【つの版】ウマと人類史:近世編10・莫斯炎上
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
モスクワ・ロシアのツァーリ・イヴァン4世は、リヴォニア戦争で思うような戦果が得られず、国内では貴族や聖職者に権力を制限されます。しかしモスクワ市民を煽動することで無制限の独裁権を獲得し、秘密警察を組織して反体制派を粛清します。周辺諸国はこれを好機として連携し、モスクワ・ロシアへの攻勢を強めることになります。
◆露◆
◆土◆
英露通商
リトアニア、ポーランド、スウェーデン、クリミア、オスマン帝国と対立し、国際的孤立を深めるロシアにとって、数少ない友好国はイングランド王国(英国)でした。英国は通商のため、イヴァンの「全ルーシのツァーリ」の称号を承認しています。ロシアがリヴォニアから奪ったナルヴァ港はフィンランド湾に面し、バルト海とデンマークを経て英国と繋がっていました。戦争に必要な武器弾薬を輸入するため、イヴァンは英国商人へあらゆる特権を与え、膨大な毛皮や木材などが輸出されますが、安く買い叩かれました。
1567年、イヴァンは英国使節を通じて相互亡命受け入れ条約の締結を提案し、政治的理由により独身の英国女王エリザベスに婚姻を申し入れます。しかしイヴァンにはすでに妃マリヤがいますし、仮にイヴァンがマリヤと離縁したとしても、国際的に孤立しているロシアに対して英国がそこまで肩入れする理由はありません。結局、この申し出は黙殺されました。
イヴァンは怒り狂い、英国のナルヴァ港独占契約の破棄を勝手に宣言し、翌年派遣された英国の使節を軟禁して従わせようとします。使節はこの横暴に屈せず、粛々と交渉を進めてナルヴァを取り戻し、ペルシアとの交渉権や鉄鉱の採掘権まで獲得しました。さらにエリザベスは「ツァーリが亡命するなら英国は受け入れる。共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」との返書を送り、イヴァンをさらに激怒させました。
露土戦争
さらにリトアニアからの要請を受けてクリミアが動き出し、その宗主国たるオスマン帝国も動きます。オスマン帝国では1566年にスレイマン大帝が崩御し、子のセリムが跡を継いでいましたが、国政は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが仕切っています。彼はクリミア・ハンのデヴレト・ギレイと手を結び、ロシアが征服したアストラハンのムスリムを救うと称して出兵します。1569年5月末、クリミア軍5万とオスマン軍2万弱が黒海の北で合流し、アゾフ海からドン川を経てヴォルガ川を目指しました。
オスマン・クリミア連合軍はドン川とヴォルガ川を結ぶ運河を掘削し、カスピ海と黒海・地中海を繋ごうとしますが工事はうまくいかず、周辺のノガイ・タタールなどへ召集をかけつつアストラハンへ向かいます。9月にオスマン軍はアストラハンに到達したものの、運び込めた大砲は12門に過ぎず、越冬の準備を始めます。イヴァンは驚いてオスマン軍に使者を派遣し、指揮官のカシムに賄賂を贈るとともに、騎兵3万を遣わしたとの噂を流して撤退させました。最初の「露土戦争」は小競り合いで終わったのですが、南方からロシアを脅かす動きは続いています。
波立連合
この間の1569年7月、ポーランドとリトアニアはルブリン合同を行い、一人の君主(ポーランド王兼リトアニア大公)・一つの元老院(セナト)・一つの合同議会(セイム)を持つ共和国(レプブリカ、ジェチュポスポリタ)となりました。事実上はポーランドによるリトアニアの併合です。
共和国(ラテン語:res publica)とは本来は君主の有無に関わらず、「人々(populus)のもの(res)」「共同の所有物」「公共の利益」を意味しており、ギリシア語polis(国)の意訳としてローマ人に用いられました。英語ではcommon-wealth(共同の富)と意訳されます。皇帝や国王、元首や主席や将軍様がいようと、そう称していれば共和国です。
