重量を計測して価値の尺度とすることはシュメル文明の時代から行われて来ました。古くは腕輪状に加工され、必要な重量ぶんを切断して使用していたようですが、紀元前7世紀頃には表面に刻印を打った鋳造貨幣がアナトリア半島のリュディア王国で造られ始めました。これは金と銀の合金に打刻したもので、その色合いからギリシア語で「琥珀」を意味する「エレクトロン」と呼ばれました。リュディア語の呼称は不明ですが、古くからエジプトにも輸出されていたようです。

 イランのザグロス山脈からアルメニア高原、アナトリア半島、バルカン半島にかけては大地が褶曲して山々が連なり、金銀や銅など多数の金属の鉱脈が存在しました。またリュディアのパクトロス川では砂金が採取されましたが、自然合金として銀の含有率が高く(45-55%)、分離することが困難でした。リュディア王はこの珍しい合金を一定の重量の金属塊に鋳造し、品質保証・偽造防止のために刻印を打ったのです。それは獅子や鹿などの動物や重量を表す文字で、重量は14.1g(スタテル/大型化したシェケル)を規準としていました。形状は平たくはなく豆粒状です。

 14.1gのエレクトロン貨幣は、兵士1人の月給に相当するとされます。銀との合金とはいえ大型の金貨ですからそれぐらいはするでしょう。それより小さな貨幣も必要ですから、1/3シェケル(4.7g)から1/96シェケルに至る大きさのエレクトロン貨幣も造られます。しかし金銀の比率はまちまちで、金より銀が多い場合は価値が低く見積もられ、国外の商人からはあまり歓迎されませんでした。

 前560年頃に即位したリュディア王クロイソスは、これを改革して金貨と銀貨を造り、金銀複本位制を採用しました。初期のコインはともに10.7gでしたが、すぐに金貨は8.1g(小さなシェケル)に変更され、金貨1枚が銀貨10枚(107g)と同じ価値を持つと規定されました。すなわち金銀比価は1:13ほどです。表面には獅子と牛、裏面には重量を示す文字が刻まれました。価値はエレクトロン貨幣を踏襲し、金貨1枚が兵士1人の月給相当とされ、補助貨幣として半シェケル(5.35g)などの小型銀貨も造られます。これはエレクトロン貨幣よりわかりやすいため、地中海世界に広く流通し、リュディア王国は商業が盛んになって富み栄えました。

波斯貨制

 しかし、リュディアは紀元前547年にペルシア帝国に併合されます。クロイソスはペルシアの大王キュロスに仕えて様々な助言を行い、キュロスはリュディアの貨幣制度を採用し、これまでと同じように金貨と銀貨を鋳造して流通させました。同様のコインはギリシア諸国でも普及し、銀山や金山が各地で開発され、商業や植民活動はますます盛んになりました。

 前521年にペルシアの大王となったダレイオス1世は、前510年頃から貨幣改革を行い、8.1g前後の高純度の金貨と、5.35g前後の高純度の銀貨を鋳造しました。前者は古代ペルシア語で「黄金」を意味するダラニヤ(daranya)と呼ばれ、アラム語でダレイコン、ギリシア語でダレイコスと呼ばれました(ダレイオスとは語源的に無関係です)。後者はギリシア語でシグロスと呼ばれますが、シェケルに違いありません。重量はシェケルの半分ほどです。

 ダレイコス金貨の表面には、獅子や牛ではなく弓矢(のち槍や剣)を持つ王の横の姿が鋳出され、裏面には重量を示す刻印が打たれました。価値や交換比率はリュディア王クロイソスの制度のまま、ダレイコス金貨1枚がシグロス銀貨20枚(107g)に相当し、金貨1枚が兵士1人の月給に相当しました。金貨1枚が18万円とすれば金1gが2万円余、シグロイ銀貨1枚が9000円、銀1gが1682円ほど。銀1g3000円として逆算すればシグロイ銀貨1枚が1.6万円、ダレイコス金貨1枚が32.1万円になります。このぐらいでしょうか。一ヶ月ぶっ通しで働くわけではありませんから、日給銀貨1枚です。

