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「ごめんなさい」が言えない

人生は時として、とても残酷で卑劣なものだ。

さっき好きな人に振られてしまった。

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうというけれど、私の場合は逆だった。悲しくて惨めで、嫌な時間ほど時が止まったかのようにスローモーションに感じる。目の前で大声を出しながらまくしたてる寛太の顔はちょっとぼやけていて、唇の動きもびっくりするくらいゆっくりと、大きく開いたりきゅっと結んだり、白くて綺麗に揃った歯並びさえも目視できるほど優雅に動いている。彼が何を言ってるかはよく聞き取れないけれど、今まで見せたことのない涙の線が2筋、顔の皮膚の表面で玄関の貧相な蛍光灯を反射して輝いていることだけはわかる。そして、どうしようもなく冷静で涙ひとつこぼれない私がそこにはいた。まるでこの悲劇を、スクリーンで見る映画のように俯瞰している。自分の身に起きていること、という認識がうまくできない。皮肉なことに、頭の中ではラヴェルのボレロがフェードインで流れだしていた。口をだらしなくあけたまま瞬きも忘れて、寛太を見つめることしかできない私は、最後に彼が背後のドアノブを握り、扉をあけた状態で何か小さく呟いてから外に出て、その扉がパタンと閉じると同時に私の脳内のボレロが鳴り止むまで、ついに「ごめんね」や「さようなら」のひとつも言えずにその場に立ちすくんでいた。最後に、ぶおんと寛太が原付に乗ってどこかに行ってしまう音だけが、ずっとこだましていた。

そこから、私は何も感じなくなってしまった。スケッチの練習をしても身が入らないし、景気付けに映画館に行っても心底退屈だ。ツイッターで急にバズって人気が出た、童貞の夢みたいなランデブーの洋画を垂れ流す巨大スクリーンの前で、機械的にシートに座っている無感情な自分にだんだんうんざりしてくる。Lサイズの味がしないジンジャーエールを音を立てずに一気飲みして、尿意のままにそそくさとシートを外す。トイレに座って用を足しながら、そもそもどうして着の身着のままレイトショーに足を運んだのかを思い返す。そうだ。つい45時間前に、私のスマホからオンラインで2人分の前売りチケットを寛太と一緒に予約したんだった。便座に座ったまま頭を抱えてうな垂れる。こんな姿勢の人物のポートレイト、どこかで見たような気がする。思い出した、キース・ヘリングだ。去年の今頃は寛太と一緒に山梨県の美術館に行ったんだっけ。…あぁ、寛太。寛太って誰? 違う、寛太か、そうか。

あの日から、私は眠れなくなっていた。毎晩、深夜2時半からが勝負どきだ。業務用パックのミニサイズのスニッカーズをかじりながら、地上波で無駄にヘルシー生活をアピールするテレビ・ショッピングを3枠ほどループで流し、そのチャネルが突然不穏なビープ音を立ててカラーバーしか表示しなくなったら、今度はMacbook Proを開いてYouTubeを垂れ流す。最初の一本は気分で適当に動画を検索しつつ、その後は自動再生のままに動画を流し続ける。いつも、最終的に椎名林檎のMVになるので、ついに歌詞を覚えてしまった。花盛り、色盛り、・・・まあその2フレーズだけだけど。曲名はわからない。

最近は、この曲が流れ出したら一旦Macbookを閉じるようになった。よく見るとカーテンの隙間から優しい光が漏れ出している。1限まであと3時間、2限ならあと4.5時間はある。薄く目を閉じると、脳内のタイムマシンは一瞬で寛太が居なくなった日に戻っていく。閉じようとしているはずのまぶたは小刻みに震えて、寝返りを打っても打ってもしっくりくる姿勢が見つからない。冷や汗のような嫌に冷たい感覚が背中を駆けめぐり続ける。結局、一睡もできないまま体が鉛のように重く疲れた状態でどんよりとベッドから起き上がり、胃と眉間に二日酔いみたいな鈍痛を抱えてシャワーを浴びる。タオルで体を拭いて下着をつけ、そこらへんに落ちているスキニージーンズに足を通し、よれたコットンのTシャツを濡れた頭から被る。リュックを背負い、黒くて大きな製図板のケースを片手にスニーカーを裸足のまま突っかけて外に飛び出した。耳にかけている濡れたままの前髪から、首にかけてすーっと雫が滴り落ち、Tシャツの襟元に染み込む。まあ、今日も朝から暑いし生乾きの髪はなんとかなるか…それより今日こそデッサンの実習に遅れたら、担当の荒川に殺されるかもしれない。それはちょっと怖い。私は足早に学校直通のバス停へと向かう。昨晩でスニッカーズを切らしてしまった。帰りにスーパーマーケットに寄らなくちゃ。