諾夫虐殺
9月には妃マリヤが逝去し、毒殺の噂に苛ついたイヴァンは10月に従弟ウラジーミルとその家族を反逆罪で粛清します。さらに翌1570年1-2月にはオプリーチニキをノヴゴロドに派遣し、数千人に及ぶ虐殺と掠奪を行わせました。ウラジーミルともども西側諸国に通じているとの容疑によるものでしたが、ノヴゴロドはこれにより大いに荒廃します。
リヴォニアに近いプスコフにも同時期にオプリーチニキが派遣されましたが、佯狂者ニコライなる聖者が諌めたため虐殺は中止されたといいます。しかし掠奪は行われ、住民には重税と強制労働が課せられました。
同年には自分をナメた英国との交易禁止を宣言しますが、たちまちロシアの武器弾薬が枯渇します。イヴァンはやむなく交易を再開し、免税特権など様々な特権を英国商人に与えざるを得ませんでした。オスマン帝国との講和条約も結ばれましたが、クリミアは再び動き出します。
莫斯炎上
1571年5月、クリミア軍数万が大挙北上し、帝都モスクワを直接襲撃して火を放ちました。火は風に煽られて燃え広がり、街を火の海に変えて焼き払います。人々は木造の家屋ごと焼け死に、石造の教会へ逃げ込んだ人々も教会が崩壊して押しつぶされ、川へ飛び込んだ人々は溺死し、地下室へ逃げ込んだ人々は窒息死し、クレムリン(宮殿)の弾薬庫に引火して大爆発が起きました。この大火とその後の殺戮で数千とも数万ともいうモスクワ市民が死亡し、モスクワ川は死体で溢れ、街を水浸しにしたといいます。クリミア軍はモスクワにはとどまらず、郊外に陣営を築いて駐留しました。
ツァーリは郊外のアレクサンドロフにある宮殿に撤退して無事でしたが、帝都の壊滅的被害に激しいショックを受けます。ツァーリに忠実なオプリーチニキは、国内の非戦闘員を虐殺し掠奪するのは得意であっても、外国の軍隊の襲来を防ぐことはできませんでした。精神を安定させるためもあり、同年10月にはノヴゴロドの商人の娘マルファと再婚しますが、彼女は半月後に病死してしまいます。イヴァンの精神はますます平衡を失い、前妻マリヤの兄ミハイルを串刺し刑にするなど多くの臣下を殺戮しました。1572年4月には高級娼婦の娘アンナと再婚すると言い出し、正教会と揉めています。
1572年7-8月、モスクワの南64kmのモロディ村においてロシア軍はクリミア軍を撃破し、ようやく撤退に追い込みます。ツァーリはこの戦いのために全国会議を召集し、貴族と聖職者の意見に従い、生き残った有能な指揮官に戦闘を任せました。またオプリーチニナ制度の廃止を宣言し、オプリーチニキの幹部を処刑し、1565年から掌握していた非常大権を手放します。これでツァーリの権力は低下しますが、彼の独裁ぶりは相変わらずでした。
国王選挙
1572年7月、ポーランド王ジグムント2世が逝去し、跡継ぎ息子がなかったためヤギェウォ朝が断絶しました。ジグムントの妹アンナは王位継承権を持ち、彼女と結婚した者が王位を継ぐことになりましたが、その候補者は貴族(シュラフタ)たちによる議会(セイム)により選挙で決定されます。神聖ローマ皇帝も古来選帝侯らによる選挙で決まりましたが、ポーランドでの国王選挙はこれが初めてのことです。議員数も選帝侯の比ではありません。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世は息子エルンスト大公を推し、フランスの王子アンリ、スウェーデン王ヨハン3世も名乗りを上げ、イヴァン4世もこれに立候補します。議会での論争は紛糾しますが、結局アンナの支持もあって1573年5月にアンリが選ばれます。ところがポーランド議会は国王の権利を強く制限し、様々な文化的軋轢も生じました。アンリは1574年1月に入国し戴冠したものの、半年後に兄のフランス王シャルル9世の訃報を聞くや母国へ逃げ帰ってしまいます。彼はそのままフランス王に即位しました。