 補助貨幣として1/8シグロイ(2000円、銀0.67g)にあたるダナケ銀貨なども用いられました。この貨幣システムはペルシア帝国全土に普及し、交易路に乗って遠くインドや中央アジア、地中海世界やアルプス以北にまで届きました。チャイナにも影響を与えたかも知れません。

希蠟貨制

 古代ギリシアでも、リュディアから貨幣制度を導入しました。それ以前にフェニキアやカルタゴでは銀がシェケルを単位として使用されており、イベリア半島から大量の金銀がもたらされています。ギリシア人は後から来て、それらの資源を交易や戦争で手に入れ、植民都市を地中海や黒海沿岸に建設していきました。しかし度量衡や貨幣の大きさは各都市国家によりまちまちで、あまり統一されていません。

 初期のギリシアではスタテル(stater/重さ)という地金コインが流通しており、エウボイア島では16.8g(2シェケル)にあたりました。やがてこれを4分の1にした重量がドラクマ(掴む、4.2g)と呼ばれ、倍の1シェケルがディドラクマ(2ドラクマ)ないしスタテル、4倍がテトラドラクマ(4ドラクマ)と呼ばれました。またドラクマの1/6がオボロスと呼ばれました。貨幣の表面には、当初は王や貴族ではなく神々や動物の図像が刻まれています。

 おおよそ労働者の日給が1ドラクマにあたります。銀1gが3000円相当とするとドラクマは1.26万円、ディドラクマは2.52万円、テトラドラクマは5.04万円、オボロスは2100円ほどです。5.35gのペルシアのシグロス銀貨は1.6万円相当ですからやや高く、オボロスはダナケとほぼ同じです。

 古代ギリシアでは冥土の川の渡し守カロンに支払うため、死者の口に1オボロスの銀貨を入れて弔いました。これを持たぬ死者は200年も後回しにされたといいますから、冥土の沙汰も銭次第です。ギリシア人は財布を持たずコインを口の中に入れて持ち運んだともいいますが不衛生ですね。

 ギリシアでもフェニキアと同じく、50シェケルの重さがミナと呼ばれました。銀に換算すると100ドラクマで、420gです。60ミナがタラントン(合計)でフェニキアのキッカール(円形)にあたり、1ミナ=50シェケルとすれば6000ドラクマで、25.2kgに相当します。1ドラクマ1.26万円とすれば1ミナの銀は126万円、1タラントンの銀は7560万円にもなります。

 貨幣が導入されるまでは、農地と穀物こそが富でした。紀元前594年、アテナイの執政官ソロンは市民の債務帳消しを行い、貧困市民の債務奴隷化を禁止しましたが、同時に奴隷と農奴を除く全ての市民(自由民)を所有する土地の農業収入に応じて四等級に分け、等級に応じて権利と義務を分配しました。当時、家柄ではなく資産で権利を得られるのは画期的なことであり、この体制を「資産政ティモ・クラツィア」と呼びます。
 これによると、農業収入は小麦に換算してメディムノス/MM(52.51リットル≒40kg)で測られ、1MM=銀6ドラクマ(7.56万円)です。農業収入500MM(3000ドラクマ=3780万円)以上の者は富豪階級で、ストラテゴス(将軍/執政官)に立候補可能でした。ついで300MM(1800ドラクマ=2268万円)以上500MM未満の者は政府要職につける騎士階級ヒッペイス、200MM(1200ドラクマ=1512万円)以上300MM未満の者は行政官僚や重装歩兵になれる自由農民ゼウギタイですが、200MM未満の者は無産市民テテスとされ、選挙権はあっても被選挙権はなく、軍船の漕手や軽装歩兵となりました。しかし土地に投資せず商業だけで相当の利益をあげている者も多く、資産政は崩壊しました。

