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【つの版】度量衡比較・貨幣31

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1413年にヘンリー5世が即位すると、英国はフランスの内紛に積極的に介入して出兵し、英仏戦争が再開されます。

◆乙◆

◆女◆

英勃同盟

 国内の反乱を鎮圧し足固めを行った後、ヘンリー5世はフランス国内を二分するブルゴーニュ派とオルレアン派/アルマニャック派の両者と交渉します。父ヘンリー4世の時から両者は英国に援軍を要請していましたが、4世はけちって小規模な援軍しか送らず、両者の隙につけこむことはできませんでした。これに対し、ヘンリー5世は「両派ともウェールズでの反乱に支援を与え、英国を脅かした」として領土の割譲とフランス王位を要求します。

 政権を握るアルマニャック派はこれを拒否し、英国王ヘンリーはアルマニャック派に対して宣戦布告、1415年8月にノルマンディーへ上陸しました。ブルゴーニュ派は動かず、アルマニャック派は兵を率いて駆け付けますが10月にアジャンクールの戦いで大敗を喫し、オルレアン公シャルルが捕虜になります。英軍はカレー港へ移動したのち11月にロンドンへ凱旋しました。

 英国はルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムントと友好関係を結び、1417年にはアヴィニョンの教皇が廃位されて教会大分裂が収束します。同年8月、英国は再びノルマンディーに侵攻し、1419年8月にはパリ近郊まで達しました。シャルル6世の王太子シャルルはブルゴーニュ公ジャンと和解して英国に対抗しようとしますが、9月にブルゴーニュ公が王太子派に暗殺されます。跡を継いだフィリップは英国と結び、王太子はパリを脱出して南のブールジュへ逃れ、1420年5月に英仏間でトロワ条約が結ばれました。

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 これにより、ヘンリーはシャルル6世の娘カトリーヌを娶り、シャルル6世が先に崩御した場合はヘンリーが後継者となることが取り決められ、ヘンリーにはフランス王国摂政の称号が与えられます。ヘンリーは意気揚々と凱旋し、カトリーヌは1421年12月に男児を産みました。しかし王太子シャルルはスコットランドと手を結んで抵抗し、ヘンリーはこれを鎮圧すべく北フランスへ進軍した後、1422年8月に34歳で病没しました。

 シャルル6世も10月に崩御したため、英国はヘンリー5世の遺言によりカトリーヌが産んだ幼いヘンリー6世を英国とフランスの王とし、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンがフランスの摂政、その弟グロスター公ハンフリーが英国の摂政(護国卿)とされます。ヘンリー4世の弟で枢機卿のボーフォートは大法官となり、議会を率いてグロスター公と対立しました。

救国乙女

 一方、王太子シャルルはブールジュでフランス王シャルル7世を名乗り、英国とブルゴーニュに逆らって各地を転戦します。ブルターニュ、ノルマンディー、フランドル、パリ周辺は英国とブルゴーニュに制圧されており、彼の敵対者は「王妃イザボーが別の男と浮気して儲けた子で、シャルル6世の子ではない」と誹謗中傷し、フランス王とは認めませんでした。

 しかしブルゴーニュ公フィリップ3世は、ネーデルラント領有を巡りグロスター公と対立します。そこで1424年にシャルルと休戦協定を結び、彼をフランス王と認めて英国との同盟から離反しようとします。英国はグロスター公を宥めて1428年に引き下がらせ、シャルル側も内紛でまとまらず、ブルゴーニュとの交渉は頓挫しました。

 シャルルを戴くアルマニャック派は、パリ南方のロワール川北岸を抑える都市オルレアンを拠点として抵抗を続けました。1428年10月、英国・ブルゴーニュ連合軍はここを包囲にかかります。この頃シャルルはオルレアンの西のシノン城を仮の王宮とし、オルレアンを支援していましたが、オルレアンが落ちれば彼の命運も尽きます。

 1429年2月、そのシノンを一人の少女が訪れます。彼女はロレーヌ地方バル公国ドンレミ村の富農ジャック・ダルクの娘でジャンヌといい、「『王太子を救援し、ランスで戴冠式を行え』という神のお告げを受けた」と称していました。ランスはパリの東にあり、ノートルダム大聖堂で歴代のフランス王が戴冠式を行った伝統があります。またロレーヌ公ルネ・ダンジューらフランス北東部の諸侯が彼女を伴っており、英国とブルゴーニュに圧迫されてたまりかねた彼らがアルマニャック派についたのです。

