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舞台照明のデザイン 夜叉ヶ池編 その1

配信やるぞ

いろんなことを考えてる間になんだか、配信をすることになってしまった。
企画自体は前から考えていたし、やりたい演目でもあったけど、文化庁の継続支援事業が通ってしまったので、その流れで配信をすることになってしまったと言う。

配信にあたってのリード文

幻想的な泉鏡花の世界を個性的な4人の俳優とともに、昨年『天守物語』を上演し好評を博したD.R.A.Gの演出により、あやし、たのし、うつくしい世界を作り上げます。

今回の公演は「文化庁の文化芸術の継続支援事業」の助成を舞台照明デザイナーの伊藤馨が受け、作品の企画・製作しています。
今回の企画の骨子としては、舞台照明家は演劇公演の配信において何ができるのか。ということがあります。
また、予算規模がどうしても下がる傾向にあるため、少ない予算による公演で、かつ小さいフリースペースからの配信において、舞台照明のデザインはどんなことができるのか。
また、そのクオリティを上げるために何ができるのか。
舞台照明が直面している現実とどう向き合っていくのかと言うことを考えていきます。
配信に伴って、関連企画も行っていきます。

『抄本・夜叉ヶ池』
・原作 泉鏡花
・演出  D.R.A.G
・出演 モイラ
    石関準(劇団フライングステージ)
    石坂純
    佐藤達(劇団桃唄309)

・音楽 長谷基弘(劇団桃唄309)
・音響 吉田雅人
・舞台監督 宍戸真
・照明 伊藤馨
・照明アシスタント 中野友佳
・制作 山西真帆
・企画・製作 伊藤馨

偉そうなことを書いているけどやってみないとわからないじゃん

って言うつもりで、この企画を文化庁に出したのよね。
なんだかんだ行って、舞台の世界はずーっと先細りのどん詰まりに向かって行っていて、このままだとどうしようもないって言うのは前からわかってた。

世界の終わりに向かって走っている最中

感染症云々とか以前に、舞台業界はかなり厳しいところにいたと僕は思っている。
生の舞台を見せるというのは、映像と違って観客がどの程度想像してくれるのかということにかかっていると言ってもいい。
このマガジンでも繰り返し言っているけど、観客の想像力を喚起するのが舞台照明の仕事。そういう意味である種の舞台上と観客の約束事が作られていないと成立しないことが多い。
アンバーの明かりが夕方や朝焼けに見えるのか。っていうのは、観客がそれをそうだと思うだけの何かがあるからだ。
ただ、これはもしかしたら舞台を観に来ている人たちと上演している人たちだけの約束事かもしれない。
哲学の領域になると思うけど、りんごを見て、りんごだって言って、それがりんごと認知されるのにはプロセスが必要になる。それと同じことだ。
で、それが世界の終わりと関係があるのかって話だよね。
舞台の世界はたしかにそういう約束事みたいなものも大事だけど、そういうものを観てもらえなくなってきていると感じている。
観客と舞台上の共犯関係が成立しなくなってきていて、そうなると舞台照明はなんとなく雰囲気がカッコいい明かりを作ってりゃいいじゃないか。みたいなことになってきちゃう。
画面として、綺麗っぽいもの、言い換えれば「視覚的に刺激があるもの」があればいいんじゃん。みたいなことになってしまう。
そういう意味で舞台照明の世界は終わり始めていて、そこに向かって走って行っている。

舞台配信についてのこと

舞台配信というやり方については、別に悪いことだと思っていない。
自分のライブで照明のメソッドが通用しないだけのことで、やれることは変わらない。いや、変わる。本当は全然変わる。

だって、舞台照明が持っていた観客の視線誘導とか出来なくなるし、しなくていい。カメラがよればいい。自在に扱えないし、見られないけど。とりあえず作品を観るための視点の提示は一つ出来てしまう。

4Kで全部撮って配信すれば、ある程度ズームしても邪魔にならん程度には画質が保てる。もしかしたら、眼が悪い人にとってはこっちの方が鮮明に見たいところが見られるかもしれない。

とは言っても、カメラは人間の目よりもレンジが狭いし、引いて見たり、寄って見たりを自在にできない。それに明るさの変化にも前より強くなったと言っても限界がある。ある程度までしか見られない。

とはいえ、今まで観ることが出来なかった人にも観てもらうことができる。
生とは違うにしても、それでも観られるか観られないかということには大きな差がある。
録画配信で、字幕をつけたり出来れば、よりバリアフリーになっていくだろう。
配信でならば、家で見ている分には、子供が騒ごうがなんだろうが関係ない。

世代としては、劇場中継を見て育った世代でもあるのでああいう配信も観ることができなかった作品を少しでも観ることができるのはありがたかった。

急にポスカだけ

カメラと舞台照明、これはマジで相性が悪い。
明るさはまだいいけど、色が出ない。
僕がよく使う色は画面に映らない。薄い色を重ねて、立体を作ることが出来ない。気分としては、水彩で今までやってきたのに、急にポスカだけです。って言われた気持ちだ。

色を見せたいわけではなくて、それは背景なんだけど。
なんせ写りが悪い。理由は明確だ。
カメラが色を出せる構造に、カラーフィルターが絡んでるからだ。
カメラの映像素子は、色を分解するために、カラーフィルターが付いている。
そのフィルターでカメラに入る光を仕分けして、映像を取り込む。

ベイヤーフィルター Wikipediaから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC

ま、つまりこういうことだ。
偽色が出ちゃう。カメラに対して斜めからの明かりにも弱い。
斜めからの明かりに色が入っていると、色ズレが起こってしまう。
これは構造上仕方がないことだ。
完全にこれに合わせていくことは不可能に近いと思う。
細切れで映像を撮って行って、編集して、カラーをシーンごとに整えていけば、出来なくはないと思うけど、それだともう舞台であるということが言えなくなってしまうと思う。

舞台の配信の条件ってなんだろうか

夏の夜の夢のNY版を映画館で観た時に、これは舞台っぽい映画で、舞台じゃないな。って思った。

場面ごとに抜きで撮って行って、後で編集して見せられているので、どんなにうまい俳優でも間に素が出来てしまう。ライブ感みたいなものが無くなってしまっていた。

とりあえず始まりから終わりまでの時間くらいは共有したい。
観る側に取っては、いつ見ようとも視聴開始から終わりまでの時間が共有できていればいいので、特に同じ時間に配信を見る必要もないよな。って思ったりもする。

この辺りの匙加減はどこで判断されるものなのか、今はわからないことなんだな。って思ったりもする。

「始まって終わる」

僕にとって、舞台が好きなのは始まったら、そのまま終わりに向かって走っていくということだ。そして、そこにあるものが収束していく。
その時間を過ごしたことによる、ある答えが提示され、自分の中にある答えが生まれる。それは作品についてのことかもしれないし、自分についてのことかもしれないし、観客の個々の中に生まれるものなので知ることが出来ない。
そういうものが舞台だと思っている。演劇に限らず、何を見ても起きることだと思っているし、何を人に見せても起きることだと思う。

相変わらずまとまらないまとめの話

さて、配信の話からだいぶ逸れた。
今回は、こんなことを考えながら公演に向かっていきたいと思う。
観客を現地に呼ばないので、その場合にいるスタッフ相手に上演をする感じなるのかもしれない。俳優としての心持ちとしてはどんな感じなのだろうか。

いろいろとVlogに残そうかと思っている。

セッティング動画もまた新しくアップしようと思う。

では、また。

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