財政比較

 ヘロドトスによれば、ペルシアの大王ダレイオスは全土を20余りの徴税区(州、サトラペイア)に分け、本国ペルシアを除く諸州に毎年の貢税を課しました。金納はエウボイアのタラントン(60ミナ、25.86kg)を用い、銀納はエウボイアの78ミナにあたるバビロンのタラントン(33.6kg)を用いました。銀1g3000円としてバビロン・タラントン/BTの銀は1億円余、金1g3.9万円としてエウボイア・タラントン/ETの金は10億円余です。

 貢税額は、イオニアからカッパドキアやキリキアに至るアナトリア半島一帯が1760BT(うち140BTはキリキア防衛の騎兵部隊の費用)、エジプトが700BT、シリアとパレスチナは350BT、バビロニアとアッシリアは1000BT、アルメニアから西イラン一帯は1850BT、東イランと中央アジアは2080BT、インドは砂金360ETです。これに加え、キリキアは白馬360頭、エジプトは穀物12万MM(1MM=銀21gとして銀2520kg=75.6BT)、バビロニアとアッシリアは去勢した少年500人を毎年貢納し、エジプトの南のヌビアは2年ごとに砂金2コイニクス(2.2リットル)と黒檀200本、少年5人と大きな象牙20本を貢納し、カフカース地方からは5年ごとに少年少女を200人ずつ、アラビアからは毎年乳香を1000タラントン貢納したといいます。

 合計すると属州からの銀だけで7740BT(億円)、インドの砂金だけでその半分近い3600BT相当になり、歳入は1万1340BT、1兆円をゆうに超えることになります。現代日本の国家予算は100兆円ですが、古代にあって1兆円規模の歳入を持つ国は世界帝国と言えます。

 これに対し、前5世紀にアテナイが対ペルシア・スパルタのため結成した「デロス同盟」の年間予算は、最盛期でも銀2000タラントン(アッティカ・タラントン=7560万円として1512億円=1512BT)でしかなく、ペルシア帝国からすれば8分の1に満たない程度の財政規模でした。それでもエジプトの貢納額の倍以上はあり、侮れない敵国です。

 このカネを用いて、アテナイの支配者ペリクレスは富国強兵と文化の振興を推し進めました。パルテノン神殿の建設費は500万ドラクマ(630億円)、蓄えた銀は3600万ドラクマ=6000タラントン(4536億円)に及びました。200人乗りの三段櫂船1隻の建造費は5000ドラクマ(6300万円)です。またアッティカ地方南部にはラウリオンという銀鉱山があり、アテナイは捕虜や奴隷を酷使して大量の銀を国庫におさめました。

資産物価

 この頃の資産を見ると、大富豪で45タラントン(34億円)、公共建築物を寄贈する義務を持つ市民は3タラントン(2.27億円)以上、都市部での小さな一戸建てが2000ドラクマ(2520万円)で、貧乏市民ソクラテスの資産は500ドラクマ(630万円)です。資産政はすでに崩壊して久しく、ペリクレスは民主政を謳って貧乏な市民にも公職の被選挙権を開放したものの、要職につけたのはペリクレスら貴族階級や富裕層だけでした。政治家や将軍に教養もない者が就任すると国家が危険なので仕方ない気もしますが。

 収入で見ると、労働者の日給が1ドラクマ、傭兵や外交使節など危険な仕事は日給2ドラクマです。軽い仕事は日給半ドラクマ(3オボロス=6300円)で家族三人の最低生活費にあたり、奴隷は1人200-500ドラクマもしましたがレンタルして働かせれば1日1オボロス(2100円)でした。20-30人ほどの奴隷を工員として働かせる工場は年収1200-3000ドラクマ(1512万-3780万円)あり、ピンダロスがアテナイを讃える歌を作った賞金は1000ドラクマ(1260万円)、ソフィストのプロタゴラスの授業料は1万ドラクマ(1.26億円)もあったといいます。文化人の講演料は昔から高かったのですね。庶民1家族の年間生活費は250-300ドラクマ(315-378万円)というところです。