セイムは国王不在でも機能しましたが、いないとなると不都合で、諸国へ国王のなり手を再び求めることになります。こうした混乱のさなか、ロシアではイヴァン4世がまたしても奇妙な行動に出ています。
退位復権
1573年7月、イヴァンは傀儡国カシモフ・ハン国の君主サイン・ブラトを退位させ、イスラム教から正教に改宗させてシメオンと改名させます。彼の父はアストラハン王族のベク・ブラトといい、祖父はバハードゥル、曽祖父は大オルダ(黄金のオルド)の君主アフマド・ハンです。遡ればチンギス・カンの長男ジョチの子トカ・テムルの末裔で、クリミアやカザンのハン家とも遠縁ですが血縁関係にあります。
イヴァンはシメオンに、モスクワ大公家の分家筋にあたる名門貴族ムスチスラフスキー家の娘アナスタシヤを娶らせ、ゼームシチナ(貴族会議)の議長に任命します。彼はモスクワ大公の主筋にあたるジョチ・ウルスの血統を引く名門ですから、貴族たちも一応これに従いました。
ところが1575年9月、イヴァンは再び突然退位を宣言し、シメオンに「全ルーシの大公」の称号を譲って戴冠式を行います。そして自らは「モスクワ分領公」と称したのです。ただし実権は依然としてイヴァンにあり、ツァーリの称号も手放さなかったため、実態としては彼の在位が続いています。それから1年ほど過ぎた1576年8月、シメオンは突然「全ルーシの大公」を退位すると宣言し、イヴァンに位を返還してトヴェリ大公に任じられました。
この事件には古来様々な解釈があります。前回の退位と同じく貴族や聖職者や市民から「全ルーシの大公に戻って下さい」と懇願させて大権を取り戻したかったのだとか、傀儡として実権を握るつもりだったとか、気まぐれや狂気によるものだとか、1575年に死ぬとの予言を真に受けて身代わりにしたのだとか諸説ありますが、有力なのは「シメオンの血統であるチンギス家から譲位を受けることで、自らの権威を高めようとした」というものです。
1206年にチンギス・カンが即位してから370年が経ち、モンゴル帝国は分裂崩壊して随分縮小しましたが、その権威はまだ相当なものでした。クリミア・ハンはジョチ・ウルスの盟主として権威を振るい、ロシア国内のタタールにも呼びかけて反乱を煽っています。そうした活動をある程度抑え込むため、イヴァンがこのような行動に出たのではないか、というのです。真相は不明ですが、おそらくこうした複数の要因があったのでしょう。シメオンは退位後も粛清されず、イヴァンの子の死後ツァーリに擁立されかけましたが失敗し、目を潰されて修道院に追放され、1616年に逝去しました。
この間、1575年12月にはトランシルヴァニア公ステファン・バートリがポーランド王に選出されています。一時は教皇の仲介で神聖ローマ皇帝マクシミリアンが選出されるところでしたが、反ハプスブルク派の議員の猛反対により中止されます。かくてアンナがまずポーランド王に選出されたのち、彼女と結婚するという形で1576年にステファンが王位につきました。アンナはすでに50歳を過ぎていますから王子誕生は見込めませんが。
しかしステファンの選出にはリトアニアの議員が出席しておらず、親ハプスブルク派からも反対され、皇帝マクシミリアンはロシアと手を組んでともにステファンと戦おうとしました。イヴァンはこれ幸いとリヴォニアへ侵攻し、大部分を占領しますが、10月にマクシミリアンが崩御して息子ルドルフ2世が即位すると同盟は立ち消えとなります。ステファンは困難な状況下で国内を取りまとめ、ロシアの侵略に立ち向かうことになるのです。
◆魔◆
◆王◆
【続く】
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