「計画的に生きる」ということは実は間違いなのではないか

皆さんは「計画的」という言葉にどのような印象を抱くでしょうか。恐らくネガティブな印象を抱いているという人はそういないでしょう。
「常に自分の到達すべき目標をきちっと持っているし、今自分が何をすればよいかは目標から逆算して決める」
こんな勤勉な人物像と結びつけることができるはずです。
反対に「計画的」の対義語にあたるであろう「場当たり的」「衝動的」といった言葉には、なんだか愚鈍でぐうたらな印象がつきまといます。

しかし、「計画」の名を冠し、極めて「計画的」である(あった)のにも関わらず現代においてはほとんどポジティブな文脈で語られない言葉(というより概念)があります。「計画経済」です。
計画経済とは、かつてソビエトをはじめとする社会主義国で採用されていた経済システムです。その道を極めた方から怒られることを憚らずざっくり手短に説明すると、このシステムの主な特徴は、「どの商品をどれだけ生産するか国家が決める」という原則にあります。つまり「好きなようにモノを作って好きなように売る」ことがスタンダードな我々の社会とは真反対ということになります。
かつてはこの計画経済を採用すれば雇用が守られるだの格差が解消されるだのともてはやす人達も一定数いたのですが、結果としてこの経済システムの主要なイデオローグたるソビエトの経済は低迷、建国69年目の年に完全に消滅し、影も形もなくなってしまいました。そういうわけで計画経済それ自体にもケチがついてしまったというわけです。
では何がいけなかったのか。これには諸々の要因が挙げられますが、私が一番なるほどな、と納得できた説明は、大学の教養科目で教授から聞いた「中長期の需要の変化を予想して計画を立てるなんてやっぱりムリ!」というものです。結局経済も社会も生き物ですから、逐次チェックしていかなければその動向を窺うことなど不可能なわけです。これができなかったソ連においては頻繁にモノが不足したり余ったりしていたんだそう。各企業が需供のバランスを考慮し、価格や生産数を都度都度調整する市場経済とはまさに対照的ですね。

「中長期の需要の変化を予想して計画を立てるなんてやっぱりムリ!」という説明は、似たことが人間にも言えるのではないかと思います。もちろん、ソビエトは国家で私たちは人ですから、全く同じ論理なり法則をあてはめて説明する試みには無理がある。ですが、ある種「場当たり的」で「衝動的」な市場経済が「計画的」な社会主義経済を降したという歴史的事実は、やはり強烈な示唆を含んでいるように思います。
人間も国家みたいに長期的な目標を立てたりします。「偏差値の高い学校に進学する」「優良企業に就職する」「仕事で成果を挙げて出世する」といった目標がメジャーでしょうか。これらを達成するためには、それこそ計画的な自己研鑽が必要となります。こういったポジティブな目標の設定と計画的な努力は家族や社会によって漠然と要請され、現代人の美徳であるように語られますが、これが今今の自分の欲求を抑圧するものでもあるということは無視できません。
人生は「今しかできないこと」で溢れています。学生ならば、仲の良い友人と遊びに出かけたり、有り余る時間を使って趣味に没頭したり、恋愛してみたり。ですがひとたび大仰な目標と計画を設定してしまった途端、それらかけがえのない経験を代償に膨大な努力を重ねる必要に迫られます。
しかし実際のところ、長期的な目標の達成が本当に望む未来をもたらしてくれるかどうかはわからない。「志望校に入学できたはいいものの授業もつまらなければ友達もできない」「希望の職場に就けたが、仕事が思っていたのと違う」といった話はザラです。人は思い描いていた理想と現実にギャップを感じたとき、どうしようもなく絶望します。それが努力に基づいた現実であれば尚更絶望は深まります。そういう意味で、あらゆる計画的な努力は絶望への導火線となるリスクを孕んでいると言えます。

このことを考慮に入れれば、その日自分を満足させることに注力した、江戸っ子的な生き方の方が実は正しいのではないかと思えてきます。ただ徒に生を蕩尽してその先に何があるのかね、とツッコまれそうですが、別に何もなくたっていいじゃないですか。どれだけ高尚なことをやろうと最後は死という一大イベントによって無に帰してしまうのだから、易きに流れた方がお得ってもんです。
人間、長期的な目標に据えるような地位やそれに伴う名誉がなくとも、毎日の自分を楽しませる文化さえあれば幸福に生きることができます。きっと「場当たり的」で「衝動的」であることがその文化の内訳でしょう。実際、勤勉なサラリーマンよりも田舎のヤンキーの方がなんだか幸せそうに見えますし(個人の感想です)。

それに、今日がどうしようもなくつまらない日であったとしても何ら気にする必要はありあません。それのために生きられる(死ねる)と言い張れるほどに打ち込める何か、あるいは奇跡的に性格の合う誰かが、くそったれな人生から私を救い出してくれるのは明日かもしれませんしね。というわけでみなさんおやすみなさい。






ところで、ここまで書いたこと全部本心ではありません。どう考えても計画的かつ臨機応変に生きる人の方が正しいです。以上、無計画に今日という一日を消尽してしまった自分を正当化するためのさもしい試みでした。
それと、noteへの初めての投稿だというのに偉そうなタイトル及び本分を拵えてしまったことをここで謹んでお詫びいたします。

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