 物価で見ると、大麦1ヘクテウス(1/6メディムノス=8.75リットル)が3オボロス、1メディムノスが18オボロス=3ドラクマ、小麦はその倍値(6ドラクマ)です。52.51リットルの大麦が3ドラクマ(3.78万円)として、6倍して18ドラクマ(銀75.6g=22.68万円)で大麦315リットルとなり、ハンムラビ時代より銀の価値は9分の1近く下落しています。耕作地が豊かでもないギリシアでメソポタミアにも匹敵する安い麦が手に入ったのは、黒海の北のスキティア(ウクライナ)の穀倉地帯で大量生産して輸入していたためです。

 ギリシア本土や島嶼部では商品作物としてブドウやオリーブが栽培され、加工してワインや油として輸出されました。ワイン1ヘクテウスが2ドラクマ(2.52万円)、オリーブ油1ヘクテウスが5ドラクマ(6.3万円)と穀物よりは高く、船で運べば充分な利益が得られました(1メディムノスで各12ドラクマ、30ドラクマ)。農耕には牛や奴隷を用い、牛1頭は50ドラクマ、奴隷はその4-10倍はしました。ヤギ1頭は10ドラクマです。

 文字を読める者は当時少なく、エジプトから輸入したパピルスの巻物は20枚綴り6m前後で1-4ドラクマもし、約1-2万字を書き込むことができます。普段遣いするには高価なので、木の板に薄く蝋を塗った蝋板と鉄筆がメモ用に使われました。現代のタブレット端末に似ていますね。

諸国興亡

 貨幣経済が発達した民主主義国家アテナイの敵国スパルタ(ラケダイモン)では、二人の世襲の王と長老会議による軍国主義が敷かれ、貨幣は1本が1エウボイア・ミナ(4.27kg)もある鉄の棒と定められていました。このため国内外の商取引は著しく阻害され、外国の悪影響も少なかったといいますが、流石に誇張ではあるようです。

 スパルタを中心とするペロポネソス同盟は、反アテナイの諸国を取り込んで拡大し、ペルシアからの支援も受けています。ペルシアからすれば有力な敵国は分裂させて争わせるに限り、経済力では圧倒的に有利なのですから有力者にカネをばら撒けば操縦できます。前430年に始まったアテナイとスパルタの戦争(ペロポネソス戦争)は全ギリシア世界を二分し、疲弊した両国はペルシアの仲裁を受け入れました。カネ払いが良くしがらみも少ないとして、ペルシアの傭兵になるギリシア人も多くいました。

 かくてアテナイは没落し、スパルタもテーバイに敗れ、テーバイが衰退すると北方のマケドニア王国が台頭します。ギリシア諸国を従えたマケドニア王アレクサンドロスはペルシアを攻め滅ぼし、莫大な戦利品を手に入れました。ガウガメラやイッソスの戦いでは3000-4000タラントン、スサを占領した時は銀4-5万タラントンと多数の贅沢品、ペルセポリスでは12万タラントンもの金銀財宝を獲得したといいます。総計18万タラントンで、アッティカやエウボイアのタラントンとしても13兆円、バビロン・タラントンとすれば18兆円にもなります。

 アレクサンドロスはこれらのカネを気前よく分け与え、一般兵士には月給30ドラクマ、精鋭には10スタテル(40ドラクマ)から一般兵士の倍額(60ドラクマ)を与えた上、しばしばボーナスを支払いました。降伏したペルシア人もマケドニア軍に編入され、給料をもらっています。また遠征に付き従うことができなくなった兵士ら1万人には帰国の費用を含めて充分なカネを与え、さらには退職金として1タラントンを加えたといいます。帰った兵士らは富裕市民として充分な暮らしができたことでしょう。

 前323年にアレクサンドロス大王が崩御すると、彼の後継者たちは各地に群雄割拠して相争い、ギリシア式の貨幣はペルシア式のものと融合して広まっていきました。次回はギリシアの西に勃興したカルタゴやローマの貨幣について見ていきましょう。

◆闘◆

◆金◆

【続く】

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