 王太子シャルルは、彼女を「神に遣わされた者」として喧伝し、オルレアンへの救援軍に同行させます。ジャンヌのカリスマのおかげか、救援軍は積極的な攻勢を仕掛けて英国軍を撃破し、オルレアンを包囲から解放します。勢いに乗ったシャルルは7月にランスで戴冠式をあげ、9月にはパリを包囲しますが奪還はできませんでした。それでもシャルルは正統なフランス王として諸侯の支持を集めるようになり、英国とブルゴーニュはシャルルと数ヶ月の休戦を結びます。ジャンヌは12月に父ともども貴族に列せられました。

 ところが1430年5月、パリ北方のコンピエーニュでフランス軍がブルゴーニュ軍に敗れ、ジャンヌが捕虜となります。英国はこれ幸いと1万リーヴル(12億円)の身代金で彼女を貰い受け、魔女として異端審問にかけ、1431年5月にルーアンで火刑に処します。しかしブルゴーニュ公フィリップは対仏戦争に乗り気でなく、同年12月にはフランスと休戦し、ベッドフォード公がパリで行ったヘンリー6世のフランス王即位式にも出席しませんでした。

英国敗戦

 1435年7月、北フランスの街アラスに英国・フランス・ブルゴーニュ三国の代表使節団が集まり、仲介者の教皇使節団も加わって大規模な和平協議が行われます。英仏の主張は平行線で、9月に英国側は交渉の席を去り、まもなくベッドフォード公は心労のため逝去します。フランスとブルゴーニュの交渉は活発となり、9月21日に和平が成立しました。1436年にはフランス側がパリを奪還、英仏戦争は大きくフランス有利に傾きます。

 親政を開始したヘンリー6世はブルゴーニュとの戦争を開始し、フランドルを襲撃したり反乱を煽動したりしますが、1439年に休戦します。しかし英国はノルマンディーやブルターニュを次々と失い、ついにギュイエンヌ(アキテーヌ)も奪われ、カレーを除く大陸側の領土をほぼ喪失します。まもなくランカスター家とヨーク家の内戦(薔薇戦争)が起きて対仏戦争どころではなくなり、「百年戦争」はここに幕を下ろしたのです。教皇庁への働きかけにより1456年にジャンヌは復権され、異端裁判は無効と宣言されました。

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 荒廃し疲弊した英仏をよそに、ブルゴーニュ公フィリップは着々と勢力を広げ、ネーデルラントやルクセンブルクをも征服して、英国に勝るとも劣らぬ大国の主となりました。経済力を背景に、その領国ではルネサンス文化が花開きます。彼は1467年まで半世紀近くも在位し、ブルゴーニュ公国を最盛期に導きますが、息子シャルルはロレーヌ地方を巡ってフランス王と争い、1477年に戦死します。彼の娘マリーはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアンに嫁ぎ、シャルルの遺産を巡ってフランスとハプスブルク家は長く争うことになりました。

勃国貨幣

 さてブルゴーニュ公フィリップは、1434年に領内の貨幣改革を行いました。それは英国とフランス、フランドルの貨幣制度に対応しており、当時のフランドルのポンド(銀195.6g)を基礎とします。

1ポンド=6グルデン=20シリング=120スタイバー=240グロ

 1グルデンは銀1/6ポンド(32.6g)で20スタイバー=40グロに相当し、フランスのリーヴルやフィレンツェのフィオリーノ金貨などにあたります。1シリングは1/20ポンド(9.78g)で6スタイバー=12グロに相当し、英国のシリングにあたります。1スタイバーは1/6シリング(1.63g)で2グロに相当し、フランスのソルにあたります。フランドル・グロは1/2スタイバー(銀0.815g)で、ブラバント・グロは1/3スタイバー(銀0.543g)でした。

 銀1g=3000円とすると、フランドル・ポンドは58.68万円。きりがよく60万円とすればグルデンは10万円、シリングは3万円、スタイバーは5000円、フランドル・グロは2500円、ブラバント・グロは1667円になります。

 またスタイバーは重量3.4gのうち23/48が銀という半銀貨で、2グロ=8デュイテン=16ペニンゲンに相当しました。とするとデュイテンは625円、ペニンゲンは312.5円に相当する銅銭です。1グロはおおむね英国のペンスに相当しましたから、英国とフランドルの交易はスムーズでした。フィリップが逝去してシャルルの代になると、英国との合意により2スタイバー=4グロは1グロート=4ペンス(当時は銀2.88g)と等価とされます。スタイバーは銀1.44g相当に縮んだわけです。

 その後も貨幣価値は切り下げられ続けますが、ネーデルラント(オランダ)の基軸通貨は長くグルデン(ギルダー)とされ、スタイバーやデュイテンなどの名も残りました。グルデンはフィオリーノに相当することから、オランダ国内では「ƒ」の略式記号で記されています。

◆Tander◆

◆naken◆

 貨幣にかこつけて、長々と英仏百年戦争を概観してしまいました。次回はこの頃の中東欧やイタリアについて概観し、東方へ戻っていきましょう。

【続く】

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