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人が存在していると確信できるものが好き

どうも。xiaoxingです。

あなたが住んでいる場所ではけたたましいバイクや車の音は聞こえるだろうか。おそらく暴走族が鳴らしている、ブルンブルンとうるさいあの音。

昨晩はいつもよりうるさく、長く滞在していたようで、なかなか寝られなかった。

寝られないので考え事でもしようと思っていたら、遠くへ行ったバイクの音に耳を澄ましている自分に気づいた。

家の近くを通っている時は正直めちゃくちゃうるさいし、鬱陶しいし、イライラする。早くどこかへ行け、と思う。

しかし、少しずつ遠くなり、うるさいと思わないくらい、それでもバイクの音が聞こえるくらいの音は好きかもしれないと思った。

何故だ?何でバイクの音に耳を澄ませるんだ?

なかなか寝られず頭も少し冴えてきた夜半、しばし考えてみることにした。

そういや私は遠くを見ることが好きだ。私が住んでいる街は割と田舎で、高層ビルなどは建っていない。

近くに住む祖父母の部屋は団地の5階にある。5階にもなれば周りの景色はかなり遠くまで見渡せる。誰にも何も言われなければしばらくその景色を見続けているだろう。

反対に、YouTubeで知らない人が撮った、夜に首都高を走る映像などを見てしまうほどに、高層ビルがたくさんある都会の夜景も好きだ。あとは何の変哲もない街の日常を切り取ったような昔の写真。つい最近閉店されたばかりの何も無くなった暗い店も。

これらと遠くへ行ったバイクの音は一見何の関連もないように見える。

でも実はあるのだ。それがタイトルに書いた「人が存在していると確信できるもの」だ。

団地の5階からは霞がかるほど遠いところに橋が見える。橋の上を車が通る。もちろん車には人がいる。

夜景が綺麗に見えるのは周りが暗いのにビルの電気が付いているからだ。おそらくほとんどと言っていいほど中には人がいる。

過去の写真。その人が今生きているかどうかはあまり関係ない。しかしその写真の中では確実に存在していたということになる。

「○月○日に閉店致しました」という張り紙が貼られている店の中を覗くと、何も置かれていないことが多い。それでもここには色々な商品が置かれていたり、料理が提供されたりしていたはずだ。つまり、確実に人が存在していた。

バイクの音も同様である。誰かが運転しているから音が聞こえるし、だんだん遠くへ行く。どこへ行くのかは知らないし、そんなことどうだっていい。

とにかく、遠くにいる(いた)人に思いを馳せるのが好きなのだ。

時々、自分を客観的に見ることがある。私がいる後ろの斜め上から「私」という人間を操縦しているような気分になる。

そして私は「私」以外の人間になることはできない。イタコのように自分の中に他者を取り込む存在はいるが、普通はできない。

でも人は私だけじゃない。知らない人であるほど忘れがちだけど、すれ違う人や遠くにいる人にも心があり、その人は「その人」という人間を生きている。

何だか哲学的な話になって分かりにくくなってしまったが、とにかく私以外の知らない誰かの人生を考えるのが好きだ。

「あの車は何の目的でどこに行くんだろう」「こんなに遅い時間までお仕事なんてご苦労様です」「ここへ来た人はどんな思いでこの店の商品を買ったんだろう」

そんなこと考えたって意味がないのは分かっているけれども、考えるのが好きなんだからやめられない。

今まで何となく疑問に思っていたことの答えを導き出した私は疲れていつの間にか眠っていた。

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