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【つの版】度量衡比較・貨幣104

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 神聖ローマ帝国で勃発したカトリックとプロテスタントの戦争は、国外からの介入により泥沼化します。皇帝軍を率いる傭兵隊長ヴァレンシュタインらは巧みな戦術でデンマーク軍を撃退しますが、1630年にはスウェーデン軍が侵攻して来ます。これを率いるのは、若い頃から戦場を駆け回り「北方の獅子」と恐れられたグスタフ2世アドルフでした。

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瑞典前史

 デンマーク・ノルウェー・スウェーデンは9世紀から10世紀にかけて王国となり、1397年にはデンマークを盟主とするカルマル同盟を結成、バルト海と北海に覇を唱える一大勢力となります。しかし結束力は弱く、1523年にスウェーデン貴族グスタフ1世ヴァーサが同盟から離脱して独立し、ヴァーサ王朝が成立します。1527年にはデンマーク=ノルウェーと同じくルター派を国教とし、国内のカトリック教会の土地を没収して国王の領地とすることで中央集権を進めました。

 また独立国としての歴史をアピールするため歴史書を編纂させ、「スウェーデンはゴート族やヴァンダル族の発祥の地であり、アジア(黒海北岸)、欧州、北アフリカまでを征服した」という「ゴート起源説」を唱えました。以後スウェーデン王は「スヴェーア族(スウェーデン人)、ゴート族、ヴァンダル族の王」と名乗ります。デンマークの王も「ゴート族とヴェンド族の王」を名乗っていましたが、それを発展させたわけです。これはスウェーデンによる対外戦争のためのイデオロギーともなりました。

 これに対しデンマークはポーランドやモスクワ大公国(ロシア)、ハンザ同盟と手を結び、1563年にスウェーデン領(スカンジナビア半島南部やエストニア)へ侵攻しました。グスタフ1世の子エリクは貴族を弾圧して反発を買っており、弟でフィンランド公のヨハンに反乱を起こされ王位を簒奪されます。ヨハンはポーランド王の娘と結婚しており、ポーランドと手を結んでデンマークやモスクワに勝利し、バルト海を制圧しました。

 しかしヨハンの息子ジグムントはポーランドでカトリックとして育てられ、1587年には母方の血縁によりポーランド王に選出されます。1592年にヨハンが崩御するとスウェーデン王位も継承しますが、ヨハンの弟カールはスウェーデン執政となり、反カトリック派の旗頭となってジグムントに対抗しました。ジグムントはカールと戦いますが勝てず、カールは国内のカトリック派を粛清したのち、1604年に王位につきます(カール9世)。

北方獅子

 このカールの子がグスタフ2世アドルフです。1611年に父が崩御して王位を継承した時、彼はまだ17歳でした。同年にはポーランドが混乱に乗じてモスクワを征服しており、デンマークは代替わりの混乱につけこんでスウェーデンに侵攻します(カルマル戦争)。長引く戦乱と内紛によってスウェーデンは弱体化しており、若き王は難しい舵取りを迫られることになりました。

 幸い、彼には右腕である宰相オクセンシェルナがいました。1612年に宰相となった時は29歳の若さでしたが、外交でも内政でも八面六臂に活躍し、血気盛んな国王を見事に支えました。グスタフは1617年に戴冠式を上げると、1620年にブランデンブルク選帝侯の娘マリア・エレオノーラと結婚し、北ドイツ各地を訪問して先進的な軍事技術等を学んでいます。そして1621年から29年までは、宿敵デンマークやポーランドとの戦争に明け暮れました。

 1613年にデンマークとの間で締結されたクネレド条約では、スウェーデンは合計200万リクスダーラーの賠償金を支払うことで要塞と港湾を奪還しています。リクスダーラーはこの頃北欧諸国で通用していた貨幣で、神聖ローマ帝国のライヒスターラーに相当し、純銀25gほどを含みます。銀1gの価値を現代日本円にして1000円とみなせば、1リクスダーラーは2.5万円、100万で250億円、200万で500億円となります。スウェーデンにとっては痛い出費でしたが、領土を失うよりはマシというわけです。

 ブランデンブルク選帝侯は神聖ローマ帝国の大貴族ですが、1539年にルター派に改宗しました。1613年、マリアの父ヨハン・ジギスムントはカルヴァン派に改宗してオランダと手を結び、北西ドイツの所領を獲得します。さらに1618年には婚姻によって帝国域外のプロイセン公国を相続しました。彼は1619年に脳卒中で逝去し、息子ゲオルクが跡を継いでいます。

 ゲオルクはプロテスタント同盟に参加していましたが、領主はカルヴァン派、皇帝と議会はカトリック、領民はルター派という状態で領内はまとまらず、三十年戦争においては中立を宣言します。しかし南に隣接するルター派のザクセン選帝侯領と領地争いを起こしたため、ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍に脅され、1627年に皇帝軍の駐留を許可しました。掠奪は免れたものの重税が課せられ、領内には不満が鬱積していきます。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Swedish_Empire.svg