そんな調子で毎日眠れなくてどうしようもないので、ファミレスで夜勤のアルバイトを始めることにした。面接の時はやけに体育会調だった現役バンドマン(自称)の店長は不思議な人だけれど、深夜手当付きで時給は1,350円。エンジニアの有給インターンをしている寛太と付き合ってから私はロクにバイトもしていなかったし、これから貯金してインドかどこか海外にも行きたいので、眠れない時間潰しにはぴったりな対価交換だと思った。おまけにドリンクバーのソーダも飲み放題だし。都心から離れた郊外にある私の大学の近所のファミレスは、一晩に2組くらいのクソうるさい学生グループの襲来を除けば割と悪くない職場だった。

なんといっても同僚が愉快なのがいい。美容系の専門生の夏目と、同じ大学で外国の法律をやっているヤッちゃんとはすぐ仲良しになってラインを交換した。2人は私と同じ21歳で、最低の下ネタしか言わないけれど居心地が良くて最高に楽しい。私の3週間後に入ったアニメ好きの留学生のユンともすぐに打ち解けた。深夜の学生レギュラーはもう一人いる。同じ大学の同じ学年らしいのだけど、学校では一度も見かけたことがない南米文学科の鹿尾くんだ。鹿尾くんは背が高くて色が白くて、すらっとしてるけどあんまり活気があるタイプではない。彼と夏目は近所の同じ中学出身で、彼女はよく鹿尾くんを「残念ボーイ」といじっていた。ヤッちゃんも、同時期にバイトを始めているせいか、それともヤッちゃんが彼の気を引こうとしているのか、2人で話をしているところをよく見かける。いっぽう私と鹿尾くんとの関係は、業務以外では「お疲れ様です」「お先です」くらいのコミュニケーションをとる程度。唯一のエピソードは、私が貰ったロスのロールケーキを先に上がるタイミングで鹿尾くんが全部食べてしまったことだ。実は私は根に持っている。彼は多分、そのケーキが私のキープだったことを今の今まで知らない。

今日も締め作業を終えて、賞味期限ギリギリの生パスタとスライスしたフランスパン(店長はバゲットって言わないとちょっと怒る)何切れかをビニールに詰めて家に帰る。ベッドに突っ伏して目を閉じた次の瞬間、目を開くと登校にちょうどいい時間の朝を迎える。シャワーを浴びて体をすっきりさせ、いつものようにデッサンへと向かう。心なしか荒川が最近優しい気がする。今度ユンにデッサンのモデルを頼んでみようかな。インスタのフォロワー数はえげつないし、私の絵を広めてもらっちゃったりして。でも、いくら友達でも投稿を頼む度胸が私にはない。こんな時、臆さず頼める性格だったらよかったのに。ていうか私、自分のインスタにアップすればいいのに。

その日のシフトは、私がレジ兼ご案内の担当だった。有線放送のチャネルを勝手にBonjour Recordsに変えたりしながら、レストランの入口付近で突っ立っていると、いつものようにお客さんがやってくる。一晩に2組のルールに則ると、彼らは今夜で最後の学生グループのはずだ。5〜6人の男女で、明らかにほろ酔いの一行を「お好きな」角のテーブルに押し込めてから、グラスに水を注いでお冷を7人分用意する。人数を数え忘れたので、ちょっと多めに準備して運んだ。手前の男の子にちょっと見覚えがあるので、きっと同じ大学の人だ。一方では電話をしていたり、また一方では男女がやけにぴったりとくっついて座っていたり、学生独特の生々しさを醸したアルコール臭に、思わず微笑んでしまう。さあ、ご注文は何かな? 

さっきまで電話していた人が、ほろ酔いながらに礼儀正しく、私に「すいません、もう1人くるんで」と発する。彼女のネイルは私の好きな色だった。「かしこまりました」と笑顔の私。案外ファミレスの空間にもマッチする、トゥー・ドア・シネマ・クラブのポップな曲がフロアに流れ出す。

レジ付近に戻ると、注文待ちの夏目がキッチンルームから出てきていた。

「師匠、イケメンいた?」

「うーん、夏目が好きかはわからんけど池松壮亮っぽいのが居たよ、でも女の子がべったりだった」

「まじか、オケ。ちなあたし、池松壮亮、スキ」

「いやポニョかよ」

夏目は私を師匠と呼ぶ。別に何も教えを説いたことはないが、夏目が師匠と呼ぶなら私はそれで良い。入り口の外でバイクっぽい乗り物が駐車場に入ってきたのが、二重のガラス戸越しに映るライトの一瞬の眩しさでわかる。夏目と私で池松壮亮が出ていた映画についてニヤニヤしながら話していると、ピンポーンとベルが鳴る。夏目は、はぁいただいまぁと間延びした定型文を発声してから角テーブルに向かっていった。