 この間、スウェーデンは三十年戦争に介入せず、リヴォニアやカレリア、西イングリア、プロイセンを巡ってポーランド、デンマーク、モスクワ・ロシアと戦い続けていました。激戦の末にこれらを獲得したスウェーデンはバルト海の覇者となり、「バルト帝国」を築き上げます。これらの地域からは通行料収入だけで年50万リクスダラー(125億円)が見込まれ、国王の年間収入は120万リクスダラー(300億円)に達したといいます。

帝国侵攻

 当時のスウェーデンは欧州随一の軍事大国でしたが、人口は150万しかおらず、ドイツなど諸国から多数の兵士を募集していました。兵士には給与と年金が支払われるかわりに厳罰を伴う規律を叩き込まれて鍛え上げられ、常備軍となります。軍馬は自国で賄えますが、大砲・鉄砲・弾薬・武装・兵糧は自国では足りず、他国から輸入せざるを得ません。国内には戦時中だからと重税が課せられますが足りず、オランダやフランスから多額の融資を受けています。この軍事国家を維持するためには、次の戦場が必要でした。

 1629年にポーランドとの講和が成った頃、皇帝軍を率いるヴァレンシュタインは北ドイツのプロテスタント諸侯とデンマークを屈服させ、北ドイツに駐屯して占領地から軍税を巻き上げ続けていました。デンマークが敗れたとなれば、次の標的はオランダか、さもなくばスウェーデンです。1628年にはハンザ同盟の都市シュトラールズントへスウェーデンが援軍を送っていますし、皇帝はカトリックであるポーランドを支援しており、デンマークと手を結んでスウェーデンを狙う理由は充分あります。ならば先手必勝です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_Thirty_Years_War-en.svg

 1629-30年、スウェーデンは全土に総動員をかけ、欧州諸国からも傭兵や義勇兵が集まります。1630年6月末、グスタフ率いるスウェーデン軍1万3000がバルト海南岸の神聖ローマ帝国ポメラニア公国領に上陸します。彼は「プロテスタント諸侯の自由を守るため」と称して皇帝軍へ事実上の宣戦布告を行い、ポメラニア公国のシュチェチンを占領しました。ここはオーデル川(オドラ川)河口部にある港湾都市です。

 スウェーデンはポメラニアの諸侯と軍事同盟を締結し、皇帝軍による暴虐からポメラニアを防衛すると称し、年間10万ターラー(25億円)を拠出させます。皇帝はヴァレンシュタインに命じて迎撃させますが撃退され、皇帝や諸侯は彼が裏切るのではと疑いの目を向けます。そして選帝侯会議により「彼は重税を課して諸侯の反感を買った」として8月に罷免し、ティリー伯ヨハンを再び皇帝軍の総司令官に任命しました。離間工作もあったでしょうが、諸侯がヴァレンシュタインを嫌っていたのも確かです。

 グスタフは1631年1月にフランスと軍事同盟を締結し、北方から帝国を脅かしますが、帝国内のプロテスタント勢は彼にあまり同調しませんでした。しかしベルリンの西にあるルター派ハンザ同盟都市マクデブルクは呼応し、ティリー伯率いる皇帝軍に包囲されます。戦いは1630年11月から1631年5月まで続きました。スウェーデン軍はこの間にポメラニアから南進し、オーデル川沿いの都市フランクフルトを1631年4月に陥落させています。

 マクデブルクが陥落すると、統制を失った皇帝軍により徹底的に殺戮と掠奪と放火が行われ、人口は3万から5000人に減少するほどでした。プロテスタント側は皇帝軍の残虐非道を国内外に吹聴し、ザクセン選帝侯やブランデンブルク選帝侯も中立を捨ててスウェーデン側についたばかりか、カトリック側のバイエルン公すらフランスと手を結びます。孤立したティリー伯はザクセンへ侵攻し、9月にはライプツィヒを占領しますが、ザクセン選帝侯はスウェーデンと手を組んで皇帝軍に立ち向かいます。

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 1631年9月17日、ライプツィヒ近郊ブライテンフェルトで両軍は激突します。兵数は皇帝軍3.3万、スウェーデン・ザクセン連合軍4万と互角ですが、大砲は皇帝軍36門に対し連合軍100門と3倍近く、兵の練度はスウェーデン軍が遥かにまさっていました。皇帝軍はまずザクセン軍1.7万に集中砲火を浴びせて脱落させますが、スウェーデン軍は臨機応変に陣形を変化させて巧みに守り、皇帝軍に集中砲火を浴びせて夕刻までに壊滅させます。

 ティリー伯は敗残兵6000を率いて辛くも脱出しますが、皇帝軍は戦死者1.2万、捕虜7000、逃亡8000という大敗を喫し、ライプツィヒを捨てて敗走します。ザクセン軍の死者は3000、スウェーデン軍の死者は1500でしたが、捕虜や逃亡兵は連合軍に吸収されます。この大勝利に触発されて、プロテスタント諸侯や傭兵、義勇兵らはスウェーデン軍に続々と合流し、10万もの大軍に膨れ上がりました。グスタフは南下してバイエルンへ侵攻し、皇帝の心胆を寒からしめることになります。

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【続く】

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