カランカラン、と扉が開いた。きっと、さっきバイクで来た追加のお客さんだ。電話していた子のボーイフレンドかな? 入り口で準備万端の私が濃縮還元130%の営業スマイルで迎えた先に現れたのは、新品の原付のヘルメットを抱えた寛太だった。

ぐわん、と心臓が大きく波打った。

目が合った寛太は、そして私の名前を呼ばない。ズボンのポケットに左手を入れたまま、さらりと会釈をして、角のテーブルに向かっていく。と思ったら、踵を返して私のところに引き返してきた。私の眼に映るビジョンは急激にスローモーションになる。視線は、前よりも短く切った寛太の髪の毛先から、ふっくらとした頰、さらに下のチェックシャツを通り過ぎて、これまで見たこともなかった、くすんだシルバーのリングをはめている右手の人差し指へと移る。

「あのさ、ごめん」

寛太は多分そう言った。あああああぁのぉおさぁああーーー、ごぉぉぉおめぇえんーーー。耳の奥で寛太の声がエコーして、私はうまく声がでない。苦し紛れに小さく会釈をすると、背後からニンニクとトマトの生温かい匂いを感じた。鹿尾くんだった。私の意識は深夜のファミレスという現場に引き戻されて、頭の時計の針が再び正常に動き出す。

「おぉ、松永。お疲れっす」

「あ、かのちゃんお疲れ」

両手に色違いのパスタを抱えた鹿尾くんは寛太に挨拶すると、するするっとフロアに消えていった。寛太は再び私の方を向きなおし、話し始める。

「あの時、言いすぎたって思ってる。電話も何回もしようと思った。やっぱり、俺が悪かったと思うんだ。だから、やり直せないかな。考えといて」

それを聞いた私が目線をやや落としたまま無言で頷くと、寛太はそのまま歩き出し、角のテーブルに溶け込んでいった。そのタイミングで夏目がこちらに戻ってくる。

「師匠、どうした。大丈夫? あれ元彼でしょ?」

「うん、そう。ヨリ戻したいって言われた」

「まーじーか。…あ、でも、池松壮亮よりいい感じだね、元彼ね」

夏目が言う。軽く冗談を飛ばしてくれるのが愛おしくて、私は顎を上げて無言で笑い返した。夏目は「今日締め終わったら新作のチーズケーキこっそり食べちゃうぜ」と言ってニッと笑い、キッチンへ戻っていく。結局、寛太からの追加注文はなかった。

私が別のテーブルのバッシングをしている間に、寛太たちは帰っていったみたいだ。そのままノーゲスになり、皆で締め作業に入る。こうなると、鹿尾くんが寛太の苗字を知っていたことがやけに気になってしまう。彼がウォッシャーに入ったタイミングで、ドリンクバーから解体したパーツ一式を抱えて私は彼の元に向かった。鹿尾くんはシンクに溜めたみずをぱしゃぱしゃさせながら、大量のお皿を洗ってはすすぎ、巨大なオーブンみたいなウォッシャーに詰めていく。

「鹿尾くんってさ、松永寛太とどんな関係なの?」

「あ、俺のサークルに松永がたまに顔だしてくる感じ。松永と仲良い奴がいるんよ。いつもやまどり公園でみんなでバスケしてる」

「あっ、そうなんだ」

鹿尾くんはそれ以上のことは語らなかった。多分、本当の意味で直接的に仲がいいわけではなく、顔見知り程度の関係なのだろう。それに、私と寛太が神妙な顔で話していたことにも触れてこない。多分、本当の意味で心から興味がないのだろう。鹿尾くんの両手はシンクの中に浸っていてこちらには見えないけれど、彼が皿を洗う動きでゆらゆらとうねる、シンクに溜まった水の波紋は動きを止めない。

「三島さん今度時間ある? 飯行かね」

突然、鹿尾くんはこっちも見ずに呟いた。ちょっとだんまりした後、私もそっちを見ずに「あ、うん。いいよ」とだけ言った。鹿尾くんは「オッス」と返事して私の手元の機材を受け取り、シンクに浸した。

その日の締め作業はやけに効率がよくてすぐに終わり、家に着いた途端ベッドに倒れるようにして私は何週間かぶりにぐっすりと眠っていた。夏目も私も、新作の白桃のジュレを乗っけた涼やかな限定チーズケーキのことはすっかり忘れていた。目覚めると、デッサンの実習がとっくに終わり、昼休みが30分以上も過ぎた時間になっていた。汗でシーツがぐっしゃりだ。早く、洗濯をしてシャワーを浴びなくちゃ。学校の図書館に行こう。

映画『フローズン・タイム』を美術/デザイン系の女子学生風にアレンジ